第3話

あぁ、眠たい。

 限りなく男子高校生に寄り添った、どこか心地よい温かさの空気が全身を取り巻くこの時間帯は、どうしようもなく、眠たい。

 現役、、男子高校生の身としては、かなり、眠たい。

 それはプール授業後の古典(六時限目ならなお良し)のようなもので、運動なんて行為とは顔だって会わせたがらない音葉にとっては、水中のクロールも、水桶内の水上置換もなんら変わりなく、体を動かすことに違いないのだ。

 風呂場の桶にだって顔が付けられるかすらあやしいんだぞ

 あぁ、眠い。

 というか実は夢かもしれない。

 これは大袈裟。

「どうだった?久しぶりの実験は」

 取り敢えず頬をつねってみる。もちろん痛い。もちろんであっては困るのだが。

 どうした?

 とかの、、有名な忠犬みたいな眼差しを向けてくる文月に、ほんの少し、ほんの少し罪悪感が湧く。

 無論口には出さないが、そう文月から話しかけられるまで存在すら忘れていた、とまではいかないまでも、別に気にしてもいなかったのだ。気にならなかったの方が正しいかもしれない。ただ、眠かったのである。

 睡眠不足である。

 それもかなり重度の。

 人間、数少ない友人と睡魔とを天秤にかけられてしまえば、本当の本当に数が少なかったとしても、唯一であっても無二であっても、勿論無であっても、限りなく本能的な方を取ってしまうらしい。

 本能なら、仕方ない。納得である。

「ん?ああ、いや。別にどうもしないさ」

「あ、そう───じゃなくてな。どうもしないってなんだよ。なんかさあ、その、感想くらいあんだろ」

「感想?そうだなあ。まあ、あの先生は実験くらいしかまともな授業しないし。そう考えたら、いつもよりかは有意義だったかなあ」

「はっ、有意義、か。本当に可愛くない教え子だな、音葉は」

「⋯⋯お前までそれを言うか」

 〈文月しばし溜息〉

「なんなら全人類の代弁者だと思って欲しい。こんな礼儀とかけ離れた奴気にかけるはやみんが可哀想だよ。不憫だ。恩知らずだ。なんなら俺が貰ってやりたい。情状酌量の余地しかないぞ」

「俺に言うべきでないことが混じっている気もするのだが───まぁ、そうか。そりゃあ悪いことしたな。いつの間にか速水先生が被告になってやがる」

 アイツが何したってんだ。

「にしても、はやみんか。は、や、み、ん」

「ん?」

 別になんでもねぇよ。

 というかお前も舐め腐ってるじゃねぇか。何が「はやみんだぞ。はやみ〜ん」だ。

「はやみ〜いん、はやみいいいん〜」

──なんてくだらない会話にいそしむ二人は、窓の外を見つめていた教室、教科書をなぞるためだけに移動した実験室を経て、別名科学棟と呼ばれるA棟を離れた後、校内の中枢施設の集まるB棟に向かっていたその最中であった。

 この学校には他にもC棟、通常授業の行われるホームルーム棟があり、まぁそれなりに、というかかなり充実したつくりをしている。五百人ほど入る食堂はもちろん、何をするでもないイベント会場や基本満席にはならない大きめのカフェ、客の半分以上は校外から賄っている生徒無料の映画館に、大した活動もしない運動部たちが持て余している、野球場が五、六個は入るだろう校庭なんかの設備。日本中を探してみてもそうそう見つからないであろう広大な高校である。

 つまりは、形だけのエリート校。

 言い換えれば、無駄金。

 実際、二人にとってはそんなことどうでもいい、、、、、、、、、、、のだが、一応は未来を期待される若者が集まった、向上心の高い中学生なら一度は夢に見る高校、ということになっているらしい。ただ、私は高校生らしい向上心など一ミリも持ち合わせていないのだから、悲しいが共感の欠けらもない。

 共感できなくて悲しい。

 そういう面倒くさい設定の、大層高貴な空間には似合わない無作法な声が漏れてしまう片割れが存在するくらいには、彼らにとって全くもってどうでもいいのである。どうでも良さそう、と言う方が正しいのか。当事者の声───

「うわー、あいつらマジで暑そうだな」

 そう呟く文月の目線の先、A─B通路の少し大きめの窓(教室にあるごく普通のものと、黒板消しをはたくためにベランダらしき場所に移動する時くらいにしか使わない、人一人が出入りできるくらいの大きさのものの丁度中間くらい、と言えば分かるだろうか)からは、冬の乾燥した青空に浮かぶ孤高の太陽に照らされる、それはもう純新無垢そうな少年少女達が姿を露わにしていた。

