俺はその日、祖父を見送った。

岳鳥翁@書籍化進行中

その日は、寒かった

 祖父の様子を見に行った。夜の八時半くらいのことだ。


 父に連れられて入った病室。妹に続いて入ったその先に祖父はいた。


 最後に見た祖父の姿は二、三年前、母から祖母への母の日のプレゼントを届けた時だっただろうか。

 その時の祖父は痩せてはいたものの、元気な姿を見せてくれていた。


 しかし、俺が見たのは目が虚で、歯のなくなった口を開き、驚くほど痩せ細っている祖父の姿だった。


 一瞬、別人かと思った。


 祖母が出迎えてくれて、祖父の寝るベッドの前まで案内される妹。

 俺は少しばかり遅れて祖父の前まで移動した。



 本当に祖父なのかと、目の前にして改めて思った。


 記憶にある祖父の姿と目の前の祖父の姿があまりにもかけ離れていて、言葉が出なかった。


 それでも、妹に続いて言葉をかける。「じいちゃん、来たぞ」と声をかける。


 返ってくるのは少しガラガラとした呼吸音だけだった。



 まともな反応を返すことができない祖父。そんな姿を見て、俺は数ヶ月前の知人の葬式のことを思い出した。


 お世話になった知人だった。

 けど、その日会ったのは記憶にある姿と異なり、痩せ細り、青白くなっている知人。


 そんな姿と、祖父が重なった。

 声をかけなければと思った。



 何か話さなければ、と一瞬そのことしか考えられなくて。


 俺は自分のことを話していた。


 大学のことや、酒を飲めるようになったことなど、ここ数年会っていなかった間のことを話していた。


 話している途中で涙が出そうになった。

 堪えた。

 そんなかっこ悪いこと、祖父の前でできるかと耐えて話し続けた。



 トイレに行くふりをして涙を拭い、鼻をかむ。

 目も洗ってちゃんと吹いたことを確認して戻った。


 

 声をかけなければ。


 しかし、また涙が出てきそうになる。

 馬鹿野郎め、と。何故出てくるんだこの野郎、と。

 必死に目から零れ落ちないように。


 大丈夫? という言葉は使いたくなかった俺は、終始、「俺はここにいるぞ」「目の前におるぞ」と口にする。



 看護師が熱を測る際に見た祖父の体。

 骨と皮膚しかないんじゃないかと思うほどに痩せていたことに、自分でもわかるくらい目を見開いていたように思う。


 話しかけ続けて、それこそ、話題が見つからず「ここにおる」くらいしか言えなかった時だっただろうか。



 祖母が来て、「お父さん、来てくれてるで」と祖父の顔を撫でた時、祖父が破顔したのだ。


 何の反応もなかった祖父の目元が緩み、少し此方を向いて開いた口の口角がわずかに上がる。

 普通の笑顔ではない、できそこないの笑顔。


 でも確かにそれは笑顔だった。

 その表情を見たのは俺と祖母の二人だけだったけど、確かに笑ってくれたのだ。


 もう目は見えていないのだろう虚ろな目。しかし、祖父は俺のいる方に顔を向けて笑ってくれたのだ。



 泣きそうになったが、ちゃんと笑えた自分に安堵した。



 祖母が嬉しそうに「笑った笑った」と家族や親族たちに言う。



 今日は一緒にいてあげられないけど、明日、また祖父のところへ行くつもりだ。


 ここから祖父が回復するのかは正直なところわからない。

 もしかしたら、このままという可能性もある。


 それでも願わずにはいられない。




 酒を飲めるようになったのだ。今度は、祖父と、共に。語らいながら。


 







