松下さんの小噺
第6話 電車の席
電車に乗り込み、素早く席をロックオン。近頃は、お年寄りに席を譲るという気は毛頭なく、むしろ我先にと席争奪戦を繰り広げるんだから歳はとりたくないものである。
そんな中。
数メートル離れた場所に、サトがチョコンと座っていた。流石にギターを持った美少女は、かなり目立つ。
「あっ、席どうぞ」
「ありがとう」
さも、当然ですと言わんばかりに、お年寄りに席を譲っていた。
「……」
なんなんだ。
あいつは、なにをしてるんだ。
「あっ、松下さん」
凝視されているのに気づいたのか、重そうなギターを持ってこっちに近づいてくる。
「……俺はどかんぞ」
「いや、別にいいですよ」
「お年寄りがいても、俺はどかない」
「なんの宣言なんですか」
「妊婦さんだったら、多分どく。そのときの自分の疲れ具合はわからんが、どくと、俺は信じている」
「そ、そうですか」
「認めてやれ」
「……はい?」
「日常的に席を譲らないサラリーマン、すなわち、おっさんを、認めてやれ」
「ちょっとなに言ってるか全然わかんないんですけど」
と目の前にいる小娘は言う。そんな中、俺の隣の席が空いた。ちょっとおっさんだと座れないほどの幅だったが、サトはモデルのように細いので少し肩を狭める形で座る。
「大変なんだよ、日本のおっさんは。毎日夜まで働いて、朝起きて電車乗ったら座りたい。毎日だから。たまたま、電車に乗って席譲るのとはハードルが違うから」
「ちなみに、今日は休日ですけど」
「休日まで譲らなきゃいけないのか!?」
「それは、平日に席を譲っている人が言うセリフだと思いますけど」
「うるせぇ」
「……」
サトは『あーこのおっさん道理通じないわ』と言わんばかりの表情を浮かべて、ため息をつく。
「寝てもいいよ」
「いや、別に眠くないです」
「寝ちゃって、首をこっくりさせて俺の肩にもたれかかってもいい」
「だから、眠くないんですって」
「おっさんは眠いんだよ!」
「じゃあ寝ればいいじゃないですか!?」
「寝ちゃって、首こっくりさせてお前の肩にもたれかかってもいいのか?」
「いや別に前のめりで寝ればいいでしょ」
「……結局アレなんだよな。可愛い女の子は、肩にもたれかかられても別に苦じゃないし、むしろ嬉しいけど、おっさんにそれやられてると、苦痛、もはやセクハラなんだよな」
「……」
「日本のおっさんは可哀想だ」
「……」
「可哀想だよ……日本の……おっさんは」
「なんで二回、しかも倒置法を使うんですか」
「なにが言いたいかわかるか?」
「ごめんなさい。マジでサッパリよくわかんないです」
「サト、お前は立て。なにかにつけて、お年寄りに席を譲れ……俺はもう……立てないよ」
なにに立てないって、それは電車の席だけじゃない。世間というものに対して、俺はそんなに優しくできない。
昔はもちろんそうじゃなかった。サトと同じように、席を譲っていた。席を譲って、少しだけ恥ずかしくて顔を赤らめていた気がする。でも、それは当然だと思った。むしろ、他の人たちはなんで譲らないのか不思議だった。
いや、お前ら大人が言ってんじゃん。なんで、大人のお前らがそれやらないのって。若者の俺にはできるのに、なんでお前らは当然のように座ってんのって。そんな風に思ったこともあったのかもしれない。
昔はできていたのに、今はできないって思うことが増えた。肉体的の変化より、心が弱くなっていくことが増えた。
人は『成長』と『老い』の境目がある。成長は、強くなっていくこと。老いは弱くなっていくこと。30歳を過ぎたあたりから、自分はかなり弱くなったと思う。
お年寄りに席を譲らず、妊婦さんには席を譲る。それが今の自分の精一杯だ。今の自分の強さを自己分析して、定めた境界線だ。
サトを見ていると、正しいと思って、お年寄りに席を譲っていた昔の自分を見ているようで、なんとなく面白くなかった。それを、偽善だと斬り捨てるほど腐りきっていない今の精神状態では、少しだけそれは酷だった。
「……こうですか?」
サトはそう言って、俺の肩にチョコンと頭をのせる。
「いいよ、別に気を遣わなくたって。眠くないんだろ?」
「そりゃ、眠くないです。眠くはないですけど、もたれかかった方が楽です」
「……嫌じゃないか?」
「別に。だって、松下さんですもん」
「……」
「いい天気じゃないですか」
「一年のだいたいは晴れだよ」
「また、そんなひねくれたこと言って」
「……」
「会社は最近どうですか?」
「だいたい会社では嫌なことしかない」
「それ、多分違いますよ」
「……なにが?」
「いいことが見えてないだけですよ。本当はいいことだってあるのに、嫌なとこが目立つから」
「……」
「なんでもそうだと思いますけどね。松下さんだって、いいところはいっぱいあるのに、嫌なとこばっかが見えちゃうだけなんですよ」
「……例えば?」
「ちょっと今パッとは思いつかないですけど」
「お、お前……」
そんなことを言い合いながら。
肩は少しだけ軽くなっていた気がした。
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