第4話 月とたぬき


 今日の月は今日しかない。誰がそう言ったわけじゃないけど、私はそう思う。その感覚は私だけのもので、誰の異論も反論も受け付けない。


「綺麗な月ですね」


「……」


 目の前でどん兵衛の『緑のたぬき』を食べていた松下さんが、私を酷く凝視する。


「な、なんですか?」


 文句あるんですか。


「君より月が綺麗だねってやつですか?」


「全然そんなこと言ってませんけど」


「でも、そう思ってんでしょ?」


「思うか!」


 強めのツッコミを強めに入れる。


「いや、思うね」


「思わないって言ってるじゃないですか」


「サト、お前みたいに、ギター片手に駅前で弾き語りなんかしてるようなヤツは特にそう思うはずだ」


 ビシッと。


 指をさしてきたので。


 バシッと強めに弾き飛ばした。


「偏見ですよ」


「……サト、伊達におっさんはお前より長く生きてきてない。これは、偏見ではなく冷静な分析だ」


「……」


「だいたいミュージシャンはナルシストが多い。だから、自分の容姿に自信がある人が多い」


「……それだけですか?」


「うん」


「今まで、無駄に生きてきたんですね」


「おい」


「月が綺麗だから綺麗だと言ったんです。見たものを素直に思えないのは悲しいですよ」


「……」


 どうやら、グウの音も出ないようだ。


「さもしいですよ」


「……」


「意地汚いですよ」


「……」


「底意地が悪いですよ」


「さ、さすがに言い過ぎだろ!」


 と流石に反抗してきたので、この辺で許してやった。


「松下さんは綺麗だって思うものはないんですか?」


「……ないな」


「えーっ、なんかあるでしょ?」


「あっ」


「ありました?」


「……いや、ないな」


「……」


 ダメだ。


 このおっさんの心は、どうやら、どうしようもなく荒みきっているようだ。


「夜空に瞬く星空は?」


「小さい」


「……っ」


「視力よくないから」


「そ、そう言う問題ですか?」


「サトは星のことどう思ってんの?」


「ええっ……そりゃ……」


 とおもむろに、夜空を眺めてみる。


 ……確かに、小さいな。


「綺麗ですよ。当たり前じゃないですか」


 と、私は嘘を言いました。


「まあ、星に限らず、何事も遠くから見れば綺麗に映るもんなんだよ。そして、いざ近くで見てみると、案外そんなでもなかったりして。月面着陸しアポロ11号のアームストロング船長だって、別に月が綺麗だなんて思ってないからね」


「……」


 なんか松下さんが、もっともらしいことを、もっともらしく言ってくる。


「そんなもんなんだよ。サト、お前だってこの距離だと凄く可愛く見えるかもしれないけど、近くから見てみると……」


「な、なんですか」


 急に顔を近づいてくる松下さんに、一瞬だけ、鼓動が高鳴るのを感じだ。


「か、可愛いじゃねぇか。肌もスベスベしてて」


「それは……『どうも』でいいんですかね?」


 なかなかこれだけ異性に顔を近づけられたこともないので、なんだか目のやり場に困る感じだ。


「こうして見てみると、完全に羨ましい顔面をしてるな。骨格も整ってるし、目も大きいし、唇も薄いし」


「か、完全にガンガン触ってますけど、さすがに女の子に対しての扱いじゃなくないですか!?」


「……いや、ないな」


「なにがですか?」


「可愛すぎて、逆にない。逆に恋愛対象外だよ」


 と、なんとも失礼な物言いをする松下さん。


「なんですか逆にって?」


「あまりにもレベルがかけ離れてると、逆に恋愛感情が湧かなさすぎる。俺、お前を同じ人間だと見なせないもん。仮に、お前が俺に告白してきても、絶対にないな」


「それは100パーセント中の100パーセントあり得ませんけど、それはそれでフラれたみたいで気分悪いですね」


「まあ、その顔面ゆえの不幸ってやつだな」


「松下さんにフラれることが不幸かどうかは、凄く微妙な気はしますけど、なんにせよ残念です」


「元気出せ」


 勝ち誇ったおっさんがポンと肩に手を乗せてきたので、その手をひねって背中にまわる。


「元気なくなるほどのものでもありませんけど、とりあえず反撃しておきます」


「いっだだだだだだっ……ふふっ、ほら。こんなに近くに顔があるのに、全然ドキドキしない。むしろ、関節がギシギシしてる」


「それは完全に関節がキマっちゃってるからだと思いますけど」


 なんにせよ、今まで男の子の顔がこんなに近くになったことはない。この恋人ぐらいの距離感で、なにも感じないと言われるのも不名誉な話だ。


「いだだだだっ……でも、もうちょっと密着されれば、さすがの俺もお前に女を感じるかもしれない」


「もうちょっとって、もうかなり密着してると思いますけど」


「その……ほら、ハグとか。そうやって腕の関節キメるとかじゃなくて、ヨーロッパでは共通の挨拶である、ハグとか」


「……ハグしたいんですか?」


「し、したいわけないだろう。逆に恋愛対象外なんだから。ただ、ヨーロッパの文化的なものを味わってみるのもいいかなっておもっただけで……ゴニョゴニョ」


 ご、ゴニョゴニョしちゃってる。


「……実は逆にないなんて言っといて、そうでもないんじゃないですか?」


「……」


















 松下さんが黙って、変な雰囲気になった。


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