露命を繋ぐ

三鹿ショート

露命を繋ぐ

 今日もまた、何処かで誰かが叫び声をあげている。

 道端には、血液を流している人間が倒れている。

 だが、道を歩く人々は、声が聞こえてきた方向や倒れている人間を見ようともしない。

 この地域にとっては、それらは特に珍しいものではなかったからだ。

 それに加えて、関わろうとすればどのような面倒に巻き込まれるのか、分かったものではないということも理由だろう。

 現に、以前私は一人の女性に手を差し伸べたが、その女性の恋人に浮気相手だと誤解され、殴られたことがあった。

 それ以来、私は誰かを救うことを止めた。

 しかし、他の人間とは異なり、倒れている人間に目を向けてしまっていた。


***


 この地域には、私のような秀でた能力が無い人間か、腕力に物を言わせて他者を屈服させるような人間の、いずれかのみが存在している。

 私が手にすることが出来る給料は、労働時間に比べれば雀の涙ほどのものであるが、私のような無能たる人間に金銭が与えられること自体が幸福と言うことができるために、文句は無い。

 生活は苦しいが、一人ならば、なんとか生きることができていた。

 このような生活が今後も続くということにうんざりしたことは、一度も無い。

 何故なら、この地域に住んでいる大抵の人間は、十年以上生き続けることは不可能だったからだ。

 それは、この地域特有の病気などが原因ではなく、ほとんどの人間が生きているうちに何かしらの事件に巻き込まれ、その生命を失うからである。

 実際に、私が生活を始めた際に住んでいた集合住宅の人々は、今では全員が入れ替わっていた。

 何時発射されるか分からない銃を突きつけられているかのような漠然とした恐怖に怯えながら、過ごさなければならないのである。

 それでも、自らの意志でこの世を去ることは考えていなかった。

 自分だけは面倒に巻き込まれることなく生き続けることができるという根拠の無い自信が理由ではない。

 単純に、自分で自分を殺めることが嫌だったからだ。


***


 塵を捨てるために路地裏へと向かったところで、大きな塵箱に隠れるようにしながら身体を震わせている一人の女性を目にした。

 彼女は私と目が合うと、人差し指を立て、それを唇の前に移動させた。

 傷だらけであり、裸足であることを考えると、何処からか逃げ出してきたのだろう。

 私が正義に燃えているような人間ならば、彼女に手を差し伸べるだろうが、私は自分の生活で精一杯だった。

 ゆえに、面倒に巻き込まれることだけは、避けたかったのである。

 私は彼女に何も告げることなく、塵を塵箱に入れると、店の中へと戻っていく。

 彼女は小さな声で感謝の言葉を吐いたが、私が反応することはない。

 数時間後、再び同じ場所に向かったが、其処に彼女の姿は無かった。


***


 出会ってから、彼女のことが忘れられなかった。

 他にも同じような人間は数多く目にしてきたはずだが、彼女ほど印象に残っている人間は存在していなかった。

 もしかすると、彼女に心を奪われたのだろうか。

 私は、首を左右に振った。

 そのようなことが理由ならば、私は今頃、家族と仲良く生活を続けていただろう。

 私の家族が旧態依然ではなければどれほど良かったことだろうかと考えたことは、一度や二度ではない。

 だが、自分の意見を押し通してしまえば、それこそ、私もまた、私が嫌悪している人々と同類と化してしまう。

 だからこそ、私は家を出た。

 後悔は無いが、苦労ばかりの日々だった。

 おそらく、彼女が印象に残っているのは、私が家を出るまで味方でありつづけてくれていた姉に似ていたからなのだろう。

 だからといって、彼女を救うことはない。

 彼女は、姉ではないのだ。


***


 数日後、道端に倒れている彼女を目にした。

 しかし、遠目でもその生命活動が終焉を迎えていることが分かった。

 そのような彼女に追い打ちをかけるかのように、身なりの良い数人の男性が、彼女の肉体に向かって唾を吐き、小便をかけ、嘲笑していた。

 彼らが豪華な箱型乗用車でその場を後にしてから、私は彼女に近付いた。

 変わり果てた彼女を見つめながら、もしもあのとき私が彼女に手を差し伸べていれば、このような未来を迎えることはなかったのだろうかと考える。

 だが、彼女に手を差し伸べた場合、彼女の代わりに私が倒れ、あるいは、私と彼女が並んで倒れていた可能性も存在することに気が付くと、私は首を左右に振り、その場から去ることにした。


***


 皮肉にも、私は長く生きた。

 私よりも役に立つ人間は幾らでも存在しているはずだが、そのような人間たちよりも何故、私が長生きをしているのか。

 私が生きていたところで、この世界には何も残すことはできない。

 善人でも悪人でも無い私は、この世界にとってどのような意味を持っているのだろうか。

 おそらく、何も無い。

 何も無いからこそ、虐げられることもなく、無視をされ、放置されているに違いない。

 私は口元を緩め、店主の孫から今日の仕事内容を聞くために、職場へと向かった。

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露命を繋ぐ 三鹿ショート @mijikashort

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