第25話 イエスかノー


 夏の日差しがガンガンと照りつけて、この炎天下だと水分が欲しくなってくる。サトは日陰にいるので日射病になることはないと思うが、まぁいつも通り平常運転だ。


 そして、こんなにもいい天気だと言うのに、午前中出勤をしてきた俺は、早くもストロングレモンチューハイで水分補給したい気分に駆られている。


 ……なんなんだ。上司って、なんなんだ。


「世の中、イエスかノーかじゃないとだけは言っておく」


「急にどうしたんですか?」


「上司がイエスと言えばイエス。ノーと言えばノー。世間では、割とそんな誤情報が出回っているが、そうじゃないと言っておく」


「だから、急にどうしたんですか?」


 差し入れの600mlペットボトルの『おーい、麦茶』をガブ飲みしながら、小娘が尋ねてくる。


「まぁ聞け。会社で嫌なことがあった」


「いつものことじゃないですか」


「お前は間違ったことを上司に命令されたらどうする?」


「そりゃ、『間違ってますよね』って言いますよ。だって、間違えてるんでしょ?」


「俺も、まぁ言う。場合によっては言わないけど」


「場合によってはってどういう意味ですか? だって、間違えてるんですよね」


「相手のテンションによる」


 今日はもう断固たる決意っぽかった。上司がもう決めつけて、『これが正解』的な勢いだった。だから、従った。土曜日だから、もうどうでもよかった。1秒でも早く帰りたかった。


「そんなんでいいんですか?」


「まあ、よくはないかもしれない。でも、いいんだ」


「なんですかそれは?」


「世の中、貫き通す価値のあるものとないものがある。なんでもかんでも正解だ正解だってこだわってても物事が進まないんだよ。妥協した方が、結果的に仕事が進むことも多いんだよ」


「はぁ……なんか複雑ですね」


「そう言う意味で言うと、今日の仕事はタフだった。今後のことを考えるとマジで不毛だから」


 今日の味方が明日の敵。恐らく、今日土曜日出勤して書き上げた書類は、上司の承認を得て、上司の上司に手渡される。そして、説明を求められ、上司の上司との戦いが始まる。承認したはずの上司は知らん顔どころかむしろ上司の上司サイドに回り攻撃をしてくる。必然的にフルボッコ。


 その未来が見えて。


「……でも、間違ってると思ったら一応言った方がいいんじゃないですか?」


「聞く耳持ってれば言うよ。でも、世の中『こうだ!』って決めちゃってる人も多いからな。釈迦に説法と言うよりは、キリスト教徒に仏教教えたって響かないだろ。そんな感じ」


「……なんか、全然わからないですけど、最後の例えは想像つきますね」


「歳取っておっさんになってくるとさ、部下に否定されるのもまぁまぁ辛いんだよ」


 それは、自分が歳をとってきたから感じることなのかもしれない。歳をとっていけばいくほど、間違っていることへの非難は強くなる。それはもちろん立場が上になるに従って責任が重くなっていくからだけど、それだけじゃない。


 否定されることは、それまで自分が思って生きてきたことを否定することだからだ。それは、もう後戻りできない道を歩んでしまっている状態だと辛い。


「松下さんはそんな感じないですけど」


「そうか?」


「そうですよ」


「永遠の下っぱって感じです」


「どうせなら永遠の若手としておけ」


 まあ、平社員であることは確かだけど。


「若手かどうかと言うと微妙になっちゃいますけど」


「ぐっ……せめて、永遠×下っぱにしてくれ」


「HUNTRE×HUNTREみたいな感じにしてもカッコいいとはなりませんよ」


「どうやったらカッコよくなるんだよ!」


「理不尽なキレ方!?」


「下っぱは永遠にカッコよくなれない運命だとでも言うのか!」


「そうじゃないかもしれませんけど、少なくとも今の松下さんは恐ろしくカッコ悪いです」


「はぁ……下っぱ卒業したいな……」


「頑張って働いてくださいよ」


「いや、下っぱでもいいかもしれないな」


「数秒で完全に意見を翻すのをやめてもらえますか!?」


「上司になれば責任が伴うからな……下っぱだって責任がないとは言わないけど、なんとなくな」


 今の上司を見ていて、自分の部下と上司の上司と挟まれるのは中々に辛い気がする。部下を自分の意見に寄せることも、上司の上司に意見を寄せることも、正直面倒くさい。


「まぁ、確かに松下さんはそんなタイプじゃないかもしれませんね」


「……出世したくないと聞かれると正直嘘になっちゃうから複雑なところなんだけどな」


「したいんですか?」


「人並みにはな。やっぱ、見下されるのはそれなりに辛いよ」


 仕事なんて、上に行ったやつほど有能扱いされるって相場が決まっている。


「……私は見下しませんよ」


「お前に見下されたときは、多分お前を往復ビンタしているからそのつもりでいろ」


「酷っ! もしかして、私が下だって思ってます!?」


「安心しろ、その顔面を持っているから、かなり上に位置しているよ」


「……『ありがとうございます』かどうかは一旦置いときましょう。じゃあ、なんでビンタするんですか!?」


「人を見下す人になって欲しくない」


「……それはそうですね。わかりました、ビンタしてください。約束です」


 そう言ってサトは小指をだして。



















 この真夏に、ゆびきりをした。

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