第4話
本当に本当に小さな、音にならないような声だったけれど、その言葉は妙に私の耳に響いた。
「……成海さんは、どうしたいの?」
「私ひとりじゃ何もできないけど、もっと勉強して、議論をして、仲間を増やして。いつか、こんなおかしな法律を変える一助になりたい」
「それって、反対運動とかを起こすってこと?」
「そうじゃあないけど……正当な手段があるでしょ、意見を表明したり、選挙に出たり。 でも――必要なら、もっと強硬な手段に出ることもやむなしとは思う。それくらい、今のこの制度はおかしい」
成海さんの横顔は真剣そのもので、本心からそう言っているようだった。
私は彼女の意見に賛同も反対もせず――ただ、とても、真面目でケッペキな子なんだなと思った。
叔母がそんな人だったことを思い出す。神経質で、いつも周りの何かを黙って嫌がっていて、世間の『ちょっと譲ったり我慢したりすればうまくいく』ような事柄を、毛嫌いしている人だった。
私が見つめていると、彼女は少し気まずそうな顔をして、こほんと咳ばらいをした。
「ごめんなさい。今まで話した内容はすべて冗談よ。忘れて頂戴」
「――うん、わかった」
そして成海さんは席を立った。重そうな本を大事に抱えて。
私は去り際の彼女に声をかける。
「成海さんは……もし、十八歳になって、アプリでポイントがもらえる年になっても、死刑執行に参加しないの?」
「押さないわ。絶対」
成海さんは質問に答えることすら煩わしいという風に、首を横に振った。きれいに切りそろえられた髪がさらりと揺れていた。
成海さんはいったん私の方に向き直った。眼鏡の奥から、真剣なまなざしがまっすぐに私に向かってくる。
「あなたが執行ボタンを押すことに反対はしないけれど」
「うん?」
成海さんは言った。まるで、宣言のようなきっぱりとした声だった。
「命を奪うことの意味は、忘れない方がいいと思う」
私は結局それに明確な返事をすることができなかった。曖昧に顎を下げて胡麻化しながら、私は立ち去る成海さんの細い背を見送った。
成海さんは将来どうなるのだろう。彼女の言う通り、死刑制度を根本から覆すのか――それとも、今の私の叔母みたいに結局世界を受容してたくましく生きるのか。
世界の現実に押しつぶされるように、自分の信条に折り合いをつける。それは別に勝ち負けとは関係のない話だ。
叔母は出産を控えたころ、モノトーンのベビー服を用意して絵本からドリルまでそろえて、本好きな子に育てるのだと宣っていた。でも、ふたを開けてみればキャラクターものの派手で安っぽい服を着てはしゃいで走り回る姪っ子を大声で呼んで追いかけまわすような普通のお母さんになった。
私はちょっと失望のような気持ちを覚えてしまった。有限不実行だな、と。姪っ子ちゃんがすごく良い子で、叔母がすごく頑張っているのはもちろん分かっているけど。
成海さんは果たしてどんな大人になるのだろうか。
結局成海さんとまともに会話をしたのは、これが最後だった。
◆
成海さんの言葉は、そのあとしばらくの間私の心の隅っこに陣取っていた。
簡単な死刑なんて、きもちわるい。人の命は簡単に奪っていいものではない。
――それでも。
進路も決まって卒業式も済んで、そして三月の二十五日。十八歳になった日、私は司法省のアプリを入れた。
友達でもない女の子の言葉よりも、ポイントの誘惑の方が強かった。
そのときの執行対象は強盗殺人と放火を犯した男だった。民家に押し入り、家族三人を殺害して、金品を奪って、さらにその家でしばらく暮らして、置いてあった食べ物が尽きたら家に火をつけたのだと。
ひどい話だ、執行されるのも仕方がない。司法に協力することは別に何も悪くない。そう思った。
そして予告された午前二時。私はアプリのガイドに従いながら、画面に現れた『執行する』というボタンにそっと触れた。強化ガラスの画面に表示された四角いボタンが、押下されたように変化する。
そのほかは、音も震動も、映像も、何もなく。
執行が終了しました。ご協力に感謝します。Sポイントの反映には数分をいただく場合があります――アプリの画面が切り替わる。
あまりにあっけなく、私の初めての死刑執行は終わった。
少しして、今回の山分けポイントの一人当たりの取り分の計算が終わり、画面に数字が表れる。
夜中で、予告から執行までの時間が短かったから、貰えるポイントは、お昼ご飯を賄える程度には多かった。
大人の仲間入りをした嬉しさの反面、今まで持っていた小さくて透明な何かをうっかり落として壊してしまったような、ちょっとだけ寂しい気持ちもあった。
◆
それから、何十年も過ぎた。
大人になって、働いて、学生時代みたいにSポイントだけに固執する時間なんて無くなって、スキマ時間のお小遣い程度にアプリを覗く程度になって。
親友のまなみとは進路が違っていて、高校の卒業後にはあっという間に疎遠になってしまった。最後に会ったのは、十九歳の夏だっただろうか。もうそのときには共通の話題も少なくて、まなみは新しい彼氏との生活に夢中で、一日中遊ぶはずだった予定を切り上げて、早々に別行動をして立ち消えになってしまったと記憶している。
どこに行っても、離れても、私たちずーっと友達だよね、と泣いた卒業式のことと併せて、四十路になった今でもなんとなくほろ苦い思い出としてかみしめることがある。
成海さんが私に残した言葉も、すっかり忘れていた。考え続けなければならない。
ずっと引き出しの底に置いたままになっていたそれを突然思い出したのは――拘置所で、彼女と顔を合わせたときだった。
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