第1話



「───痛っ」

「そりゃ痛くしたからな」

 

 実に痛そうな声と、平日の通常授業の、それも真昼間の校内には有るまじき静寂。寂れたシャッター街みたいな閑散とした廊下に、金属同士の衝突時のような鈍い音が響いた、ちょうどその時だった。

 それが原因で、あんな間の抜けた声が出てしまった訳だが。

 それ以上でもそれ以下でもないのだが。

 そのかなりの衝撃に起動したての脳では処理が追いつかないものの、とりあえず辺り一面を見回してみては、付け焼き刃の状況把握に努めた。

 しばし俯瞰

 ︿時計が示すはピッタリ一時半﹀

 ︿休み時間が始まってから僅か五分﹀

 ︿教室内の人数はたったの二人。常時の十五分の一程度〉

 少し前まではここら一体に立ち込めていた、マンション内なら流血沙汰になってもおかしくないレベルの騒音が、彼ら側からすればその事件に対する文句が「暴力反対!」くらいにしか思いつかないほどに、いくらか罪の意識は持ちつつも声高らかに会話をしていた生徒たちの影が、見えていないはずの姿、輪郭を持って現れる。

 輪郭、である。

 つまりは存在していない。

 教室にはたった二人しかいないのだから。







 

 そりゃあよく響くはずだ。人の頭をもの、、で殴る音が。

 永遠に続きそうだった喧騒、それが元から存在していなかったみたいに、いつの間にか姿を晦ましていたのだ。本当にいつの間にか、、、、、、、だった。その残り香だけが、たった二人残された彼らに、いくらかの郷愁を伴って降り掛かっていた。

 消えた音が見えた。

 見えた音は消えていた。

 不思議な感覚だった。

 〈客観視〉

 二人のうち、一人は右手に教科書を、誰かからの合図があればすぐにでも投射できる状態で抱え、左手をもう一人の頭上に「ぽんっ」という擬音語の似合う様子で置いていた。ぽん、ではなくぽんっ。小さいつがミソだ。あるとないとじゃ、印象がガラリと変わってしまう。

 ……ん?そんなことはない?いや、あるんだよ。悪いけど、ここばっかりは譲れないんだ。

 それに対してthe otherの表現で表せられる、頭に手を置かれたもう一人の少年は、そのいかめしい手を押しのけようと暴れるも叶わず、ただもだえ苦しんでいた。

 〈0.5‪‪‪×〉

 平和以外を知らない脳天気な小鳥は即興で作ったような歌詞で歌い、窓から入る生ぬるい風がその音葉おとはの黒髪を舞いあげる。隠れて髪をセットしている彼の事情など、壮大な自然は知ることも、知ったところで特別気にすることもなかった。気づいた上で、無視された。コケにされたのだ。

 額に重大な打撲を負った被害者(これが音葉)は片目だけで加害者を睨みつけ(八つ当たり)、当の加害者は清々しい顔で被害箇所を見下ろしている(八つ当たりの相手。被害者。実は加害者)。

 そんな鳥たちの生歌が戦いのテーマになってしまえば、緊張と対極をなすような争いが生まれるのも無理はない。たとえ本人らが真剣だもしても、傍から見れば気持ちの良い真昼間の校内で行われる、日常すぎて茶飯事すぎる、数え切れない小競り合いのたった一つに成り下がってしまうのだ。

 ⋯⋯まあ、それで何の不都合もないのだが。

 そしてとうとう、満を持しての会話シーンである。

「おはよう音葉。お前、なんて言うか⋯⋯難そうなこと考えてる、に見えるぞ」

 窓から差す殺人的な日差しに、瞼を閉じる。たいした葛藤もなく負けを認める。

ね」

 負けを認める勇気。やはりカッコイイ。

 常軌を逸したドライアイを誇る音葉は、水晶体を労わり、というか限界を迎えたため、瞼を永遠に閉じているよう運動神経に命令を下した。

「風だよ」

「風だな」

 音葉の前髪が再度宙を舞った。

 ︿命令撤回﹀

かぜがな。強いな」

 それから彼は、現役の男子高校生には有るまじき運動不足、そしてこちらは良くあるであろう睡眠不足を無視して、頭上の青年に焦点を合わせ続けた。こんなことを一人でやってのけるのは、ここまで一人だけしか自己紹介の済んでいない彼、勿論、音葉である。