 体育祭に向けた練習かなんかだろうか。

 全員が同じ色のハチマキをつけ、各場所で各々の種目の練習に励んでいる。距離的な問題で彼らの声はぼやけて、単語的な判別はできなかったが、綱引きの「オーエス」的な掛け声はよく分かり、よく分からない郷愁を音葉に与えた。

───もう自分は郷愁なんて言葉が似合う年齢になってしまったのか?いつの間にかに。

 確かに昔のアルバムを覗いても何の懐かしさも湧かない。それに振り返るほどの過去もない、気に病むような未来も存在しない。年かな⋯⋯

 ………

 …………

 ⋯⋯⋯⋯⋯。

 誰か、誰でもいいから、この可哀想な少年に、高校生らしい、刹那の幻想である若々しさを認めてあげてやってくれ。まだまだ若いのに。

 にしても外は暑そうで、この時期は降水量より降汗量の方が多いのではないかと思うくらいに、彼らの肌がテカテカしている。文月が「マジで───」なんて言うのも、まあ、その通りであり、しかしそれでいて、彼の視線の影からその空間に自分も混ざりたいという好奇心が見え隠れしているのは───まあその通りなのだろう。

 そしてこれまたどうでもいいのだが、電車内のおっさんのハンカチに吸われた汗は忌避されるのに、肌年齢の若い彼らの汗は、青春だとか、アオハルだとか、そんな薄っぺらい言葉で美化されてしまうのは、なんか不公平だと思ったりする。

 特に登下校の電車内で。

 マフラーや毛編みの手袋なんかをつけちゃったりしてる彼女らの視線の先にいる、疲れきった表情を浮かべる彼らに。

 なぜこんなことを言うのかと聞かれれば、それは聞いた話によると音葉的にはどちらも臭いから嫌いだということにほかならなく、私は別にそんなこと思ってもみなかったという事実を述べられる場を設けてくれたことに是非とも感謝したい、今日この頃である。

 勿論、おっさんが好きなわけでも、ない、らしい。聞いた話によると。

 言葉にする必要もなく、私も好きではない。ただ───。

 本当にどうでもいい話ですまない。一瞬の気の迷いである。私はただ、全てに公平でいたいだけ。それだけなのでである。

 少し出しゃばりすぎてしまったな。やはりすまない。ただ、これが後々の伏線になるかもと思って話しておいたのだが、果たしてどうだろうか。

──黙ってろ。伏線なんてあってたまるか

 …………………

「ほんとっ、なんでこんな時期に体育祭なんかやんだろうな。春とか秋にやりゃあいいのに。暑いったらありゃしない」

───お前が言うなお前が。

 そんな心の中に収めた音葉の主張が、悠々と伸びをする文月には伝わる訳もなく、不平、という由緒正しい堅苦しい漢字よりも、complainの方がフランクで似合いそうな顔で口を開閉し続けている。

「夏にオリンピックやんのもおかしいよな。マラソンなんか、普通に死ぬぞ、マジで」

「そう思うんならお前が改正案でも出してくればいい。だけど、まあ、そうは言いつつもお前は元気にやってそうだしな。十キロでも百キロでも」

「なんだよそれ?褒めてんのか?」

「褒めてねえよ。それを言うならバカにしてんのか?だろ。……それに」「それに?」

 珍しく言葉を濁す音葉は別にニコリともせず、芝生の上にそびえ立つピラミッドの土台を担う少年の姿を、いつかの私を横目で通り過ぎた教師のような、決して外には出さない葛藤を抱えた目で見つめる。

 彼らは上に乗る人のために土台になっている。クラスのためにその土台は作られる。

 なら、今音葉の目に映る彼らは共同体に従事する真っ当な人間であることになり、ちょっと心苦しいことを言うために時間をかけて息を整え、

「奴らに情を向けるほど、お前はお人好しじゃないだろ?」

 一息。

 [、]は途中参加たが、自分の中では一息で言ったつもり。

 対して文月はにっこり。ニコリ、ではなく、にっこり。聞けばすぐに絵文字が浮かぶ、あれ。

 そして、その表情に似合わない、台詞。

「───ちげえねぇな」

 誰だってそうだろ。とも言った。

 別に心が冷たいわけでも、高校生が嫌いなわけでもない、ただの、普通、、の文月がそう言っている間に、労働基準法に反した仕事量を任せられる苦労人たちの姿はとうに見えなくなっていて、集合か解散か、それとも休憩か、なんかの合図であることくらいしか理解できない、情報量の少ない笛の音だけが、彼らの頑張りを認めていた。