 翌日、明日また来ると言っていた病室に母と向かうと、相変わらず祖父はそこにいた。



 側に付き添っていた祖母が出迎え、お父さん来たよ、と声をかける。

 しかし、祖父からの返答はなく呼吸音しか返ってこない。



 祖母曰く、前日の夜よりも呼吸が弱くなっているらしい。


 近づいて祖父の顔を覗き込んでみれば、表情は変わっていないが確かに呼吸が弱くなっていた。

 呼吸の間隔が伸びている。



 祖父なのに、祖父でないようなやせ細った顔。


 昨日との違いを挙げるならば、半開きだった目の片方が閉じていたことだろうか。

 左目だった。



 口を大きく開けてかすかに息をする祖父の横顔を見ながら、俺は何と声をかけてよいかわからず、ただ黙ってその寝顔を見ていた。


 何となく、祖父に触れることがダメなように感じたのだ。壊れてどこかへ行ってしまいそうな気になったからだ。



 祖母と母が何か話し込むためにベッドの側から離れたが、俺は相変わらず祖父の近くで様子を見ていた。


 そこで横顔を見ているとふと気づくのだ。


 閉じられた左目の目尻。そこからこめかみの部分に何かが流れて固まったような跡があったのだ。


 涙、なのだろうか。正直な話、俺には判断がつかなかった。

 けど、それを見て何故か胸が締め付けられるような思いをした。



 その時だっただろう。

 祖父が生きている間に触れることが、もう二度とないかもしれないと感じたのは。



 本当に、ただ何となく、漠然と。


 縁起の悪い話ではあるが、この時の俺はもう祖父がいなくなってしまうのではないかと感じたのだ。



 理由も確信もない。ただの予感。


 だが、ここで触れておかなければなんとなく後悔するような気がした俺は、祖父の頭を撫でたのだった。



 細く、量の減ってしまったロマンスグレーの髪。


 86歳という年の割にしっかりとしていたはずの髪は、俺が思っている以上に弱弱しかったのをこれを書いている今でも覚えている。


 しかし、その時は確かに、まだ暖かかったのだ。



 ――おじいちゃん、ここにおるで。隣におるで。聞こえてるか。



 そんな言葉をかけ続けていた。


 途中、話しかけすぎると聞いている方も疲れるよ、と母から注意を受けた俺は、代わりに祖父の手を握っていた。


 こちらも細く、皮膚と骨しかないような手だったが、握ってみれば掌は暖かくてしっとりとしていた。それが、祖父がまだ生きている証だった。



 時折、おじいちゃんここにいるぞ、などと声をかけながら祖父の隣で過ごしてると、祖父に微妙な変化が現れた。


 俺と母が到着してから一時間も経っていないくらいの事だ。



 祖母や母と違い、一人ずっと祖父の側で様子を見ていたからこそ気づけたのだろう。



 呼吸の感覚が、また長くなったのだ。


 ほんの少しの変化だ。しかし、ほんの少しの変化だったのだ。



 祖母と母にそのことを伝えると、二人は祖父の側に近寄って声をかけていた。 


 俺も同じように、しかし同じ言葉をかけることしかできなかった。



 おじいちゃん、おじいちゃんと。



 そして事態は急に変わったのだ。


 祖父の呼吸が目に見えて遅くなった。



 呼吸をしているかどうかは、音の他に喉仏が動いているかどうかでも判断していたのだが、その喉仏の動く間隔がおかしかった。


 一度動くと、次に動くまでにかなりの時間を有し、一見呼吸をしていないようにも見えてしまう程に遅くなっていた。



 母はすぐさまナースコールを押した。


 俺は声を張り、必死に「おじいちゃん」と声をかけていた。



 死んだのかと思ったが、看護師の方々が来る直前にまた呼吸の間隔が少し早くなり安堵した。

 しかしそう思ったのもつかの間、祖父の喉仏は一度おかしな挙動を見せると、歯の少なくなった口の中で乾いた舌が三回ほど上下に動いた。



 祖父の動きは、そこで止まっていた。


 肩や頭を触りながら呼びかけても、祖父が反応を見せることは無かった。


 祖父が死んだと、そう感じたのはその時だっただろう。



 12時40分頃。


 俺が母と共に病室を訪れてから一時間も経たずに、祖父の86年という長い人生の幕が閉じたのだ。



 まだ顔や手は温かかった。



 祖母が泣いているのを見たのは、23年の人生の中でも初めての事だった。




 何故か泣いてはいけないと昨夜の様に考えた俺は、零れる涙と共に心の内で文句を零す。


 何泣いてんだと、零れないように上を向く。



 それでも俺の文句を聞いてくれないそいつに嫌気がさし、母に暑いから外に出てくると言って祖父の眠る病室を抜け出して向かったのはエレベーターホール。


 誰もいないことに安堵と涙が零れた。



 久しぶりにボロボロと泣いた。


 自分に文句を垂れながら泣いた。


 昨夜で泣いたはずなのに、後から後から溢れてくる。こんなみっともない姿、祖父の前で見せられるかって。



 しかし、エレベーターホールに人が来る気配を感じた俺は、すぐにそこから離脱した。

 病室に帰るのに泣き顔というのが恥ずかしくて、トイレで顔を洗ってから戻った。



 担当医が来たのは叔父や叔母がそろった後の事だった。



 1時58分。


 祖父の死亡が確認された。



 どうやら祖父の体を綺麗にするようで、看護師の方々が準備をしてくれるらしい。


 親族で希望すれば、体を拭いたりといったこともできるようだった。



 母にどうするかと聞かれたが、俺は辞退することにした。


 多分、拭いている途中で泣くから。祖父に近い場所で、そんな姿は見せたくなかった。



 母の提案で飲み物を買ってくることになった。俺を気遣っての事なのだろう。


 一度落ち着きたかった俺はいわれるがままコンビニへと向かったが、まさか病院内にあるとは思わず外まで出てしまった。教えておいてほしかったと文句を垂れた俺はきっと悪くない。



