屋敷の彼女と月明かり

九日

 太陽が空の端へ沈み始めたころ、私は一本の道を見つけた。道は山を貫いて伸びていて、私はそれに沿って歩いた。ただの好奇心だった。早く家に帰って、学校で疲れた心身を休ませたいと思っていたけれど、人間誰しも好奇心には敵わない。

 放課後の小学生の遊び場にもなっているこの山は、それほど高くはなく、ハイキング用に道も整備されている。でも、先ほど見つけて、たった今歩を進めているこの道はハイキングコースでもなんでもない。ただの、踏み慣らされ荒れた、けもの道だ。まるで人間関係というものに疲れて、なんのため生きているのかと言われたら答えられなくなってしまった私の人生のよう。

 日が落ちきる前に、大きなお屋敷にたどり着いた。

 塀の向こう側には森があり、その森の中にお屋敷があったのだ。幼いころから慣れ親しんだこの山に、こんなものがあったとは驚きだ。

 蔦の絡んだ門には錠前が取り付けられているが、どうやら外れている。手で慎重に押せば、キィ……という錆びた音とともに門が開く。

「まるで幽霊屋敷」

 いつだったか家族旅行で行った英国のウィンザー城を思い出す。

「ごめんください」と口にして一歩踏み入れるも、風の音がするだけだ。少しばかりの恐怖心を覚えたが、好奇心に突き動かされて、入口へまっすぐ続く道を進む。

 扉も鍵が開いていたから、玄関ホールまで上がり込む。このお屋敷の所有者に見つかれば「なんて図々しい奴」と罵られそうだな、とか、人間性を疑われそうだなとか、このおどろおどろしい場にそぐわない呑気なことばかりが思い浮かぶ。それ以前に、不法侵入云々で警察に突き出されるだろうか。

「図々しい奴」であることを自覚した上で、「どなたかいらっしゃいませんか?」と呼びかけながら奥へと進んでいく。

 突然目の前に現れたのは大きな扉だった。このお屋敷の中で唯一、灯りの役割を担っている月に照らし出されたその扉は、木材に塗られた焦茶色がところどころ剥がれかけている。

 部屋の中の窓からも月明かりが差し込み、部屋の様子がよく見えた。

 広い部屋。天井が高く、壁際に本棚が並ぶ。そして、中央に置かれた机の上には大量の書物と紙束、ペン立てが置かれていた。その光景を見て、私はここが書斎なのだと思った。しかし、よく見れば部屋の隅にはベッドがあり、そこには女性が横になっているではないか。月明かりに照らされたその姿を見た瞬間、私は息を飲んだ。

 彼女は私の存在に気付いたのか、こちらを振り向いて、目を見開いた。

「あなた……」

「あの……勝手に入ってすみません! まさか、まさか人が住んでいるとは思わなくて!」

 女性は黙ったままゆっくりと起き上がると、こちらに向かって歩いてくる。私は萎縮して謝るが、彼女の表情に変化はない。怒っているのかいないのかわからない。でも、彼女の肌が月の明かりに透けるほど白く、四肢が壊れそうなほどに細いことだけはわかった。 長い黒髪は美しく、彼女が歩くたびにゆらりゆらりと揺れ動く。

 彼女は私の前まで来ると、手を伸ばした。私は何をされるのかと思い、ぎゅっと目をつむったが、頬に触れた手は優しく撫でるように動いただけだった。そして、「あなた……名前は? どうしてここに来たの?」と訊ねてきた。その口調はとても穏やかだったが、どこか威圧感があるようにも感じられた。

「私は、和泉初花いずみしょかといいます。道に沿って歩いていたらここにたどり着きました。それで、偶然にも見つけたこのお屋敷に入って来てしまった次第です」

「そう……」と言って、彼女は私から離れていく。

 私はほっとして、その場を離れようとしたが、彼女は私を呼び止めた。

「待って。せっかく来たのだもの。お茶くらい飲んでいきなさい」

「えっ!? いえ、そんなお手を煩わせるようなことは……!」

「いいの。ちょうど話し相手が欲しかったところだから」

「でも……」

 私が遠慮していると、彼女は再び立ち上がり、私の元までもどってくる。そして、私の肩に手を置くと、「座ってちょうだい」と言った。有無を言わせないその振る舞いに逆らえず、私は大人しくソファーに腰かけた。

「紅茶しかないけれど、構わない?」

「はい……」

 彼女が本棚の横にひっそりと置かれたテーブルへ向かう姿を眺める。このお屋敷の雰囲気といい、彼女の姿といい、なんだか不思議な気持ちになった。なんだろうと考えているうちに、彼女はティーポットとティーカップを持ってもどってきた。慣れた手つきで紅茶を注ぎ、ことん、とティーカップを私の前に差し出す。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