 ところでなぜ物理の世界では、エネルギーが働く事象を、仕事、と呼ぶのだろうか。時には摩擦だって無視されてしまうその静かな世界の力と、彼らのエネルギッシュな活動は、理数系の科目より余程現代文を好む音葉の贔屓目から見ても、似ても似つかなかった。文法のミスをあの素晴らしく簡潔な頭髪の持ち主である我らが国語担当が見逃してくれると言うのなら、『可哀想が偏っている』とでも言っておこうか。

 なんて無駄な時間だ。ありもしない語法に関する記述。

 こんな文法、ないよね?

 これは多分伏線にならない。

 という伏線かもしれない。

 …………………

「戻りてえなぁ」

 音葉には似合わないであろう、横顔がこれ以上ない程美しく見える表情。〇〇の文月。

 少年少女が、少々大人ぶっている同年代の少年少女を皮肉を込めて表す、───れる、なんて使い方もして、語源がいつ考えてもよく分からない、あの二字熟語のような雰囲気を纏って、だから音葉も茶化すようなことしか言えないわけで。

「お前は、なんだ。暑いのが好きなのか?嫌いなのか?はっきりしない奴はモテんぞ」

「別にー、どっちでもねぇーよっ。あー、でも、冬よりかは、好きかな。さみいと体動かなくなるし」

「⋯⋯いつまでたっても、お前はそういうキャラなんだな」

 また文月は笑顔になる。

 しかし、そこにあるのはさっきの漢気溢れる姿ではなく、もっと、それが微塵も感じられないくらいに弱々しいもので、スポーツマンらしい覇気はなく、水が滴ればそれはいっそ病弱そうに見えてしまいそうな程だった。そんなことがあれば間違いなくタオルを献上しに行ってしまうだろう。わしゃわしゃわしゃわしゃ、と。

「ちげえよ。そんなんじゃねえ」

 文月の語気と同様、心做しか風が冷たく感じられる。お天道様と彼らの間に、遮るものなんて何もないのに。直射日光待ったナシの太陽光発電バンザイなのに。

「いつまでたっても、なんて誇れるもんでもねえよ。俺はただ、舞台に当てられちまっただけ、、、、、、、、、、、なんだからさ」

 文月は再び、先の白衣装着シーンの音葉のような誤魔化しの笑みをつくり、例の、親指を後ろに向ける姿勢をとった。

 第一例と異なるのは、その指が明確な対象を持って、その場に存在していたということだけ。

 どこからか己の存在を主張する笛と一緒に、彼らの頑張りを認めてやっていた、だけ。

「なら、もっと当てられてくればいいじゃねぇか。舞台でもなんでも。なんならドッチボールなんかがいい。当てたり当てられたりだ。それに、まあ、あれだな。最悪お前一人で綱引きなんかどうにでもなるだろ」

 窓を駆け抜け、廊下に飛び出していく風が、強くなる。

 笛の音も、遠のいていく救急車のように、聞こえなくなる。

 文月が重たそうな口を開く。

「出来たら、良かったんだけどな」

 そうこぼす彼の目は、The-B型みたいなその性格に見合って用意が足りなく、光なんて持ち合わせておらず、光を求めてすらなく、語源の分からない例のあの熟語の、「黄」なんて字が明るすぎるくらいに、暗くて、やはり光よりも、影が似合っていた。

 その一見関わることに躊躇を感じてしまいそうな彼の立ち振る舞いが、音葉にはどうしようもなく、助けを求めているようにも見えて、だから彼ももう一度、目標というか、理想というかを、再確認するに至ったのかもしれない。

───お前も、報われなきゃな。

 じゃあ気を取り直して。

「───ちげえねぇな」

 文月の顔に本物の笑みが帰ってくる。それは彼の目の前にいる音葉の表情の鏡写しみたいなもので、つまり何を言いたいのかと言えば、それは高校生らしい、暗い影なんて微塵も感じられない、ただただ高校生らしい、、、、、、光景に、傍から見れば映ったかもしれない、ということだ。

───小っ恥ずかしいこと言うな

 ……直射日光待ったナシで太陽光発電バンザイ充電完了、と言ったところだろうか。

───無視すんな!

