第2話




周りを満たすのは暗い暗い光。

 何も照らさず、何も見えない光。

 腕を振っても空を切るだけで、「認識」が存在しない。

 そこに佇む一人。私。

 誰もいない暗闇に一人だけ。

 他にも人がいるかもだけど、大差ない。

 一人でなくとも孤独。なら一人。

 その方がかえって安心できる気がした。

 でも、不安だった。

 自分の存在すらあやふやで、ぼんやりとした輪郭のまま形を維持している。

 叫びたい。

 叫ぶ。

 そんなことが出来るほど元気だった時期は、もうとっくに過去のこと。

 どれだけ大声を上げても届かない。

 それが分かって、やめて、今の私はボソボソと言葉にする。

「怖い、怖いよぉ」

 誰か私を、ここから出して。


 ◇◇◇


 ︿カツ……カツカツ…カカツ、カツ…ツ﹀

 学校の廊下は、音がよく響くらしい。

 大小のはっきりした二つの靴音が交互に跳ねて、近づいて、やがて一つになり、また離れてはを繰り返す。並行だと思っていた直線には三角定規を用いる作図をすれば確認できるだろう小さなθが隠れていて、じゃあ交わるのかと思えば、二次元平面だと勝手に解釈していたことをあざ笑うかのように、盲点だったねじれの位置を演出する。

 平行でもないが交点もありゃしなかったのだ。料理で例えてみるなら、味がぼやける、みたいな感じだろうか。

 ⋯⋯余計分かりづらくなったかもしれない。

 これが気味悪いようにも心地よいようにも感じられて、危うく音と物理的感覚だけの世界に己の疲れきった体を任せきりにしたくなってしまいそうになる。というかなってしまっている。名前の付けようのない高校生らしい疲労に苛まれるこの身は、何故か異常に重たい。ゆとりの弊害というやつだろうか。

 ︿…カチ…カチ…カチ…カチ…﹀

 時計の秒針が規則正しく鳴り響く。

 意識が無意識を離れ独立する。

 もうすぐ鐘がなるという目をそらすことの出来ない事実が、現実逃避癖が一向に治らない音葉を強引に現実に呼び戻す。一応頼んではみたのだが、見るからに逃がしてはくれなそうだ。

 ちなみに返事は貰えていない。沈黙を了承と捉えるかは個人の自由だが、時間の概念を変えてしまうことは個人の範疇を超えてしまうため、却下。

 それに、その事実に気づいたのなら急ぐのかと言うと、そんなことはまるでないのである。

 〈会話パート〉

「なぁ文月。ちょっとは急がんくてええの?さっきはあんな急かしてる、だったのにさ」

「風、か」文月を早歩きで追い抜く音葉。「まあ、別にいいだろ。どうせ遅れるんだし。それに」〈溜め〉「それに?」と音葉。

 足音が早くなり、大きくなる。

 真夏の校庭に落ちる汗が似合う顔つきが、虫取り網と浮き輪が似合いそうなものに変わり、やがてその目は無垢を映して、その鍛え抜かれた足は競うようにして音葉を抜き去った。

「担当、はやみんだぜ。はやみ〜ん」

 音葉は本日二度目の薄ら笑いを浮かべ、自称かっこいい姿勢を悔しくも崩しながら、前方のわんぱく少年に目を向ける。

「それも、そうだな」

──速水先生が担任で良かったよ。

「速水先生が担任で良かったよ」

 とは言ってももう目の前は実験室であり、校歌のラストスパート部分をオルゴールの音に変えただけのチャイムが、なり終えた丁度その時であった。ちなみにうちのチャイムは一分強くらい鳴り続く。

「──そうだな」

 という取り留めもない会話の背景で、第二実験室と書かれた札の下方、学校だとかの公共施設でしか見ないような横移動式扉が乱暴な音を立てて開いた。空気の変換で風向きが微小に変化する。

