第7話 3





「終わったぁ……」

 六時限の授業が終わった直後、おれは机の上に顔をうつ伏せた。


 美島高校での授業初日で、おれは地獄を見ていた。

(分からない……! 全然分からない……!) 

 授業にまったくついていけなかったのだ。

 今日は高校初授業という事で、高校で習う授業ではなく、中学のおさらいだった。にもかかわらず、まったく分からなかったのだ。


(どうしよう……)

 習った記憶すらないくらいきれいサッパリ忘れていた。

 そりゃそうだ。

 大学受験まではそれなりに勉強してきたが、大学生になってからは英・国・数・理・社なんて、音大という事もあって、ほとんど勉強して来なかった。


 しかも、二十年ちょっと勉強から離れていたんだ。

 いきなりマルクスの資本論がどうだとか、等差数列を使えば簡単だとか、舌状台地の形成はこうだとか、ポコポコ言葉を投げつけられても、おれの脳ミソはついて行けなかった。


「有栖川君、だいじょうぶ?」

 隣り席の風見祥子が声を掛けて来た。

「だいじょうぶじゃない……なに言ってるのか、全然分かんなかったよ」

 思わず泣きごとを並べ立てていた。


(そういえば、風見は―――)

 成績優秀だったことを思い出した。

 東大合格率・全国トップスリーに入る隣県にある名門私立の名田なだ高校に、十年ぶりに合格した天才と、母校の中学では一時期話題になっていたのだった。

 公立高校にこだわったのかもしれないけど、名田高校を合格できる実力があるのなら、準進学校の美島高校ではなくて、トップクラスの進学校だって良かったんじゃないのか?


 そんな思いが頭をもたげて、

「風見は、なんで美島高校だったんだ?」

 ポロリと心の声が出てしまった。

 おれの言葉に、風見が目を丸くした。


(ありゃ? マズいこと聞いたかな?)

「いや、いいんだ、答えなくても。よけいなこと聞いてゴメンな」

 とおれは慌てて今の言葉を取り消した。

(きっと、いろんなヤツから、何度も同じことを言われたんだろうな)

 人には色々と事情ってものがあるもんだ。突っ込んで聞いてはいけないと思った。


 すると、風見がニコリとした。

「なんか……有栖川君、雰囲気変わったね」

「えっ?」

「有栖川君って、ミヤちゃん以外の他人には、あまり興味を示さなかったじゃないの。だからちょっと意外だった」

 ミヤちゃんとは美弥子の呼び名だ。風見と美弥子は小・中と同じ学校だった事を思い出した。


「そうだったかもな。でも、おれは高校デビューするぜ」

 おれはグッジョブポーズを指で見せたが、風見はキョトンとしていた。

「なぁに? その高校デビューって?」

(ああ、そうか。この時代にはその言葉使わなかったのかもしれないな)


「ああ、いや。まあ、昨日までの自分とはおさらばして、今日から違う自分を目差すってことだよ」

「そうなのね。でも、有栖川君がこんなに話し掛けてくれるなんて思ってもみなかったわ。これも高校デビューの一環いっかんってことかしら?」

 言いながら風見はクスクスっと笑った。


(確かに風見の言う通りだ)

 二十五年前の曖昧な記憶だからあまり当てにはならないけど、風見が言うように、高校時代に彼女と話をした記憶なんてなかった気がした。


 だがそれとは別に、説明できない違和感が、おれの心の奥底で芽生え始めていた。

 中学の時も、風見とはあまり会話をしなかったが、それでもちょっとしたエピソードくらいは記憶にあった。

(だというのに……)

 高校最初のクラスで、その隣の席が風見だというのに、おれには高校に入ってからの風見の記憶がまったくなかった。


 風見が指摘したように、確かにおれは、美弥子以外の他人にはあまり興味を示さなかった。

 だからこちらから積極的に接触する事もなかったが、それでも中学からの同期でこの学校に来たやつらに関しては、少なからずいくつかのエピソードを記憶していた。

 だと言うのに、風見に対しては、高校時代の記憶が何ひとつないのだ。

 まるでそれは、風見なんて最初から美島高校にはいなかった ――― そんな錯覚すら覚えるくらいに、その存在を感じないのだ。

(なぜだろ? なにか引っ掛かるな)


 と、その時だった。

 いきなりおれの記憶が発動した。

 いま隣に座る風見の机の上に、白い花をした花瓶が置いている、そんな映像がパッと浮かんできた。

(なんだろう……この記憶は)

 おぼろげな記憶の中に、少しだけ怖いものを感じていた。

(おれの隣りの席には誰もいなかった気がする……いや、いなかったんだ)

 一学期の間ずっと空席で、毎日クラスメイトの誰かが花を入れ替えていた記憶がよみがえって来た。

(机の上に花を飾る? ……それって、どういうこと?)

 何か肝心な事を忘れている気がした。


「どうかしたの? なんか難しい顔して」

 と風見に声を掛けられ、おれはビクッとして風見を見た。

「な、なんでもない。ちょっと考えごとしていたんだ」

「そう。それより ――― このあと有栖川君も行くんでしょ? オーケストラ部に」

「いいや。行かない」

「そうなの。でも、入部するなら早い方がいいわよ」

「いや、おれはオケ部には入部しないんだよ」

「えっ? なんで?」

「さっき言っただろ? おれは高校デビューするんだよ。音楽をやらない選択もアリかなって思うんだよ」

「そんなぁ。もったいないわ。有栖川君、ピアノでもバイオリンでも優秀なのに」

「……ありがとう、そんな風に言ってくれて。でも、もういいんだよ。おれは音楽をやらない。そう決めたんだ」

 おれの言葉に風見は眉をひそめたが、それ以上何も言わなかった。おれたちはそれ以上深入ふかいり出来るほど親しくはなかった。


 ともかく、風見の事はどうだっていい。

(音楽以外の何かを見つけるために、おれはこの時代へ戻って来たんだ)

 同じてつを踏むつもりはない

 ピアノやバイオリン以外に何が出来る分からないけど、おれは美弥子と同じ道を歩むつもりはなかった。

 それに……。

(風見のことも何だか不気味な気がする……)

 おれは風見とも距離を置こうと思った。

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