 コットン、ナイロン、ポリエステル、人工皮革なんかをツギハギして作られたスニーカーが話し始める。陽光を楽しめるほどの情趣が備わっているのか、それともお天道様の光を求めて生きていた植物時代を思い出してしまったのか、耳が悲鳴をあげるほどの甲高い音が文月の足元から鳴り響いた。

 特に音葉にダメージ。クリティカルヒット。かいしんのいちげき。

 体育館の外にいても耳に入ってくるバスケットシューズの鳴き声みたいな音色。悲鳴。効果は絶大だ。

 不愉快である。

 黒板に爪を立てて奏でるあのトラウマになりかねないあの音並みに、不愉快である。

 加えて、その音に気づいたさっきぶりのオーケストラが、世界的なミュージシャンである彼を迎えに来たみたいだ。

 誠に忙しい。

 さらに言うなら喧しい。騒がしいとも言える。喧騒という熟語がピッタリだ。字面から煩い成分を感じる。

 とは言いつつもこの度は音葉も参加しようと試みたのだが、しかしかえって、白鳥の歌声のおよそ絞りカスのような不格好な音色を出してしまった。

「グ、グリッッ」

 今後一生の不覚として語り継がれるのかもしれない。

 誰に?というか誰が?

 本人がそれをネタにできるほど器用ではないことは、これまでの言動がこれ以上ないほど物語ってしまっているのである。この記録を見つけてくれて、さらにその上読んでくれるような物好きがいたら、あるいは。

「───あ?どうかしたか。転ぶ寸前みてえな格好だったけど」

「いや、別に(早口)」

 ………………。

 かつてのスタンディングオベーションは消え去り、ブーイングの嵐かもしれない。怒り耐えられず立ち上がって。スタンディングブーイングだ。

───これで曲でも作ってくれ。

───曲名は、そうだな。……三分四十四秒、なんてのはどうだろうか。

 閑話休題

「じゃあ、まあ。そういう話はここまでだ。俺らには、その、何だ。するべきこと、、、、、、……があんだろ」

「あぁ。そう、その通りだ。よくわかってる。それで、そのするべきことをするべき場所なんだが⋯⋯」

 これ以降は文月の先輩に、年齢とか学年とかのたぐいで区別されない、例を出すとすれば先輩作家とか、バイトの先輩とか、兄弟子、とか。いや、それは兄か。

 まあとにかくそういうタイプの先輩になるであろう音葉先輩の視線の先、部屋の名称が書かれた札を、文月は小中学生特有のクリクリした輝きに満ちた目で追いかけるように見つめる。

「ここだ」


 ”旧”図書室。

 

 そう書かれた札。いかにもな古い札。

 腐っても自らの学校であったこの建造物にこういうことは言いたくないのだが、殆ど、腐りかけってやつだ。

 その名の通りただの図書室ではなく、昔の、図書室である。

 強調しよう。[昔の]図書室である。

 旧、があれば新、もあるのだ。今はもちろん使われていない。というか本もなければ本棚すらない、らしい。

 あるとするなら、それはもう使えなくなった、元々ここで少年少女達が本を読みながら、あるいは勉強なんかをしながら使っていた机や椅子、あとは周りの教室が処分、しようとしたけど面倒になって勝手に置いていったものだったり、勝手に占領した生徒達が置いてったゴミだったりが置きっぱなしの置いてけぼりとなっていた。

 定期的に漁りに来る輩も中にはいて、たまに何か良さげな物も見つかるらしい。何を持って良さげ、なのかは私の知ったことではないが。

 ろくなものでないことは確かだろう。

 知りたくもない。

 まあいわゆる学校の物置であり、カーテンが開いていない、外が曇りだったりで暗い、なんて条件が重なると、中々に雰囲気がでるそうだ。

 これらをネタに、実際普通の学校にはありゃしない(え、ないよね?)学校七不思議を考える阿呆もいて、、夜の校舎に忍び込んでの肝試しなんかには持ってこいの場所らしい。ただ、七不思議なんてものは広くもない仲間内で、各々に伝わっていくもの、もしくは新たに作られていくものなのだ。「この学校に伝わる──」だとか「代々受け継がれてきた──」だとか、そんな大層なものではない。

 例えば、さっきまで音葉たちがいた実験室の隣にある準備室の住人である人体模型くんは、ある節ではガタガタ震え、ある節では喋り、ある節では宙に浮いていることがあるらしい。そんなもんなのである。

