水彩りんごのエンゲイジ
もしくろ
第1話
夏特有の熱気と臭いがようやく薄れ始めた水田が視界一杯に広がっている。もう少しすればツンとした稲穂が空を目指すことを諦めて頭を垂れ始めるだろう。
なおも緑鮮やかなあぜ道の脇では目に痛いほどの朱色を戴いた彼岸花が風で揺れていた。絵心でもあれば、もしくはカメラでも持っていれば絵に収めたい場面だったけれど、残念ながら僕はどちらも持ち合わせていない。
電車に乗って、新幹線に乗って、電車に乗って、バスに乗って、さらに徒歩。五時間をかけて僕はこの光景に辿り着いた。
目当てはこのさらに先にある、祖母の家だった。
盆に墓参りできなかったので、この秋の連休を利用してご先祖様に挨拶をするという名目で、僕は一時だけでも御中だの御社だのグループディスカッションだの自己アピールだのという強烈な現実感のある言葉から逃げようとしていた。
額に僅かに汗を浮かべながら数分を歩いて目当ての集落に辿り着く。記憶のある十数年前に比べ、大抵の家はリフォームをして僕の家なんかよりもずっと立派な建物になっている。それにも関わらず、落ち着いて静かで、少し寂しい雰囲気は変わらない。
大きな枇杷の木に玄関を占拠されている青い屋根の家が、祖母宅だった。
その途中、麦わら帽子を被った女の人が、隣家に入っていくのが見えた。髪の長い若い女性だった。
ついにあそこの家にも嫁さんが来たのかなんて思いながら、僕は古びており音が鳴るかおおいに怪しいチャイムを押しこんだ。
少しして、祖母が現れたのは玄関からではなく裏庭からだった。庭仕事でもしていたらしく、柔らかそうな綿の服の膝が土で汚れていた。
「圭一か、早かったな、よう来たなぁ」
「婆ちゃん、外の仕事があるなら俺がやるって言ってたのに」
「年寄り扱いすんでねェ」
「年長者を敬ってるだけだよ」
祖母は達者な人だった。
背は曲がり、肌にも抗いようのない年月が刻み込まれているものの、もう90歳近いというのに一人で矍鑠と暮らしている。長寿の秘訣はここの米と魚を沢山食べているからだとのたまっているが、同じものを食べていたはずの祖父は10年前に上の方へ単身赴任へ行ってしまった。
祖母と二人で玄関をくぐると、綺麗な室内が目に入る。
リフォーム済の内装には昔の思い出は残されていない。かつて僕は祖母宅の廊下の角を曲がりきれずに何故か走って壁に頭から激突し続けたことがある。国語の成績が芳しくないのはそのときのせいだと思い込むことにしていた。
荷物を下ろしてまず和室へ。線香の匂いが強く染み付いたそこで、僕は祖父と先祖に挨拶を済ませた。
それから居間に戻ると、祖母がお茶とせんべいを出してくれていた。腹は減っていないものの断りづらいのでそれを口に運びながら、僕は隣家の方向を見やった。
「そういえば、お隣に若い女の人が居たね」
「ああ、見たんか」
「ここらに若い嫁さんが来るなんて珍しいね。綺麗な人だったし」
「……」
すると祖母は何故か僕をまんじりともせず見つめたまま、何かを考えているようだった。そして咀嚼を終えてせんべいを飲み込む頃、古ぼけた座椅子に座っていた祖母は唐突に立ち上がり、隣の台所へ行ってしまった。
少しすると祖母は何かが入った重そうなビニール袋を提げて戻ってきた。
「あの家な、もう元居た笹見さんはおらんのよ」
「え、そうなの」
「畑を売って町の方へ越しちまった。それで今は納屋をアトリエにするとかで親戚の画家の娘さんが住んでる」
「ああ……それで、スケッチブック持ってたのか」
僕はその画家さんと思しき後ろ姿を思い出す。麦わら帽子を被っているわりにどう見ても畑仕事帰りで無い恰好の彼女は、脇に大きなスケッチブックを抱えていた。
「でな、臭いんよ」
「え……?」
「油絵だか何だか知らんが風に乗っていやーな臭いが流れてくる」
「別にしないけど……」
僕が鼻をすんすんと鳴らしながら臭いを探すと、祖母は問答無用とばかりに袋を押しつけてきた。
「いいから、これ持って行って来い、んで窓締めてやれって注意して来い」
僕の四倍以上の年月を経た強い目に、抗うことはできなかった。働かざる者食うべからずと駄目押しの言葉を背に受けながら、僕は一休みする間もなく祖母宅を出て隣家へと向かった。
◆
隣家の、祖母宅と負けず劣らず古めかしいチャイムを鳴らすと、インターホンに出る様子は無く、やがて磨り硝子の二重扉の向こうに白い人影が現れる。僕は背筋を伸ばしてそれを迎えた。
がらがらと引き戸を開けて出てきたその女性は、僕を見上げてきょとんとした顔をする。
「ええと、どちら様で……?」
「あ、隣の安谷です。いきなりすみません、祖母がどうも油の臭いが嫌いだと言っているので、申し訳ないんですが、窓を閉めて作業して欲しいんですけど……」
すると女性はさらに首を傾げる。長い髪がさらさらと揺れていた。Tシャツにジーンズという簡素な服装だったけれど、僕は思わず見とれてしまう。
「うーん……うちは水彩なんだけどなぁ」
「――っ」
時既に遅し。
祖母の下手な『粋な計らい』に気付いた頃には、僕は後戻りできないところまできてしまっていた。
「あ、でもこの前シンナーでテープ剥がしたからそのせいかな。ごめんなさいね、次から気を付けます」
「す、すみません、どうも……」
僕の動揺に、幸い彼女が気付く様子は無かった。
要するに、僕が女の人に興味を持ったから祖母が気を利かせてくれて用事を言いつけてきたというわけだ。残念ながらその用事が的外れで僕は危うく不審人物になるところだったが。
綺麗なひとだった。大人びた雰囲気だけど、よく見ると僕より少し年上といったくらいだろうか。切れ長の目に、大きな黒い瞳。凛としたその横顔は画家よりもモデルの方が向いているのではないかと思わせるほどだった。
「あとこれ、祖母からです」
僕が袋を差し出すと、受け取った彼女は中身を見て顔をほころばせた。
「あ、りんご」
中に入っていたのは、このあたりの特産だった。
これは早くに生るタイプのものだが、これから冬まで種類を変えながらずっとりんごのリレーが続くのだ。台風で全滅でもしない限り、しまいにとんでもない安価で無人販売所に置かれることになるそれを有り難がってくれるのは何だかむず痒かった。
「ありがとう、丁度静物のモチーフ探してたところだったんだ」
そう言って、彼女は袋を携えたまま玄関から外に出て来た。そして僕の脇を通り抜けた後、振り向く。ふわりと広がる髪が、何故か鮮やかに僕の目に焼き付いた。
「どうせならお茶飲んで行ってくれるかな?」
「ええ、喜んで」
僕は否応もなくこくこくと頷いた。
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