 その隙間から黒い髪の毛状の塊が段々と姿を露わにするその光景は、さながら海外のホラー映画のようで、苦手とは言わないまでも好んでそういった文化に触れない音葉にしてみれば、まだ外が明るいという事実が恐怖をいくらか緩和してくれていることに感謝を隠せなかったときた。

 ありがとうお天道様

 ありがとう雲

 どっか行っててくれ

「おい、お前ー。聞こえてっぞー」

 まあ、大袈裟にも程があるのだが。

「「へいへーい」」

 間の抜けた返事が廊下を支配する。実験室のさらに奥にある保健室(通称聖域)の住人から、騒音で苦情を言われるかもしれないという恐怖が思考の隙間に侵入するが、音葉はものともしない。これは別に大袈裟ではない。

 しかし、本当に彼らから悪評を書き込まれたとしても、最悪保健室の美人先生(通称聖母)の隠し撮りでも渡せば、苦情の一個や二個くらい簡単に取り下げてくれるだろう。第一奴らはそれが目的で体調が悪い振りなんかしているんだろうから。

 ───俺はしないからな。

「俺はしないからな」

「何を」

 そうぼやく音葉とその仲間は、ジョギングと言うのも恥ずかしい手の振り方で、形だけの急ぎを見せながら声の主の所在まで向かう。

 ぼやきは先生の耳にまで届いたらしい。

「何を?」

 実験室と廊下の狭間にたたず速水はやみ先生は、その服装や背丈でかろうじて大人っぽく見えても、その立ち姿も見ようによれば、雨と晴れの丁度真ん中を目指す小学生のような幼さがぬぐえない人だった。更に見ようによれば、悪い大人に簡単に騙されてしまいそうな、今日も人柄が良く感じられる人物であった。身内が被害に遭いそうだというのは、中々に心配である。

「別になんでもないですよ。先生、、

「どうした音葉。先生?はやみんじゃないのか?」

「聞こえてたんですね」

「聞こえてたから言ったんだが」

 茶色みがかった綺麗な黒髪が自然界からの刺客、風のファンからの声援になびく。先生自身から出る爽やかな香りも相まって、殆ど冬みたいな寒さ、、、、、、、を誇る十一月に季節外れの夏を誕生させていた。

 やはり異常気象だ。

 麦わら帽子を被せてあげたい人NO.1の座はもうこの先生で決まりだ、という中々にマニアックな生徒の総意が分かるような分からない気がした。ただ、この人に被せられるのは麦わら帽子なんて可愛らしいものではなく、汚れちまった借金かもしれないのだが。

 ……不安だ。

 基本的に伸ばし棒をつけたがるあの喋り方とかが、特に(御校の非公式掲示板調べ)。

「というかー、遅れるんじゃなーい。実験は時間厳守なんだぞ。作業が多いと時間もかかるんだからな。ペアワークなら尚更だ」

「そうかもしれないですねぇ」

「そうかもしれない、じゃなくてだなー。とりあえずお前は───」

 そのまま喋り倒してしまう勢いで口を開く。

 危険。

「で、今回は?大層作業の多い、それも都合よくペアワークだったりするんですかね?」

「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」

 空間を満たした無音に限りないデジャブ感を拭えないながらも目線を地面から上げ、身長差により、最終的には見下ろすように黒髪に隠れた額を見つめた。

「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」

 今度は苦虫かなんかだろうか。先の教室での既視感が蘇る。もう会いたくないと思っていた文月のあの表情に感動の再会を果たし、恩師にこんな顔を向けられてしまったショックに音葉は熱涙を流さざるを得ない、という訳だ。

──さて、そんな険悪な雰囲気も大して長くは続かない。音葉が一瞬たりとでも謝ろうかという醜い発想を思い浮かべてしまうくらいの、殆ど誤差と言っていい時間。眉をひそめた表情の似合わないそろそろ三十に手をかけるであろうその人の表情はやがて、クシャッという擬音が最も似合う笑顔に変わり、音葉の涙も瞬時にして乾いたことは、別に特筆するべきことでもないだろう。