 それにしてもだ。

 その中でもこの部屋についての話だけは、聞いた限りのほとんどの「ある話」に含まれているのだから、よくよく不思議である。

 そのせいもあり、というか大部分は部屋当人の陰湿さによるものなのだが、女子の中にはその前の廊下も通りたくないとか言うやつもいて、ちょっとした問題になってしまっているときた。ちなみに男はその前を通れないと、よく分からないが認められないらしい(何が?)。

 それくらい話題になるのであればすぐに何らかの策が講じられるはずなのだが、たとえどんな事実があろうとも、学校側は対処する姿勢を全くと言っていい程示さない。

 まあ、それもその通りではあるのだが。

 そっちの方が都合が良い、とも考えられるのだが。

 そんなこんなで色々な、結構多めの「まつわる話」的なものがある「旧」図書室な訳だが、七不思議と同様、その呼び方だけは統一されているらしい。


「禁書庫」


 ガチャリ

 一体どこから出したのかも分からない鍵でそんな音を出した、白昼堂々のスパイさながらの音葉は、別に近くの目撃者に恐怖なんか感じておらず、ただ、無表情。かと思いきや文月を見てにっこり。ニコリ、ではなくにっこり。イラストならすぐに思い浮かびそうな、あれ。

「お前の新しいバイト先だ。しっかり励めよ、文月」

「おう、そうだな。期待しておいてくれ───バイトなんか生まれてこの方したこともねぇけどな」

 …………………。

───ん?

「まあどうにかなるだろ」

「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」

 音葉はそう自信満々、満面の笑みでのさばった文月に、教室の隅の方にある円形の青い箱の中にあるで(以下省略)

 ───ふむ。

 この教室の愛称についてだったか。

 どうだ?ピッタリだとは思わないかい?

 この呼び方は、愛称は、全校生徒満場一致も無理はないと、思わないかい?

 その名付け親はさぞかし、頭の良い叡智聡明な人だったに違いないと、そうは思わないかい?

 〈コホン〉

 どこから出したかも分からなかった鍵を分かりやすく右ポケットにしまった音葉は、そのままの手で扉についた突起に手をかける。ノブ、とでも呼ぶのだろうか、その金属部分は一目避けてしまう人がいるほどに錆びていて、鍵が自らの身体で奏でる、聞いている方の耳を弱らせる高い音が、どこかそれ自身の錆を若返らせる力というか、目にしたこともない古代文明をどこか身近に感じさせる。

 神秘的な響き。

 と、その三文字が、似合う光景。

「じゃあ、開けるぞ」

「ああ、準備は良い。ただし、まだ俺は何も教えて貰ってねえし、何も知らねぇけどな」

「準備もクソもねえってか」

 俺のセリフとるなや

 ただただ間抜けな、とぼけ気味のいつも通りな表情を演出する文月に、白昼を飛び交う詐欺師はスパイからの急な職業変更に苦笑いを浮かべながらも、

「知ってるか。俺ら人間、何でもは知らないらしい」

「おお。藪から棒に、ってやつだ。まあそう、その通りだな」

 使いたかっただけだろ 

「知ってることだけ、知っているらしい」

「それもそうだな。その通りだ」 

「いーや、お前は知らない。理解してないとも言える。たとえ、委員長の中の委員長だって」

 〈キィィィィ〉

「何でもは知らないのさ」

 微かに微笑む、冷淡な声。

 微笑んでいる訳でもないのに、楽しそうな表情。

 音葉の血の通ってなさそうな細い手が、徐々に外と内の空間を繋いでいく。外、は廊下で、内、が禁書庫。


 一、ケーキを前にした子供のように口をあんぐりと開けていくドアの隙間から、そこにあるはずのない光が漏れてくる。

 二、それは常時カーテンが閉まっていて薄暗いはずの禁書庫から放たれるものであり、閉まっているからこその薄暗さで、七不思議にまで登り詰める禁書庫からのものである。

 三、蔵書がもう殆どないはずの部屋に、古本屋特有のあの匂いが立ち込めている。ある研究者はその匂い自体に尿意を催す効果があると名言した、あの匂いである。私はそうは思わない。

 四、その芳香が室内から人一人分程度の通路を見つけ出し、逃げ出し、二人の肩の横を去っていく。その時感じたどこか擽ったい感触は風のそれであり、風があるのなら、つまり窓も開いていることになる。


 たったこの一瞬、これだけの情報量でも学校に立ち込めていた謎や怪談話はものすごい勢いを持ってひっくり返るかもしれないし、ただ誰かが気まぐれで掃除でもしたのだろうという結論に落ち着くのかもしれない。

