16話 金髪美少女は早く日本語を覚えたい

『――というか、早く勉強を始めよう。あんまり時間が遅くなると明日に響く』


 緊張していて忘れそうになっていたが、あくまで俺たちは勉強するために通話をしているのだ。

 こうして雑談するために通話をしているわけじゃない。


 それにこれ以上話していると、どんどんイヴのペースに巻き込まれてしまいそうだ。

 危惧した俺は、彼女の楽しそうに話す言葉を遮るように口を開いた。


『私はまだ大丈夫だけど? いつも日を跨いでから寝てるし』

『遅すぎだろ。お前はともかく俺が早く寝たいんだよ。だからさっさと終わらせるぞ』

『はーい……』


 イヴが残念そうに声を上げる。

 正直、俺も彼女と話すのが嫌ではなかったが既にもう少し眠かった。


『今回は、日本の挨拶についてやっていくぞ』

『書きはやらないの?』

『……ビデオ通話が必要になるから今日はやらない』

『意固地だなぁ。もう気にしてないのに』

『でも俺の顔を見るとまた思い出すだろ』

『それは……そうかもしれないけど』

『思ってなくてもせめて否定はしろよ』


 否定したらビデオ通話ができるかもしれなかったのに。

 こういう謎に正直なところがあるから、イヴは量れなかった。


『英語は朝昼晩でそれぞれ“おはよう”と“こんにちは”と“こんばんは”って挨拶がかわるだろ? それと同じように、日本も朝昼晩で挨拶が変わるんだ』

『うん』

『朝の挨拶は「おはよう」』

「オハヨー」

『いいぞ。昼の挨拶は「こんにちは」』

「コニチハ?」

『ううん。「こんにちは」』

「コ、ニチハ」

『惜しいな』


 どうやら彼女ははつ音も苦手のようだ。


 調べて分かったが、こういった「ん」といった発音の撥音や、「っ」のような促音、「ー」のつく長音を日本語は一拍で捉えるのに対し、日本語以外の多くの言語は一拍で捉えることが少ないらしい。


 俺はイヴに日本語を教えるとき、とにかく言葉の意味が伝わればいいと思っているためあまり細かな発音には言及していなかった。

 しかし拍の間隔がずれてしまえば意味が伝わらないこともなくはないので、ここは言及せざるを得ないのだ。


 例えて言うなら、俺はある程度字が汚くても読めればそれでいいという精神でやっている。

 でも今のイヴの発音は字がとても汚くて読めないのと同じく、発音が本来の物とかけ離れていて意味が理解しにくいのだ。


 だから、ある程度修正してあげないといけない。


『ゆっくりいくぞ。「こ、ん、に、ち、は」』

「コ、ン、ニ、チ、ハ」

『そうそう。「こんにちは」』

「コンニチハ」

『おっ、上手になったぞ』

『ほんと?』


 俺の反応が良くなったからか、イヴの声も明るくなる。


『あぁ、もう一回いこうか。昼の挨拶は「こんにちは」』

「コンニチハ」

『うん、上手』

『やったっ』

『次は夜の挨拶だ。夜の挨拶は「こんばんは」』

「コンバンハ」

『おっ、一回でいけたな。いいぞ』

『また「ン」がついてたから、意識してみたのっ』

『正解だ。イヴは「ん」の発音が苦手だから、そこを意識して話すといいぞ』

『うん、わかったっ』


 イヴの声が嬉しそうに跳ねている。

 てっきり日本語が上手に喋れて嬉しそうにしているのかと思ってたが、どうやら違うようだ。


『私、シュウトに褒められるの好きっ』

『そうなのか?』

『だって、シュウトが私を褒めてくれるとき、シュウトの声が優しくなるんだもん』

『優しく?』

『なんというか、お母さんみたいな声がするの』


 慈愛に満ちた声、とでも言いたいのだろうか。

 いや、その例えを自分で言うのもおかしな話かもしれないが。


『よく分からないけど、イヴが頑張って覚えようとしてくれてるからな』

『……やっぱり、シュウトは優しいね』


 本当にそう思っているのだろうが、彼女はあえていつものように俺をからかうつもりで言ったのだろう。


 でも、俺はその言葉に思わず苦笑してしまった。


『別に、優しくないよ』

『……シュウト?』


 やけにテンションの低い声に違和感を覚えたのだろう。


『なんでもない、気にしないでくれ』

『そういえば、シュウトはどうして英語を喋れるようになったの? 誰かに教えてもらったの?』

『いや、独学だよ。独学って言えるのかどうかもちょっと怪しいけどな』

『そうなんだ……ねぇ、シュウト』

『どうした?』


 聞き返せば、イヴは恐る恐るといった様子で一つずつ言葉を紡いだ。


『シュウトは、英語が好き?』

『……嫌い』


 言うつもりはなかった。


 でも、イヴの質問には何の脈略もなかった。

 だとすれば、もしかしたら……彼女は薄々気づいているのかもしれない。


 俺が、英語が嫌いなことに。


 そう思ったら、言えずにはいられなかった。


『ねぇ、シュウト。早く日本語教えて。私、早くシュウトと日本語でお話ししたい』

『無理しなくていいんだぞ。ゆっくり覚えていけばいいんだ』

『それでも私は無理したいの! というか、無理もしてない。シュウトが元気なさそうにしてるのに見て見ぬふりをするのが、一番無理してる』

『イヴ……』

『どうして英語が嫌いなのかは分からないけど、それでシュウトが元気をなくすなら私はシュウトと英語でお喋りしたくない。だから、私に日本語を教えて?』


 スマホ越しだから、イヴが今どんな顔をしているかは分からない。

 それでも、悲しそうにしているのは分かる。


 分かった瞬間、何故か嬉しい気持ちが胸いっぱいに溢れてきた。

 彼女は今、悲しんでいるというのに。


『……ありがとう』

『それは私のセリフだよ。今まで英語で話してくれてありがとう、でも私が日本語を話せるようになるまでもう少しかかるから、もう少しだけ英語で話してね』

『もちろん』


 俺は英語が嫌いだ。

 本当は、英語を話せるようになんてなりたくなかった。


 でも、イヴと会話ができるなら、英語が話せてよかったかもしれない。


 彼女と関わってはいけないことも忘れて、俺は素直にそう思うのだった。

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