第5話 ゆめうつつ
帰り道、他の生徒たちがまだちらほら下校しているのが視界に入ってきているのは分かった、なぜなら皆、僕を驚いた顔で見ているからだ。
その理由はきっと今の僕が自転車を漕ぎながら発狂しているせいだろう。
恥ずかしさなんてなかった、僕は今他人にどう思われているかなんて気にする余裕はなかった。
ペダルを漕ぐ動作を忘れなければあとはどうでもよかった。
暫くすると家路までの長い直線に入った、僕が大嫌いな松林と海の不気味な一本道だ。
辺りは夕焼け空だった、とても赤い、異常なほど赤い、まるで赤い絵の具をこぼしたような空だった、夕焼け空ってここまで赤くなるものだったっけ。
空は真っ赤な夕焼けなのに松林は闇につつまれていた。
微かに松が生えているのが闇の中に陰で見えた、だがその先にあるはずの海は見えない。
海の方から吹く風は感じるのに波音はまるで聞こてこない、あの嫌な汐の匂いもしてこない。
まるで海自体がなくなってしまったかのようだ。
今はあの大嫌いだった海が恋しい。
気配がする。
松林しかないはずの闇で何かが動いている、松は気配を感じるほど動いたりする物ではない。
だが確かに何か動いている、この闇はとても気味が悪い。
もう何もかもが嫌だ、この通学路も学校もこの港町も。
僕はふと先程の階段での無限ループが脳裏をよぎった、このままどこまでもこの一本道を自転車で走り続けなければならないのかということを、それは恐怖でしかない。
どうか無事に家にたどりつきますように。
僕は神様に祈った。
明日から楽しみにしていた休日だというのになんで僕がこんな恐ろしい目に合わないといけないんだ。
こんな光景はもう見たくない、僕は目を瞑った。
僕の短い人生、冗談ではなくこの恐怖が続くのならばもういっそ死んでしまってもいいとさえ思った。
(ダメだよ、もう忘れたの? 流れに身をまかせなくちゃ。 君は階段の真ん中にとどまり続けなきゃいけないんだから)
脳内にどこかで聞いたことある声が響いてきた。
でもダメだ、分からない、一体誰の声なのか僕は思い出せない、ダメだ、きっと僕はもうダメなんだ……。
「エイジ、晩御飯用意できたわよ、いいかげん起きなさい」
あぁ、これは、この声は聞き覚えがある、これは僕の母さんの声だ。
恐る恐るゆっくりと目を開いてみた。
それは見覚えのある天井だった。
ここは、ここは僕の部屋じゃないか、家に帰った記憶は全くない、あれからどうやって帰ったのかも分からない、あの時死を覚悟して目を瞑って、そしたらあの変な声が頭に入ってきて、それから僕はいつの間にか自分の部屋で布団に入っていた。
枕元に置いてあった携帯を開いた、確かに今日は金曜日で時間は20:15を表示していた。
ようやく頭の理解が追いついてきた、どうやら僕はあれから無事家に帰ってきて今の今まで寝ていたらしい。
そうか、多分あの階段でのおかしな出来事からは全て僕の見た夢だったのか、なんだかホッとした。
さっきの夕飯を知らせる母さんの声にも僕は安心を取り戻した。
それにしてもあれはとんでもない悪夢だった。
リビングに行くと夕食が用意してあった。
肉派の僕が大好きな豚の生姜焼き、父さんも席についていた。
とても腹ペコだ、きっとあの悪夢が僕から大量のカロリーを奪ったに違いない。
僕は家族三人で夕食をとった。
珍しくご飯をおかわりした、普段はしない、どちらかと言うと僕は少食だから。
母さんは少し驚いていたけど嬉しそうにも見えた、父さんは特に気にせず黙々と食べている。
静かなリビング、食事中のテレビは父さんが嫌がるからつけない。
普段から家族の会話はあまりない、食事に集中しなければならないから当然だ、会話がしたいのなら食後でいくらでも出来る。
幸せだ、さっきの悪夢のせいもあるが、平凡な日々がこんなにも愛おしいだなんて初めて実感した。
風呂から上がると急に眠気がきた。
学校から帰ってから寝たはずなのにこんなにも眠い。
もう寝よう、僕はリビングを後にした。
父さんと母さんはまだ起きている、父さんは最近朝ゆっくりできないからか新聞を寝る前に読んでいる。
母さんは録画した韓国ドラマを観ている。
僕は部屋に入ると気を失ったかのように布団に倒れこんだ。
翌日の土曜日。
僕は昨夜、寝過ぎたせいか全身がダルくて動く気にならない。
一日中部屋でラブコメ漫画を読み返してダラダラと過ごした。
日曜日。
全身のダルさはとれていたが、やはり外出する気は起きない。
昨日のラブコメ漫画の続きを読み返して過ごした。
晩御飯を食べてからも部屋でダラダラと携帯をいじって過ごしているとふと思い出した。
それはかなりまずい緊急事態だった。
明日の一時間目に英語のリスニングテストがあったのを思い出した。
失念していた。
リスニングテストだといいながらも毎回ちゃっかりと英単語の書き取りも出題されるからだ。
僕は焦っていた、教科書で出題範囲を見直さないといけなくなったからだ。
急いで風呂に入って歯磨きをした。
なんやかんやしていると時刻はすでに午後十一時十三分になっていた、本格的にヤバい。
これは今から勉強したら少し日付をまたぐかもしれない、僕は急いで部屋へと戻って勉強机に着いた。
英語の教科書を開いて出題範囲の英単語をひたすらノートに書いた。
頭と体の両方に叩き込むため何度も何度も機械的に書いた。
僕の聴覚は勉強に意識が集中しているせいで家の物音がまったく聞こえなかった。
家の中はとても静かだ。
同じ姿勢で書いていて筋肉が張ってきたところで僕は久しぶりに立ち上がった。
父さんと母さんはもう寝たんだろうか?
