禁書庫
しるなし
プロローグ
人の行動には、対価が必要だ。
成したことに対する、何らかの報いが必要だ。明確な形を持った、明らかな応酬が。
何かを始めるにしても、何かを話すにしても、何かを食べるにしても、何かを使うにしても、何かを書くにしても、何かを得るにしても、何かと関係を持つにしても───何をするにしても。
何かを、奪うにしても。
───奪われるにしても。
足して二で割れば全てが均等になる、そんな対価が、この世界には必要だ。
なくてはいけない。とも思うし、
なくてはならない。とも思う。
部活動でも期末テストでも、自分が決めたものならなんだって構わない。インターハイ出場でも、学年一位を取るにしても、大層大きなことでもいい。
いつもより一分だけ早く起きる、それだけでもいい。どれだけ些細で微々たるものであっても、別にいい。
第一誰もケチなんかつけないし、つける権利だってない。つけられる筋合いがない。
そんな何かを目標にして、逃げずに、偽らずに、どんな挫折が待っていても座り込まずに挑戦し続けた人が、ほんの少しも報われない世界なんて───現実を突きつけるだけ突きつけて放っておくような世界なんて───別になくなってもいいと思う。
なくしてやりたくなる。
あってはならない、とも思う。
部活動なら何らかの大会、コンテストなんかがあるし、テストにはもちろん、数字の書かれた用紙が返される日が待っている。挑戦には、それ相応の結果が付いてくる。異なった形だとしても一律に現れる。
定めた目標通りの、思い描いていた通りの結末が訪れるなら、それが最も良いだろう。当たり前だ。
しかし、子供が見る夢なんてものは、叶わないことが殆どで、自分でも叶うとは信じていないこともしばしばあって、叶わないことが分かっているからこそ、人はそれに夢なんて名前をつけたのだと、そうやって自らに納得させることで諦められることだってある。僕だってそう思う。そう思ってしまう時だってある。
諦めたくても、諦めた方が良いとさえ分かっていても諦められないことなんかは、この世には掃いて捨てるほどあるのだ。
それでももし叶わなかった時に、自分に言い聞かせられるように。自分が、必要以上に傷つくことのないように。そうやって人は、先に予防線を張っておくのだと。
人間は、そういう生き物なのだと。
それが、夢の正体だ。
実態、と言うべきかもしれない。
それは都合の良い殻であり、反対に切れやすい武器にもなり得る。有り体に言うなら、両刃の剣でしかない。諸刃の剣にも成りうるし、危険だ。
矛先が他人に向くこともあれば、いつの間にか向きを変えていて、気付かぬうちに自分の首に刃を突きつけていることだってある。しかも、自分で自らを傷つけ、苦しめ、最終的に腐敗して初めて、その夢の副作用の存在を認識するのだ。気付かぬうちに、自らを傷つける。
もう手遅れになってから、理解する。
「頑張ったのならいいじゃないか」
「結果よりも、そこに行き着くまでの『過程』の方が大事なんだ」
「これまでの努力は、君がこれから生きていく上での、大事な財産になるんだ」
「人生は、ここからが長いんだから」
だから、また頑張ろう
───ではだめだ。
そんな
言った側がそれで満足しても、言われた側が、努力をしてきた側が、未来の幸せなんかで喜べるわけがあるか?喜べたとしても、手放しで摂取できるものになることなんてないんじゃないのか?形式的な、感情の伴わないものになってしまうとは思わないのか?
僕たちは、目に見える結果より、過程を大事になんかできないのだ。
僕も同じだ。
「なんであそこで間違えた」
「なんでもっと上手く出来なかった」
「なんであの時手を抜いた」
───なんで、頑張ることに背を向けた
何度も何度も何度も、過去を、過程の自分を、恨み、憎しみ、数え切れない苦しみがあって、長い時間をかけて風化し、やっと納得出来る時が来て、その時のせめてもの踏ん切りとして、その言葉が用意されているのだ。
それこそ、自分に言い聞かせるために。
自分をそれ以上、傷つけないために。
それを、他人が、自分が満足するための免罪符に使ってはいけない。
使われたら、たまらない。
過程が大事なんて言われても、そんなこと僕たちには分からない。
頑張った人への冒涜、努力への意味づけ、悔しさの無価値化、要らぬ退路への誘導、果てしなく醜い、自己満足。
そんなありふれた、本来ありふれてはいけない言葉が、美しいものとして評価されてしまう世界は、やはり、間違っている。
冒頭部分を再利用するならば、なくしてやりたくなる。
だから、その人の生き抜いた月日には、そんな偽善とは違った対価が、報いが、必要だ。
悪いことを成したら、明確な報いが、時には償いが用意されている。行為に見合った代償が降り掛かってくる。対価として、
拒んでも無理やりに。限りなく強引に。
なら、ポジティブな意味の因果応報がこの世に溢れていたって、何ら問題はないのだ。求めてない奴に罰を与えるくらいなら、彼らに報いた方が何倍にも有意義だ。
願わくば、その方がいい。
僕は、そうしてあげたい。
とまあ、これまで長々とこう、自論と言うか何と言うか、自分でもよく分からない戯言らしきものを垂れ流してきた訳だが、つまり何が言いたいのかと言えば、どうやっても頭の片隅に残ってしまう、一つの疑問に行き着くわけである。それはつまり、
生きること
生きることは、どうなんだと。
そして、すり減ること。それらはなんの対価なのだろうかと。
あるいは、何がその対価として用意されているのかと。
当然の疑問だと思う。
出てこないわけがない。
思いつかないのなら、それはこの問題から目を背けているのと同義だ。
それこそ上っ面の。自己満足でしかない行動の。
報いが与えられなくとも良い事柄を挙げるのであれば、それが初めに出てくるだろうという程に。これ以外には存在しないという程に。
限りなく単純で、これ以上ないほどに複雑だ。
疑念たちは一向に晴れることなく、時折形を変えるだけでなくなることはない。それどころか段々と重くなっている気さえする。それが僕の中を血液のように巡っているのだ。四六時中。年中無休で。
それでも、答えが見つからない。
生まれてから陽も満足に浴びず、苦しい思いだけを募らせ、耐え続け、我慢して、そうまでして生き延びた先が、その終着点が、平等に与えられた死、なんてものなのだとしたら、彼女は、彼女たちは一体なんのために生まれた?
それに答えられる人間なんて、僕は知らない。簡単に答えられたくもない。そんなに単純なものではない。なんなら、最初から存在していないのかもしれない。
それでも、僕は諦めない。それは、彼女が諦めさせてくれないからでもある。僕に、諦める気を起こさせないから。それも彼女が、彼女自身が知らないところで、僕にそうさせている。
ただ、そんなことは勿論彼女の知ったことではない。それに関しては、彼女は初歩的なところで無関係なのだ。
だから、僕一人でやる。一人でも、できる。一人だからやる。
心細くても、やる。やるしかない。
答えを出すことも、彼女自身のことも、やめない。見つからないから、諦められないのだ。
だから、僕はここに誓う。
報いてみせる、と。
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