 外は寒かった。



 戻るとカーテンの向こうで祖父の体を拭いたり、着替えをしたりといった作業が始まっていたのだが、祖母や母を含めた部屋に残っていた人たちは誰も参加していなかった。

 参加しろよと思ったが、俺がしていないだけに何も言えない。


 やがてカーテンが開けられ、新しい寝間着を身に着けた祖父の姿が見えた。今度は洗髪と髭剃りをやってくれるそうで、すごく丁寧だと皆が口にしていた。


 身綺麗になっていく祖父を見るのは嬉しかった。



 そうして、化粧をし、入れ歯を入れて髪と髭を整えた祖父の姿は、俺の記憶にある元気な時の祖父の姿と重なった。

 本当に、今にも動き出しそうというのはこういうのを言うのだろうとさえ思った。


 傍から見れば眠っているようにしか見えないのだから。


 けど、ふとんの隙間から見えた祖父の足は驚くほど真っ白だった。


 その色が祖父の死を物語っていた。



 今後の予定を話し合う母たちを尻目に、俺は一人祖父の側へ立った。


 本当に寝ているようにしか見えない。もしかしたらまだ生きているのでは?と祖父の死を感じていたはずの頭が都合の良いように解釈を始めていた。



 頭を撫でた。



 冷たかった。 



 手の甲で触れた頬は冷たく、少し硬かった。



 ふとんの中の手は冷たかった。



 祖父はやはり死んでいた。



 穏やかな顔をしていた。









 祖父がベッドで眠ったまま病室を出ていく。


 それに続く母たちの後をフラフラと追った。


 何故か力が入らず、朧気だったことを覚えている。


 どうやら、祖父はどこかに運ばれるらしい。


 ベッドから何かの台に移される時の祖父は、まるで枯れ枝のように軽そうで、細くて、固そうだった。



 祖父の顔に白い布が被せられた。



 おじいちゃんの顔が見えなくなった。



「ああ」と、言葉が零れた。



 祖父を載せた車が出ていくのを、俺はただただ頭を下げて見送った。



 お世話になりました、ありがとう、おじいちゃん、お疲れさまでした



 思いつく限りの言葉を思い浮かべていると、母に肩を叩かれた。どうやら車は行ってしまったようだった。



 葬式は家族葬らしい。簡素に、というのが祖父の希望とのことだった。



 父と母は言う。


 きっと、また来ると言っていた俺が来るのを待っていたのだろう、と。



 定かではない。もしかしたらたまたまなんてこともある。



 しかしだ。


 もしそれが本当の事であったのなら、どれほど嬉しいだろうか。


 俺の声がおじいちゃんに届いていたと考えられるだけで、どれほど嬉しいことなのかと。



 それを聞いて、俺はまた一人、部屋で泣いていた。


 正直な話、今も泣いている。

 見送った後の車の中で、これを書きながら泣いている。


 死に際に立ち会えた孫は俺一人ではあった。


 だからこそ、俺は、こうして文に残そうと思ったのだ。忘れないようにと。泣きながらでも、鼻水を垂れ流しながらでも書いてやろうと。



 今のこの思いを語ることが出来るのは、俺だけなのだから。



 こんな文にしたところで、どうしようもないということは俺も分かっている。


 けど、趣味とは言え文字を書いているのなら、今のこの思いを何らかの形で残したいと思ったのだ。


 家族や親せきにも話してはいないが、この思いを忘れないようにというのが大きいだろう。


 忘れてやるものか。




 小さいころから優しくしてもらい、すごくお世話になりました。


 小学校の頃、百人一首や坊主めくりといった遊びを教えてもらったことを今でも覚えています。


 ごめんなさい。


 自分の成績が良いことで調子に乗って、従姉妹の点を俺が聞こうとしたばかりに、おじいちゃんがその従姉妹に嫌いと言われてしまったことを今も尚、心苦しく思っています。



 ありがとうございました。



 おじいちゃんへ、という言葉が届くのであれば。


 今度は、飲めるようになったビールでも飲みながら、こたつでも挟んで一緒に話をしたいものです。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


木曜の夜に祖父の容体が悪化したことを聞き、病院へ向かいました。


そして翌日、俺は大学を休んで祖父の下へ。

本当に、その日のうちにこんなことになるとはまったく考えていませんでした。

今でも、息を引き取る寸前のことが思い出せます。


必死におじいちゃんと呼び掛けている自分と、反応の薄くなっていく祖父。


父方の祖父は父が中学生の時に亡くなっているため、俺には面識がありません。そのため、俺にとっての祖父は母方の祖父のみ。

おじいちゃん、といえば祖父の顔しか思い浮かびません。


その祖父が亡くなり、俺には祖父と呼べる存在がいなくなりました。

そう考えると、心のどこかにぽっかりと穴が開いたようにも感じます。


物語の人物が良く使うこの表現の意味が何となく分かった気がしました。


祖父はいつも優しく、俺が来ると「よぅ、○○」と気安く元気な声で歓迎してくれていました。

正直な話、今でも信じられないことではあります。


今から四年も前の出来事。しかも誰かの死に関わるもの。

それを出すなんて常識がないんじゃないか! なんて言われるかもしれません。

でも四年たって改めて、と言う意味も強いです。

あの時の気持ちを残す、忘れない、というあの日の自分の言葉は変えるつもりはありません。


ここまで読んでくださった方々。作者のわがままのような話にお付き合いいただき、ありがとうございました。

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