 ただし、男子生徒共が休み時間に騒ぎ立てるクラスの女子の表情よりも、先生のその笑顔が余程可愛く見えてしまったのは、本当に特筆すべきでない。

 これは大袈裟。

 であって欲しい。

 はァ

「大して作業も多くない個人戦だよ。可愛くない教え子めー」

 〈うりうり〜〉

 そんじゃ授業初めっぞー、という少々高めに設定された声に生徒一同は姿勢をただし、雑音で溢れかえっていたのが嘘だったかのような静寂に、音葉のあえて鳴らしているだろう靴音が光る。

 その代わりようは、さっきまで怒っていた人が電話に出た途端礼儀正しくなるのと同じで、圧巻だ。あれは中々に怖い。

 〈呆然〉

 事前に役割分担をしておけだの教卓にマッチを一テーブルにつき一個取りに来いだの、先週の授業で配られた実験プリントにちゃんと明記されてることをいちいち述べる先生。退屈が似合うその時間では、さっきまでほとんど寝ていたに近かった音葉にも、そりゃあもう欠伸が隠せないときた。

「ふあぁ〜」

 音葉あくび

「ふぉああぁ」

 文月Yawn

「お前あくびなんかしてんじゃな⋯⋯はっ、はぁ、はっくちゅんっ」

 唐突なくしゃみ

「「はっくちゅん?」」

「もう、あくび移っちゃったじゃないかよぉ」

「いやくしゃみだろ。それ」

───くだらない⋯⋯

 白装束の集団の中にスイミーの目のような黒い塊が二つ。

 音葉は座席表に書かれた番号なんか確認するに値しないとでも言うように、実験室にしかなさそうな真っ白な教卓のそばで教室全体を舐めまわし、一つだけポツリと空いていた席に腰掛けた。

「やあ。ええと⋯⋯だれだっけ?」

 隣に座っていた女子が何も言わずに音葉を睨む。

「チッ!」

(⋯⋯「!」!)

───そんなに嫌われていたのか⋯

 隣の女子(以降Kさん)の眉間にはシワがよっており、目は細くなり、口は鈍角が150度の二等辺三角形。よく見れば逆四つ葉のクローバーみたいな怒りマークが浮き出てきそうである。顔が大渋滞だ。

 Kさんは⋯⋯前回の実験ペアかなんかだったろうか。前のは確か体細胞分裂の観察がテーマで、顕微鏡なんて高価なもの壊したら大変だとかそんな理由で休んでいた気がする。別に壊すこと自体に罪悪感があるとかではないのだ。覚えている限りでは、速水先生は一番最初の授業で、一円=一点で減点してやるとか抜かしていたからな。それ以上もそれ以下もない。

 いや、待て。確かその時の実験材料は玉ねぎだ。なら……欠席していた理由は、その悪魔の実と同じ空間に居たくなかったから、もしくは同じ空気を吸いたくなかったから、だったかもしれない。

 これは難しい。どっちだ。

 どちらにせよまともな理由でないことだけは確かだ。

 もうやめようか。

 とか考えながらもう一度そのKさんの所在を確認してみれば、もちろんご想像の通り、ただ、音葉を睨んでいた。

 その執念すら感じる行動に音葉は苦笑を隠せず、ごまかせるわけもないことを知りつつも、スローモーションのような動きで白衣を着用する。できるだけ申し訳なさを表現しながら。

 とは言えこれで教室全体に蔓延る魚の目は一個になり、かなり物語に忠実になった。とか思ったものの、実際魚の目はふたつなんだからヒラメとかカレイでない限りどっちでもいいというのではないか?という結論に至る。

 あれ?アイツらも二つか。

 と、新たな事実に気づいたあたりで「早く動け!」という美人先生のチョークサービスに、本日二度目の涙による感謝を述べるのだった。

 なんだかんだ気になっているであろう諸君に告げるが、この授業中、Kさんの眉間のシワが取り除かれることはなかったとさ。

 めでたさない。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る