 発案者の「彼」はまだ何か言い足りないのか、それとも言い直したいのか、どちらにせよ口を開こうとしていたのは確かだった。

 もう開いていたのだし。

「どっちかって言うと、そのフリしたアホ、って感じか」

 未だに不明な彼の名。

 日常的に音葉にストレスを与え、そろそろ抜け毛が深刻化してきて、そんなこんなで音葉に困難に耐えるための有難い訓練を施してくれるという彼の名は、

「──セブンムーン」

「誰だよそれ」

 とまあこんな感じの、常軌を逸した爽やかさを誇る、それこそ逆にどこにでも居そうなスポーツ少年である。

 デカい。

 ただ単に、デカい。

 そこまで小さくない、というよりかなり標準的な身長の音葉の目から見ても、彼は相当背が高い。同じ目線でものを語る、というのはまず無理で、背伸びをするか、首を傾けて目線と天井に交点を作らない限り、彼のご尊顔は拝めそうにない。

 スポーツとは無縁の生活を誇る音葉は、勿論後者を選ぶ訳だが。つま先立ちというのはなかなかに辛いものがあるのだよ。つま先立ちトレーニングというのも、あったような気がしないでもない。

 しかも、これでは焼け石に水で、音葉ごときが背伸びしたところで彼とは対等にはなれないときた。

 結局、どうしようもないのだ。

「なあ、なんでお前はそんなにデカい?」

「どうしたんだよ、急に。俺も普通よりかはデケえかもだけど、他にもいっぱいいるだろ。ほら、お前の体育担当の───」

 そいつは通称ゴリラの化け物だろ。

「あーもういいもういい。そんなに俺を責めるな」

「……勝手に傷つくなよ」

 彼と話していると、どうも首が凝る。さらに言えば眩しい。日差しが痛い。一歩間違えれば簡単に蒸発してしまいそうである。

 完全な異常気象である。

 そして異常な程の運動不足、それを助長する引きこもり生活だった。

 あと三十分もすれば、蒸発しきってそのうち雲にでもなっているだろう。じゃあな、音葉の体。

 ただ、その友人は蒸発とやらにかかる時間すらも、待っていてはくれなそうだった。

 彼は体の丁度半分で陰と陽とを分けた、一種芸術作品のような佇まいをしていて、音葉の寝ぼけた頭が理解に多大な時間を要するくらいには、大変美しかった。

 肉体美、という言葉はコイツのためにあるのかと言うほど引き締まった腕が、音葉の脳細胞をいたぶり続ける。勿論、今でも音葉は抵抗している。更に勿論、肉体美の語源の前では、運動不足の青年の抵抗など何ら意味をなしてはいない。ゾウに立ち向かうありの如くだ。

 ゾウに耐え切れる筆箱の存在は聞いたことがあっても、ダイヤモンド並みの硬さを持つアリは耳にしたことがないだろう。そういうことだ。

 外界からの敵襲、光属性の魔法に対抗する音葉が敬礼のようなポーズをしながらでも判断できるそいつの無駄に輝かしいオーラは、休み時間に一人で窓の外を眺めている人間おとはには、少々眩しすぎたみたいで、悔しくも、授業中に居眠りをする運動部みたいな姿勢を取らざるを得なかった。こんな奴に何なら勝てるというんだ。音葉如きが。

───なんか言ったか?

 ………………………。

「まあ、あれだな。おはよう。文月ふづき

「おう。音葉」

「それでだな。お前のせいで俺の優雅な惰眠が邪魔されてしまった訳だが」

「はぁ?なんで俺がお前の目覚めなんか気にしなきゃなんない。それにガチ寝してたわけじゃないだろ、お前」

「そうかもしれない」

 音葉は首をすくめる。両手を手のひらを上にして上げる。

 文月はため息をつく。

 はぁ

「かもしれないて⋯⋯いや、それにしてもだ」

「……?」

「ならお前は、お前様は、移動教室なのに雲なんか眺めてぼーっとしてるような可哀想なクラスメイトを正気に戻してやった俺に、文句を言うのか。どうだ?そこんとこ」

「…………………」

 ︿沈黙﹀

「────まじ?」

 目を丸くする音葉。

「まじだ」

「───まじか……」

 まじらしい。

 そしてまずいらしい。かなりまじい。

 熱戦の教室と厚い壁で区切られた窓の外では、こんなに暑い時期なら何個でもホイホイやってきそうな台風が、約百分の一スケール(適当)で行われていた。紅葉によるハリケーン。赤、黄、緑の葉が重なり、擦れ、風を切って音を奏でている、

───音しか聞こえなかった。「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」

 無言を感じて上を向けば、まさか音葉の背後に飛んでいるだろう虫でも追っかけているのかと錯覚してしまいそうな視線と、バッチリ目が合ってしまった。

 目が合ったんだから勿論それは後ろの虫なんかを見ている訳ではなく───なので頼むからもっと視線を横にずらして欲しいですお願いしますm(_ _)m

「…………………」

 だが当人である音葉はそんなことは関係ないのだと強がり、先の衝撃の事実に震えが止まらない口を強引に開いた。

 声が裏返っていようが途切れ途切れだろうが、この際もうどうでもいいのである。事実は事実でしかなく、無言でいたって何か変わる訳でもない。

「一つ、人生の先輩である俺からの助言だ。そんなゴミを見るような目を、たった一人の親友に向けるんじゃあないぞ。お前は知らないだろうけどな、気づいたら友達なんかみーんないなくなっちゃうんだからな。大事にしとけよ」