 すすめられるままに口をつけると、香りの良い味が広がった。おいしい、思わずそう呟くと、彼女が嬉しそうに微笑む。

「よかった」

「あの……ここはどういった?」

「ここは別荘のようなものだったの。普段は別のところにいたのよ、この屋敷は仕事場のような役割を果たしていたの」

「お仕事をされているのですか」

「私じゃないわ」

「どなたですか?」

「さあ」

 彼女はそれだけ言うと口を閉ざした。それ以上話すつもりはないらしい。私は話題を変えるために、さっきから気になっていたことを口に出した。

「ところで、ここにはどれくらいの数の本があるのですか」

「数えきれないほど」

「すごいですね」

「この屋敷にあるのは全て読んだわ」

「それはまた……」

「退屈だったから」

「退屈……」

「ええ」

「では、今は何をして過ごされているのですか」

「読書」

「他には」

「何も」

「お屋敷にいる間は、ずっと本を読まれているのですか」

「そういうことになるわね」

「食事や睡眠はどうしているのですか?」

「食事はしたくなったときにするわ。必要なものはここに揃っているし、足りない分は取り寄せればいいだけ。あとはここで好きなだけ本を読んで、眠くなったら寝るだけよ。まあ、たまに外へ出るけれど」

「……」

 私は絶句してしまった。

 たしかに彼女は美しいが、それにしてもあまりに不健康すぎる。

 ちゃんと食事は毎日摂っているのだろうか。電気やガスは通っているのだろうか。そもそも、人間に必要な最低限の生活を営んでいると言えるのだろうか。

「だ、大丈夫なのですか、いろいろと」

 そう言うしかなかった。

「心配してくれてありがとう。でも大丈夫よ」

 彼女は微笑みながらそう言ったが、その言葉に説得力はなかった。

「そろそろお暇します。本当にお邪魔しました」

「そう。気をつけて帰るのよ」

 私は立ち上がると、彼女に一礼をして玄関に向かう。玄関を出る一歩手前で振り返ると、彼女はまだこちらを見ていた。私はもう一度頭を下げてから、お屋敷を後にする。帰り道は迷うことはなかった。

 今日だけで何日分もの体力と気力を消耗してしまったかのようだった。あまりにも疲れてしまっていたので、私は家に帰るなり、倒れるように眠りについた。


 翌朝、私は朝食を済ますとすぐに家を飛び出した。昨日見た光景を思い出すと居ても立ってもいられず、ただひたすらに歩き続けた。ようやく着いた先にあったのは、例のお屋敷。

 昨夜は暗くてよく見えなかったが、今朝は太陽が昇っていて、はっきりとお屋敷の様子を見ることができる。あいかわらず、その佇まいは不気味であった。でも、そんなことは気にせず私はお屋敷の中へと入っていく。

 太陽が昇っていても、やはり薄暗く視界が悪い。一歩踏み出すごとにギイッという音が響く。床には埃が積もっていて、それが歩くたびに舞い上がるのでせきこみそうになる。

 しばらく進むと扉が見えてきた。私は意を決して、その扉を開ける。

 そこはあの書斎らしき部屋だった。昨日ははっきりわからなかったが、机の上だけでなく床にも大量の書物が置かれ、山積みになっている。そして、部屋の隅のベッドには人影があった。私はゆっくりと近づき、眠っている女性の姿をまじまじと見つめる。

「綺麗……」

 思わず声に出してしまうくらい、彼女は美しかった。太陽のもとでもなお、その美しさがきらりきらりと光っている。透き通るような白い肌に艶やかな黒髪。長いまつ毛に、整った鼻筋。わずかに開かれた唇は、規則正しい寝息を立てていた。その美しさに見惚れてしまい、我を忘れてしまう。私は彼女の頬に触れようと手を伸ばす。その時だった。

