第42話 準備


 赴任が決まってからは、まるで早送りでもしているかのように時が過ぎて行った。徐々に、それに向けての引き継ぎなども増えて単純に忙しくなってきたこともあるかもしれない。内示の内示も出て、やっと他の同僚たちも周知し始めたとき、


「……寂しいです。松下さんがいないと」


 そう言って惜しんでくれたのは、以外にも桐谷さん。本当に残念そうにしてくれたのは、結果的には彼女だけだったけど、他にも現場方の人たちが声をかけてくれたのは嬉しかった。上司や、上司の上司は相変わらず互いにいがみ合っていて辟易するが、それでも色々と気にかけてくれていたりもした。


 目まぐるしく日々が過ぎていき、他の同僚や自分の送別会と壮行会もちらほら繰り返していて、ますます日々が忙しくなっていく。


 しかし、それでも駅前でサトの演奏を聞くことはやめなかった。雨でやらないとき以外は、顔をだして、ストロング酎ハイ飲んで、おでんの大根にカラシつけて食って、3日に1回くらいは、またストロング酎ハイを飲んで。


 それが自分の中で一番の優先になっていたと意識するぐらいには、自分はサトとの日々を大事に思っているのだと思い知った。


「って飲み過ぎですよ。歩けますか?」


 とか聞かれたり、たまに応答しなかったら乱雑に蹴られたりした。


 『今度、東京に赴任することになった』と一言。それされ言えれば、どれだけ楽になっただろうことか。サトが悲しんでも、あっけらかんとしても、『ああ、そんなもんか』って見切りをつけて。この歳になると、あきらめることも慣れている。少しはショックなのかもしれないけれど。


「松下さんていつも携帯をいじってますよね?」


 ある時、少女は呆れるように言った。


「だって音楽聴く以外にやることないだろう?」


「やることはないかもしれないけど、ちゃんと聴いてくださいよ」


「……」


「つ、都合悪くなったらすぐ無視するんだから」


「ふっ、サト。俺にそんな口を聞いていいのかな? 君が唯一所有している太客が俺だというのに」


「それはそうですけど」


「俺には好きなときに、去るという選択ができるということを覚えていた方がいい。だから、もっと俺をチヤホヤしろ。チヤホヤして、褒めたたえて崇め奉れ」


「松下さんを褒め称えるくらいなら、いないほうがマシです」


「おい」


「言い換えれば、嘘をつくぐらいなら、いない方がマシです」


「サト、『褒め称える=嘘をつく』という図式はやめた方がいい……いや、やめてください」


「け、敬語で言うほどのもんですか」


 いつも通りそんなことを言い合いながら。


 やがて、俺は携帯をいじり始め、


 サトは大きくため息をつく。


「みんなそうですけど、そんなに楽しいですか?」


「楽しくはないよ」


 多くの場合は、小説を書いているから。売れるか売れないかもわからないものを延々と書き続けることが面白いわけがない。それでも、なにかを吐き出しているときは、少しでも前に進めているという感覚がある。もう、それだけしか自分が進めているという実感が持てなくなっている。


 夢喰バクという伝説の魔物がいるが、案外実在するのかと思った。こいつは歴史上、何十億人と喰い殺してきたのだろうか。夢という甘い餌を吊るしながら、まるで薬物患者のようにそれを追い求めた物を無残に殺す。


「はぁ……楽しみましょうよ」


 目の前の少女はそうため息をついて、ギターを弾き始める。


「……」


 神に祈るとすれば。サトには報われて欲しいと思っている。暑い日だって、寒い日だって、風の強い日だって、雪の日だって、笑いながら歌うこの少女には。


 ふと。


 この話を書きたいって思った。夢に向かってまっすぐに進んでいる少女と夢にすがりついて這いつくばっているおっさんの話を。それは、ラブストーリーでもなく、喜劇でも、悲劇でもない。ただ、限りない無数の道の中で、唯一交差するだけの瞬間を切り取って、互いに話すだけの話を。


それは物語にもなっていない、ただの小噺なのかもしれない。なんの笑いも、悲しみもなくて、なにかを達成することも、なにかを失うことでもない。ただ、自分がここにいて、彼女がここにいて。そんな二人がただ話をする話。



















 そんな二人の話を書きたいと思った。

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