 しばし喉を休めていた小鳥どもが木々の紡ぐビートに我慢できなくなり、休養命令に逆らってリズムに乗ってくる。

 カサカサぴよぴよザーザーちゅんちゅん。

 彼らの雑なクレッシェンドに同調するように文月のシワが深くなっていき、徐々に教室の隅の方にある円形の青い箱の中に恐らく溜まっているだろう何かを見つめるような顔つきに変わっていく。

 それでも音葉は落ち着きを懐から離さず、実はそろそろ冗談じゃないほどマズイであろう何かを無視して、文月との戦いに勤しんでいたのであった。

 無視が一番

 無理は禁物

「はぁ」

 堪えきれず漏れてしまった、吐息を超えた吐息。そしてその後に流れる、あぁぁぁ、というできるだけこらえた雄叫びみたいな声と、頭をしきりに掻きむしる音。不協和音か。

 文月の長年溜め込んだようなため息が二年B組内に突然できたベルリンの壁を破壊し、数秒にわたって続いた冷戦状態を、教科書に則って規則正しく打破したのだった。

「……ゔ ゔん」

 音葉は雑な咳払いをしながら、文月を睨みつけるように見つめる。

 〈時間経過〉

「はぁぁ」と文月。

「……うッ……う……ッ」と音葉。

 泣き出しそうである。

 五秒もすれば文月のシワの数は急激な傾きをもって減少し、跡形もなく消え去り、無垢な女子達をたった一回の瞬きでどうにかさせてしまいそうな憎たらしい顔が戻ってくる。イケメン、と言うよりはワイルドなその表情は、異性にさえ興味を抱かない音葉にはなんの効力も持たないのだから誰も得しないとは思いながらも、写真を取っとけば案外高く売れるのではと、何かと金儲けに結びつけてしまう醜い思考の背景で、文月は捨て台詞のようなことを呟きながら静止を破った。

 つまり、呆れ顔だ。

 はぁ

「もういい。とりあえず、そのよく分かんねえ汗ちゃんと拭いとけよ。お前はちょっとくらい顔が良くても、水が滴るような男じゃない」

──ならお前は水が滴る男だって言いたいのか。無類の汗っかきめ。

「ならお前は水が滴る男だって言いてえのか。汗っかきが」

 そんな音葉のぼやきに特筆すべき反応は示さず、文月はただ一瞥しただけで歩き出した。

 教室に敷きつめられた木製の床独特の音が彼らの鼓膜を揺らす。その瞬間、自然体オーケストラが、文月のスニーカーによるベースが入って初めて、ピッタリ音が揃ったように感じた。バンドアニメの凸凹コンビたちがこれ以上ない程に幸せを感じる瞬間を間近で見た音葉は、心の中で彼らに盛大な拍手を送る。それはもう、世界的なオーケストラにだけ送られる、絵に描いたようなスタンディングオベーションだった。

 その演奏の存在を認知しているのは、実際二人だけであっても、文月の鼓膜を割るような拍手があればほとんど大差ない。こっちの方が強いくらいである。

「どした?」

「いや、何も」

 バンドメンバーの一員であるベース担当の青年は、これまたアニメキャラがよくやるような、右手で作ったgoodを丁度首の後ろにセッティングしたようなポーズで振り向いている。首だけで振り向いている。左足を少し曲げ、体の中心を意地でも床と垂直にしたくなさそうな角度。認めたくはないが、かなり様になっている。

 勿論音葉は口に出さない。

「ほら、行くぞ」

「ああ、分かった」

 木の葉が渦を巻いて舞い上がる。

 リラックス効果のあるザーッという擬音語が似合いそうな光景を再度眺め、未だに机に腰かけていた音葉の口に、その行儀悪い姿勢には似合いそうもないささやかな笑みが姿を現した。

「お前の後ろならどこまでだってついて行くさ」

 音葉は座り方を正し、日頃使わせてもらっている感謝を目に見える形にしながら、体重が六分の一になったような軽さを伴って、木の床に降り立つ。

「なんだよそれ」

 顕微鏡で覗かないと確認できないくらいに文月の口角が上がる。

 音葉は一歩ずつ、自分が歩いていることを確かめながら、踏みしめる。

 まだ寝ぼけてんのかと肩に拳をぶつける同級生と、市販の催眠薬なんかより余程効果のありそうな光と、五限の実験スタートの合図を二分後に控えた時計。

 悪くない光景だ。

 なんて音葉が音葉らしくないことを考えてしまうくらいには、気持ちのいい昼下がりだった。

 あと───肩が冗談じゃなく痛い。

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