「……誰?」

 彼女が目を覚ました。私は慌てて手を引っ込める。

「ご、ごめんなさい。起こしてしまって!」

「あなたは……」

「和泉です。昨夜、ここへ迷い込んだ者です」

「あぁ……それで、また来たの?」

「はい」

「どうして?」

「昨日見たこの光景があまりにも鮮明で……」

「そうなの」

 彼女は興味なさげに呟くと、再び目を閉じる。そして、「帰って」と言った。

「えっ?」

「聞こえなかった? 今日は気分が悪いの。早く出て行って」

「待ってください!」

「なに?」

「私、あなたのことが知りたくて! それで今日も来てしまったのです。もっとあなたのことを教えてください、お願いします!」

「嫌よ」

「お願いします」

「しつこい人は嫌いなの」

「どうしてもだめですか」

「ええ」

「……」

 私は黙ったまま俯いた。

 しばらくして、彼女が小さく溜息をつく。

「わかったわ」

 そう言って、彼女は上半身を起こす。

「質問に答えるくらいなら、いいわよ」

「本当ですか」

「ええ」

「じゃ、じゃあ、まずはお名前から教えてもらえないでしょうか」

「教えたくないわ」

「え、なぜですか」

「そのままの意味よ。教える気はないの。別に名前を呼ばれなくたって困らないから」

「……」

 私は口をつぐんだ。質問に答えるならいい、と言っていたのに。私は嫌われているのだろうか。それとも彼女がもともと無愛想なだけなのだろうか。

「他に聞きたいことはあるかしら」

「そうですね。では、好きな食べ物はなんですか」

「特に無いわ。食べられればなんでもいいの」

「……なるほど」

「他には」

「あとは——そうだ! 趣味はなんですか?」

「読書よ」

「どんな本を読むのですか」

「この部屋にある本よ」

「一番好きな本はどれですか?」

 私がそう言うと、彼女は無言で近くにあった本を指さした。とても読み古したものなのだろう、題名が消えかけていて読めない。

「どんなお話なのですか?」

「読んでみたら?」

 私がその本のページをめくると、中には文字がぎっしりと書かれていた。どうやら、手書きで書かれた日記のようだ。少し薄くなった日付を見ると随分と古いもののようで、少なくとも十年程度は前のものであることがわかる。

私はおそるおそる最初の数行を読んでみた。

 

11月1日 今日は晴れ。天気がいいので三人で久しぶりに公園へ行った。

たまにはこういうのもいいかもしれない。

 

「あの、これ日記のようですけど、私が読んでもいいのですか?」

「構わない、と思う」

 私はページをめくる。

 

11月22日 今日はパーティーだった。あの子ももう七歳か。

一度でいいから顔を見たいものだ。

 

 私はその後も次々とページをめくっていく。そして最後の一ページを読み終えたとき、私の心の中を、今まで出会ったことのない感情が渦巻いていることに気がついた。

「質問の答えよ。満足したかしら」

 彼女はそう問いかける。私は泣いていた。理由は分からない。ただ、何か触れてはいけなかったものに触れてしまった。そんな気がした。

 私がそうしていると、彼女は話し出した。

「それは、私の父の日記なの」

「お父さん?」

「ええ、そう。私の父は若いころ小説家だった」

「へえ……」

「父は、私が生まれる前に失明したの」

「え、でもこの日記は……」

「物書きをしていただけあって、見なくても書けると言っていたわ」

 彼女は思い出すように天井を見つめる。

「気づけば病気は悪化していて。私は父の作品が大好きだったの。だから、父が亡くなったときは悲しくて仕方がなかった。父が旅立った次の日、母が自殺したわ。きっと、母は父の死を受け入れることができなかったのだと思う。そのときは、私も一緒に殺してくれれば良かったのにと、毎日毎日泣いていたわ。それから、何年も経ってようやく気持ちの整理がついた。そう思っていたんだけど……」

 彼女はそこで言葉を区切る。

「やっぱり無理だったみたい。最近になってまたあの時のことを思い出すようになった。何をする気も起きなくて、本を読むか寝るかの二択になってしまったの。そんなときに、昨日のあなたが現れた」

「……」

「最初は、怪しい人だと思って警戒したわ。だって、目を開けたらどこの誰だかわからない人が月に照らされていたのだもの」

「すみません……」

「謝ることじゃないわ。そう思っていたけれど、私の思い違いだったのだから」

 彼女は、最初にしたように私の頬に触れた。長いまつ毛が揺れて、瞼が閉じられる。そして、もう一度目を開いて私を見る。

「あなたは優しい人ね」

 彼女の口からこぼれた言葉を、理解するのに時間がかかる。

「え?」

 ようやくそれだけ言うと、彼女はにこりと微笑んだ。

「父の日記を読んで涙を流してくれたわ。他人の親の日記を読んで泣けるなんて、あなたは感受性が豊かなのね」

「……ありがとう」

 私は彼女の瞳を見つめ返してそう言った。

「ええ?」

 彼女は私から感謝されると思っていなかったのか、瞳に驚きの色が見え隠れしている。

「ありがとう、あなたのことを教えてくれて。おかげで私が生きる理由が見つかったような気がします」

「理由? よく分からないけれど……それはよかったわ」

「私、これから毎日ここに来ます。あなたがつらい記憶を思い出さなくていいように。何もする気が起きないなら、私は隣で本でも読みながら待っています。それでまた、気力がもどってきたら、私とたくさんお話してください」

「……十数年も生きれば、こんなにうれしいことがあるものなのね」

「うれしいこと?」

「なんでもないわ」

 彼女はくすりと笑った。

「ねえ、最後に一つ質問してもいいですか?」

「なあに」

「私……」

 気づけば、いつもの私は絶対に口に出さないようなことを言おうとしていたけれど、今さら止めようとは思えなかった。

「私、たった今あなたのために生きると決めました。だから……あなたにも私のこと、あなたのお父さんの小説くらい好きになってほしい、です」

 最後まで言い切った私の顔は熱かった。

「質問になっていないじゃないの。でもいいわ、そうなれるよう努力してあげる」

 彼女はまた楽しそうに笑って、赤くなりながら俯く私の髪をそっと撫でた。

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屋敷の彼女と月明かり 九日 @_Hiicha

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