第6話 2





 制服に着替えて、恐る恐る玄関を出ると、向かいには昭和初期に建てられたと言う木造平屋建ての大きな家が存在していた。

 の中田さんの家だ。

 中田さんは母と同じアマチュアオーケストラに所属し、おれにバイオリンを教えてくれた人だ。

 しかし、目の前にある中田家は、のちに取り壊されて、二階建てのアパートとなるのだ。確か、おれが大学を卒業した頃だったと記憶している。

 学校に向かいながら、おれは周囲の建物や、道行く人を観察していたが、いずれもあの頃のおれの記憶に当てはまるものばかりだった。

 

(やっぱり、タイムリープしたのか……)

 そう考えなければ、符合しない町の風景だった。

 何よりもおれ自身がこんなに若返っているではないか。

 そうなんだ。

 ここはではすでに無くなっている建物が存在する世界なんだ。


 おれの通う高校は徒歩通学圏にあった。

 十分ほど歩くと、同じブレザーを着た学生たちの数が徐々に増えて来た。

 そしてその数分後に、県立高校の正門の前に到着した。

(二十数年ぶりになるのか……)

 赤煉瓦れんがの校舎を見上げながら、感慨深い思いが込み上げて来た。

 美弥子を追いかけて、かなり勉強して入った偏差値60オーバーの県立美島高校だった。

(あの頃のおれは、美弥子のことしかみえてなかったもんな)


 立ち止まっていると、

「有栖川。朝っぱらから、なにボーとしてんだよ」

 男子生徒に肩を叩かれた。

「お、おお…。お、おはよう」

 と振り返りるおれは、口ごもったしゃべり方になっていた。


(こいつ……名前なんだっけ?)

 顔は覚えている。同じ中学出身なのも記憶にあるし、同じ音楽部のメンバーでクラリネットを吹いていたヤツだ。

 そこまでは覚えているのに、名前が全然出て来なかった。

(困ったなぁ)

 これから先もきっと、名前の出て来ないヤツが出て来ると思う。

 高校から知り合いになる連中なら、

「誰だっけ? ワルイ、まだ名前覚えてないんだ」

 とまだ誤魔化せる時期だった。

 しかしだ。

 オッサンの記憶からすれば、中学時代の級友は二十五年も前の事だけど、おれは今、誰が見たって十五歳の少年だ。一ヶ月前に卒業した級友の名前を忘れるなんてこと、あるはずないだろう。

(とにかく、なんとかしなければいけない)


「あのさぁ、おれたちの中学から美島高校に合格したのは、他には誰がいる?」

 とおれはその少年に聞いた。

「ああ、確か…七人だったと思う。風見と…下山…立川。それに吉原もいたよな。後は、東海林しょうじだな。二十人程受けたが、後はダメだったよ。進学校とまでは言えないけど、結構ハイレベルだからな、ここ」


 合格者の全員が中学時代の音楽部のメンバーだった。

 若い頃の記憶とは大したもので、名前を聞いただけで顔が思い浮かんだ。

(これなら何とかなるかもしれない)

 ちなみに吉原とは結婚前の美弥子の姓だ。


 しかし……。

(おまえだけが分かんないんだよ!)

 目の前で笑っている少年の名前が分からない。

(おまえ、誰?)

 なんて冗談が言えるほど親しい間柄ではなかった気がする。

 そこへ美島高校の制服を着た小柄な女生徒が近づいて来た。

「有栖川君、牧村君、おはよう」

 と笑顔で挨拶してきた少女は、中学で同じ音楽部にいたバイオリンの風見祥子だった。


(牧村…? そうだそうだ、牧村だ。風見、グッショブ!)

 その瞬間、パッと記憶が繋がった。

 みんなからマッキーって呼ばれていて、おれもそう呼んでいたっけ。

 行動をともにするほど親しくはないが、そこそこ話をする事もあった……ような気がした。


 おれの二十五年前の記憶はかなり不安定だが、それでも何とかなると、ちょっとだけ安心した。

 不明瞭な部分はまだまだ多いが、おいおい記憶は繋がっていくだろう。

 (あれこれ考えても仕方ない。大丈夫だ)

 十五歳に戻ったおれは、この時代でやっていける。

 そう思う事にした。


 牧村・風見と一緒に校舎に入るも、マッキーとはクラスが違ったようで、二階で別れた。

「おまえたちは三階だったよな」

 マッキーのその言葉を頼りに、おれは風見について階段を上がった。

 だけど、ここからまた問題が発生した。

(おれ、何組だっけ?)

 やはり、そういった細部の記憶は欠如していた。


(どうする? このまま風見の後をついて行くか)

 たとえ風見とクラスが違ったとしても、

『うっかりしてついて来ちゃったよ』

 とでも言って誤魔化せばいいや。

 そんなつもりで、階段すぐ傍の、風見が入る六組について入ったが、風見は別段変わった反応を示さなかった。

(ビンゴのようだな)

 そう思ったのもつかの間。

(おれの席……どこだ?)

 思わず天を仰いだ後、目線を落とした。

 その時だった。

 窓際の最前列の机の中に、ラフマニノフの楽譜を見つけたのだ。

(あの楽譜、おれのだ!)

 記憶が蘇った。

 入学当初のクラスのおれの席は、窓際最前列だった。


 その理由も思い出した。

 ア行から始まる順に窓際から席を決め、このクラスの廊下側の最後尾の席が『渡辺』だったのを思い出した。


「どうしたの、有栖川君。だいじょうぶ?」

 隣りに座る風見が心配そうにおれを見た。

「何でもないよ。うっかり中学の時の席がフラッシュバックして、ちょっと迷っただけだよ。アハハハハ」

 と笑って誤魔化ごまかした。

(隣りは風見か……これは好都合かもしれないな)

 風見は中学時代の三年間、同じ音楽部に所属していた顔見知りなのだ。 

 欠落した記憶の補填には打ってつけの人間だった。


(それにしても、カ行の風見が女子の先頭になるなんて……)

 と思った瞬間、また思い出した。

(そうだそうだ。このクラスの女子にア行の女子はいなかったんだ)


 案ずることもないか―――。

 忘れている記憶は多いが、こうしてその場に直面した時、色々と思い出していくんだろうな。

(とにかくだ)

 おれはこのタイムリープで違う人生を歩もうと思った。

(おれ、自由だ)

 その第一歩として ――― おれは、音楽部には入らない ―――

 そして美弥子にはかかわらない違う人生を歩もうと思った。

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