4.「お食事処・ご宿泊」への来客


 ノックの音を聞いた瞬間、私はとっさに窓の方を見た。もし逃げるとすればあそこから飛び降りるしかない。


 しかし、よく考えると、なぜ逃走経路を確認しなければならないのか、謎ではあった。現実的に考えて、ノックの主が私を殺したり拉致ったりしようとしている可能性はどのくらいあるだろうか。もし相手にそういうことをする気があるなら、ノックよりも先にノブを回そうとしないだろうか。


 そう考えつつも、返事をする気になれず、息を殺してドアを見つめる。



 しばらくの沈黙の後、ドア越しに声がした。


「お休みのところ、申し訳ありません。実はその、お願いがあって参ったのです。そのままで構いませんから、少し、聞いてください」


 その声は、なんとも奇妙な感じを受けた。男性の声のようだったが、風邪でも引いているかのように、隙間風のような高い呼吸音が混ざっていた。あと、声の抑揚の付け方が妙だった。訛っているのとは違う感じ。


 やはりまだ、返事をするのはためらわれたので黙っていると、やがて、声の主は話を続けた。


「実は今夜、私達は海辺から船に乗るのです。その際に、楽器を演奏して見送る方が必要なのですが、演奏者が来られなくなってしまいました。それで、その、あなたにお願いできないかと、思いまして」


「私の楽器はベースなんですけど」


 うっかり声を出してしまって、私は少なからず後悔した。しかし、こうなると後には引けない……か。


「ベース?」


「ええ。あと、アンプを持ってきていないので、演奏しても音が小さいんですけど」


 ベースとかアンプとか、意味分かるのかな、と思いつつも、他に何と言っていいか分からないので、とりあえず言いっぱなしにして待ってみる。


 しばらく、何か話し合うような声が聞こえ、それから返事が返ってきた。


「あの、こちらでアコースティックギターを用意できます。それでよろしければ、お願いできないでしょうか」


 私は一応ギターも演奏できる。ベースの方がカッコイイからベースを担当しているだけである。アコギはあんまり使わないが、超絶技巧な曲を弾けとかいう話ではないだろうから、まあなんとかなるだろう。


「わかりました。いいでしょう」


「ありがとうございます。本当に助かります。あの、では、ご準備ができましたら、お願いできますか」


 準備も何もあったものではないので、私は颯爽と立ち上がり、ドアのノブに手をかけた……ところで、再び不安な気持ちが湧き上がってきた。それで、慎重にロックを外し、ゆっくりとドアを開けることにした。

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