 信じたくないタイプと、信じてないけど信じたい、もしくは真実にしたいと思うタイプに別れそうである。

 しかし、たとえ天地がひっくり返ろうと、たとえ速水先生が口を閉じたままで一時間過ごしたのであろうと、そんな結末は訪れないのである。

 少なくとも、噂好きの彼らがこの漏れ出す光を、禁書庫からの風を受け取る日は、来るはずがないのだから。

 扉が、完全に、開く。

 ホームルーム棟の教室より一回りくらい大きい空間に、壁一面を埋める本棚。収納された本はどれも「古びた図書館にあるような」という形容で誰しもが納得ができるような風貌で(というかここは古びた図書室で)、何故か音葉が親近感を覚える雰囲気を醸し出す。

 あるもの、、、、を目に入れないように気をつけながら隅々を見渡してみても、貸し出しカウンターらしきものは見当たらなかった。強いて言えば、焦げ茶色と黒の境目みたいな色をした年輪。が、はっきりと映し出された木製の机と椅子。が、いくつかあるだけだった。

 あとは、ただ広いだけの空間。縦ロールの少女が椅子に座って待っていてくれてそうな書庫。

 と、勿論縦ロールではない、一人の少女、、、、、。彼女が、何行か前に先述したあるもの、、、、の正体だ。

 その彼女が澄んだ声を発する。鼓膜が揺れて、何も考えられなくなる。そんな響き。

 実際に聞いたことがあるわけはないけど、恐らくい1/F的な、本能的に逆らえない何かを感じさせる、そんな響きだった。

「あら、お客さん?」

 音葉にはいまいち効果がなかった。

「……客ならなんかもてなしてくれんのか?」

 少女、なんて明記したが、制服や上履きの色なんかを見る限りでは、一応は二年生である野郎二人の一個上の学年であることに間違いはなかった。彼らのの年上かもしれない、、、、、、彼女は、少女と言うには少し、というかかなり、静かそうで、穏やかそうで、お姉さん感が拭えない感じの、そういう系ヒロインだったのだ。外見を見た限りでは、と付け加えておくのが吉かもしれない。

 不吉な予感がする。

 自分の価値観をいきなりひっくり返されて、ひっくり返されすぎて元に戻ってきてしまうレベルの予感が。

 名前のない焦燥に駆られた音葉が彼女の手元にピントを合わせてみれば、それはまあ、中々に懐かしい名前。ご無沙汰しています、という感じである。

 それに加えて、げっ、という感じである。

「げっ」

───出てたわ。

───声に出てたわ。ガッツリ。

……こういう時は無心だ。動じない心、働かない煩悩、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無……

 心頭滅却すれば火もまた鈴虫だ。

 新たな生命の誕生である。

 ───いい加減いいか?

「あんた、名前は?あと、一つアドバイスさせてもらうなら、そうだな⋯⋯そういうの読むんならやっぱ眼鏡つけないとじゃないか?」

「⋯⋯⋯⋯?初対面のあんた呼ばわりと名前の尋ねる順については、まあ目を瞑ってあげる。で、なんで?眼鏡がどうかしたの?」

 彼女の、お世辞にも可愛いと言ってしまえる、別にお世辞でもなんともなくとも可愛い顔が、いくらかの懐疑心をもって見つめてくる。

 音葉は別にその顔にニヤついた訳ではなく、というかそういったクラスの男子が限られた休み時間を使ってまで話のテーマにするような顔に興味が湧くわけでもなく、ほんの少し頬を緩めた。

 勿論、担当教師に興味を抱いているわけでもない。らしい。

 言い訳をタラタラと述べる音葉は、声が何倍にも低くなるくらいのスローモーションで、今世紀最大の深呼吸を行う準備をする。そして吸い、肺を満杯にし、これが掃除機なら主婦に叩き壊されてしまうんじゃないかと思うほどに吐き出す。ストレスは緊張という形を携えて心拍数に影響するんだから、深呼吸、英語名にすると途端にかっこよく見えてしまうその動作は、実はかなり有効なストレス解消法になりうるのでは?という考察に、どうせもう誰かが証明してくれているだろうという結論を持って、音葉の頭は満杯になる。

 くだらない

「……くだらねえなあ」

 彼女には聞こえない程度の声で、そうつぶやく。

 そして突然の前言撤回。にっこりではなく、ニコリで。どっちかって言うと、ニヤリで。

 深呼吸

「文学少女は、そういう生き物だからだ」

 言い換えれば、そうでしか生きられないから。

 勿論、めでたさない。



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