49話 ごめん

 いつものように出張のついでにこちらへ寄ったのだろう。

 けど、まさかこのタイミングで来るとは思わなかった。


『あの……。せめて連絡してもらえたらありがたか――』

『何を言ってるの?』

「ひっ……」


 苛立ちを孕んだ声に体が震え、小さな悲鳴があがる。


『事前に連絡したら私に隠したいことを取り繕えるじゃない。そんなのするわけないでしょ』

『す、すみません……』

『面倒くさい。どうして私がこんなことをしなきゃ……』


 愚痴を吐きながら、母さんは部屋の中を調べ始める。


 定期的にこうして検査が入るのだ。

 俺が母さんと父さんに都合が悪いことをしていないかという検査が。


 義理の子どもとはいえ、今まで彼女らに従順に生きてきた俺はまだ信用されないらしい。

 というか、もう自分の子どもとすら思われてないんじゃないだろうか。


 その孤独感が、余計に俺を震え上がらせた。


 ……怖い。


 イヴと関わったおかげで少しか物を言えるようになったかと思ったが、全然ダメだ。

 母さんに睨まれるだけで声が出なくなるし、体が動かなくなる。

 何も考えられなくなって、ただ怯えることしかできない。


 もう、自分じゃどうしようもないのだ。


 だから、俺は素直に母さんの言うことに従うことしかできなかった。


『――何これ』


 母さんの調査を床にへたり込みながら待っていると、ふと低い声が部屋を揺らす。

 顔を上げれば、母さんがこちらにイヴの制服を掲げていた。


『そ、それ、は……』


 しまった、母さんが家に来たショックで忘れていた。


『女を家に上げたの?』


 歪んだ眉毛。

 鋭い瞳。

 脱力した口角。


 顔を見たら分かる。

 母さんはものすごく怒っている。


『……母さんの思っているようなことはしてません。昨日の大雨のせいで帰れなくなった友達を、一日泊めただけです』

『お前は人と関わりたくないんじゃなかったの?』

『っ――!』


 母さんは膝をつき、俺の耳に口を寄せる。

 そして寒気がするほどの物静かな声で言った。


『だってそうよね? 出会えば、必ず別れることになる。その苦しみをお前は忘れたの?』

『それ、は……』

『別れるのが苦しい。なら、そもそも出会わなければいい。そうすれば自分が苦しむことも、悲しむこともなくなる。そうよね?』


 ……本当に、そうなのだろうか。


 確かに別れるのはすごく苦しい。

 でも、イヴと過ごした日々はそれ以上に幸せだった。


 その気持ちは、嘘なのだろうか。


 答えられずにいると、母さんは俺の左頬を思い切り引っ叩く。

 久々に感じた痛みに手を当てながら耐えていると、母さんはさっきよりも語気を強めて言った。


『そうよね?』

『……はい』


 本当は、頷きたくなんてない。

 でも母さんに逆らうのは怖いから、頷くことしかできない。


 それを、ただひたすらに言い聞かせることしかできない。


『この制服、どうするの?』

『……彼女がもう一日ここに泊まるので、明日持ち帰らせます。今は着替えを取りに帰宅しているところです』

『取り消しなさい』

『えっ?』

『何、当たり前じゃない。関わりたくないならどうしてもう一日泊まろうとするの?』

『俺は関わりたくないなんて一言も――』


 甲高い打撃音が響き渡る。

 再度殴られた左頬がジンジンと痛む。


『誰に口答えしてるの?』

『……すみません』

『早く取り消しなさい、私だってわざわざ時間を割いてここにいるの。暇じゃないのよ?』


 したくないって言いたい。

 イヴと関わりたいって言いたい。


 でも……。


『おい』


 同じところをまた殴られる。

 俺の頬は今赤くなっているのだろうか。


 それを知るのは、母さんしかいなかった。


『早くしろ』

『……はい』


 ズボンからスマホを取り出し連絡帳にあるイヴの番号に電話をかけると、手の震えを抑えながらゆっくりと耳にあてがう。


 やがて呼出音がプツッと切れると、心臓の鼓動が感じたこともないくらいに早くなった。


 嬉々とした彼女の声が聞こえてくる。


『シュウト? 今ちょうど準備終わったから、もうすぐ家出る――』

『今日の泊まりはなしにしてくれ』

『……えっ?』


 気の抜けた声。

 かと思えば、今度は心配そうな声が俺を呼んだ。


『……シュウト?』


 さっきと声色が違うから動揺しているのだろう。


 心配をかけたこと。

 一緒に泊まれないこと。

 いろんなことへの気持ちを乗せながら、俺は端的に言った。


『……ごめん』

『何を言って……ちょっと待って、まだ切らな――』


 フックボタンを押し、通話を終了させる。


 母さんへと視線を飛ばすと、彼女の顔は少しだけ穏やかになっていた。

 どうやら怒りは収まったようだ。


『さっきの女とはどういう関係なの』

『……付き合うことを約束している仲です』

『一ヶ月だけ時間をあげる。それまでにその女との関係を完全に切りなさい』

『えっ?』

『別れるのが怖いなら、入れ込むのをやめること。いいわね?』

『…………はい』


 頷くと、母さんはため息をつきながら立ち上がって部屋を後にする。


 独り残された俺は、その場に蹲って嗚咽をこぼすことしか出来なかった。

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