携帯を開くと時刻は午前0時を少し回っていた。
さすがに眠たくなってきた、だけど僕はもう一往復くらいは英単語を書いておきたかった。
眠気覚しに冷たい水でも飲むとするか、もうこんな時間だ、二人が寝ていてもおかしくない、起こさないように足を忍ばせて歩こう。
僕が部屋の戸を開けるとリビングにはまだ明かりがついていた。
なんだ、まだ起きていたのか。
音を立てないように気を使う必要はなくなった。
やれやれ、二人とも朝が早いのに夜ふかしとは、言えたぎりではないが僕はリビングに向かいながらそう思っていた。
僕がリビングに入ると二人はソファに並んで座り電源の入っていないテレビ画面を見つめていた、その目の焦点は合っていない。
これは一体どういう状況で二人に何が起きているんだ?
普段ならこんな遅い時間に僕が起きていたら嫌味の一つでも言うはずだろうに、僕がリビングに入って来ても二人は僕に見向きもしない、これじゃまるで二人とも授業中のビモっちゃんじゃないか。
異様な光景に水を飲むより先に僕は固唾を呑んだ。
僕は恐る恐る二人に話かけてみた。
「ねぇ、二人とも一体何をしてるの?」
「テレビを観ているんだ、見れば分かるだろ」
「そうよ、今いいところなのよ」
二人は感情なく喋った。
その言葉に人間味は感じられなかった。
テレビ画面には何も映っていない、そりゃそうだ、そもそも電源が入っていないのだから。
「何も、何も映ってないじゃないか、変な冗談はやめろよ」
僕は怖くなって少し声を張って言った。
「テレビを観ているんだ、見れば分かるだろ」
「そうよ、今いいところなのよ」
僕が何を聞いても二人はそれしか言わなかった。
「父さん明日仕事で朝早いじゃないか、母さんも朝食や弁当作らないといけないだろ、いいかげんにもう寝ろよ」
僕は反応の薄い二人にさらに声を張り上げて言った、もはや怒鳴り声にも近かった。
「アハッ、アハッ、アハッ…アハハハハハハハー」
僕の怒声に二人は何も映らない画面を見ながら体をビクつかせて笑い出した。
もう僕が何を言っても二人はずっと笑っている。
「アハハハハハハハーアバババババババー」
僕はリビングから逃げた。
部屋に戻っても二人の不気味な笑い声は僕の部屋まで届いてきた。
離れているのにまるで僕の耳元で笑っているかのような音量で聞こえてくるから僕は耳を塞いだ。
あぁ、これも夢だ、絶対に夢だと僕は自分にいい聞かせた。
寝付けない、とてもうるさい、耳がおかしくなりそうだ、こんなの寝付けるはずがない。
逆に恐怖でどんどん目が冴えてきた。
(否定しないで受け入れて。 じゃないと階段をのぼるかおりるかしか選択肢がなくなるわ。 いい、君はとどまらなくてはいけないの、階段の真ん中で)
似たような台詞を夢の中で聞いたのを思い出した。
頭の中で誰かが僕に話かける、相変わらずそれが誰なのかは思い出せない。
言葉の意味は理解出来ないが妙に心地いい声、なんだか落ち着く。
僕は知らない誰かに言われた受け入れてという言葉に安らぎを覚えた。
それがなぜなのかは分からない、けど僕にとってこれはきっと重要な言葉なんだ。
二人の笑い声で頭がガンガンしてきた。
僕は勉強机に向うと英単語を書いたノートをしまい、まだ何も書かれていないまっさらなノートを開いた。
この安らぎを覚えた受け入れてという言葉を忘れてしまわないように何度も書くために。
僕は受け入れる僕は受け入れる僕は受け入れる僕は受け入れる僕は受け入れる……。
どのくらいの数書いたのかは分からない、数えるのが面倒くさくなるほど書いた。
なるべく多く書くために小さな文字で書いた。
よし、これだけ書けばもう忘れる心配はないだろう。
なんだか急に眠くなってきた。
僕は意識が朦朧としてきて足取りおぼつかずにふらふらと寝床へ移り布団をかぶった。
いつのまにか二人の笑い声はもう聞こえなくなっていた。
布団の中は真っ暗だ、寝るにはうってつけだ。
その暗さが次第にさらに濃くなっていく、まぶたが下がってきてるんだ、視界が暗くなればなるほど僕は安心してきた。
そして僕の視界は完全な闇をうつした。
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