風見祥子の未来

第8話 1








 授業終了後のホームルームの後も、おれは誰もいない教室に残っていた。

 西日がまぶしかったが、その眩しささえも、心地よかった。

(おれ、本当にタイムリープしたんだな)

 校舎から見下ろす校庭の風景に、おれは感慨深かんがいぶかいものを感じていた。

 忘れていた風景だったが、こうして見渡していると、いろんな記憶がよみがって来た。



「有栖川君? まだ残っていたのね」

 背後から声を掛けられた。

 風見だった。左手にはバイオリンケースがあった。


「オケ部に行ったんじゃないのか?」

「入部届を出そうとしたんだけど、再来週さらいしゅうの月曜日に希望者全員の入部テストするからって言われちゃった。明日は駅前の楽器屋さんでバイオリンの調弦ちょうげんしてもらうわ」

 風見はそう言った。

 美島高校オーケストラ部は、表向きは幅広く門戸を開いているが、入部希望者には入部テストがあった。

 テストに落ちた者に二度目のチャレンジは出来ない。

 だから万全を期して挑まねばならないのだ。


「風見は自分で調弦しないのか?」

 おれの言葉に風見は頷いた。

「うん。チューニングは問題ないけど、わたしはあまり調弦が上手じゃないの。それらしく調弦しているつもりなんだけど、微妙に音がズレている感じなのよ。気付いている人は少ないけど、ミヤちゃんクラスの人にはバレているみたい」


 調弦とチューニングは同じ事だと思う人は多いが、少し違うのだ。

 チューニングはゆるんだ弦を張ったり、その日の湿度に応じて、弦の音階などの微調整をするものだ。

 それに対して調弦は、弦の張り直しなど、もう少し踏み込んだ調整をするものだ。


 風見は苦笑いを浮かべると続けた。

「美島高校のオケ部って、ミヤちゃんレベルの人がたくさんいるから、きっとみんなにバレバレだわ。だから明日の土曜日に、駅前の楽器屋さんで調弦してもらうつもりなの」

「おれはバイオリンの調弦くらい自分でやるけどね。美弥……よ、吉原の調弦もたまにやっているよ」

 危ない ――― 美弥子と呼ぶ所だった。

 今のおれは四十歳のオッサンじゃなく、美弥子の旦那でもない。まだ彼氏にさえなっていない十五歳の少年なんだ。


「えっ? 調弦できるの? わたしのバイオリンも調弦して欲しいわ。お願いしてもいい?」

「ああ……まあ、いいけど」

 出来ると言っておいて、してやらないわけにはいかなかった。

「ありがとう」

 風見はそう言いながらバイオリンケースからバイオリンを取り出した。

 真新しいバイオリンだった。

「おお、これピグマリウスじゃないか。新しいの買ったのか? 五十万くらいしたんじゃないのか?」

「四十五万くらいかな。入学祝に買ってもらったの」

「プロでも使える素晴らしいバイオリンだよ、これ」

 おれは苦笑いを浮かべる風見からバイオリンを受け取った。

 型式は違うが、娘・沙紀が愛用していたのもピグマリウスだった。

 少し切ない気持ちになった。


 バイオリンを見ていて気付いたことがあった。

 風見のバイオリンの弦は、素人がよく使うスチール弦やナイロン弦ではなく、上級者が使うガット弦だった。


「ガット弦を使っているのか? 本格的だな」

「いい音を出したくて、スチール弦からガット弦に変えたんだけど、調弦が上手くいかなくて…」

「分かるよ。ガット弦は、柔らかく、優しく包み込んでくれるような素晴らしい音色だもんな。バイオリン本来の音って感じがしておれも好きだけど、扱いが難しいんだよ。音は最高だけど、値段が高く、他の弦よりも耐久性が低いから、コスパ悪いしね。そんでもって調弦もしづらい」

「そうよね。あれだけ上手なミヤちゃんでさえ、ナイロン弦だものね」


 扱いやすさとコスパを考えればスチール弦が一番だが、音が硬く、バイオリンが奏でる柔らかい音色は再現できない。まあ、初心者向けといった所だ。

 バイオリンの本来の音色を奏でたいのであればガット弦だ。

 上級者のほとんどはこれだが、弦は切れやすいし、調弦もしづらいため初心者には向かない。

 ナイロン弦は、扱いやすさ・音色・コスパにおいて、スチール弦とガット弦の間を取った弦と言えるだろう。

 一般的にはこれが多く使われるし、プロのヴァイオリニストの中にはナイロン弦を好む者も少なくなかった。


(それでもだ)

 ガット弦ほどにバイオリンのポテンシャルを引き出せるものではないとおれは確信している。

(使うなら、やっぱりガット弦だな)


 おれはバイオリンの弦に左手の指を置き、右手で弓を弾きながら、軽やかな動きで調弦を始めた。

 バイオリンの弦を押さえる左手の指先のしびれはなく、指の動きもスムーズだ。

 弓を弾く右手首にも腱鞘炎けんしょうえんによる痛みはまったく感じない。

(体が ――― 両方の手が思うように動いてくれる)

 大学時代から引きずっていた演奏時の痛みが嘘のように消えていた。


 調弦は終わったが、おれは風見にバイオリンを返さなかった。

(おれ、今ならバイオリンを思い通りあやつれる気がする)

 若くて健全なこの肉体でバイオリンを弾いてみたいという思いが、心の底から突き上げて来た。


 おれが大した奏者ではないのは分かっている。それでもバイオリンを弾き始めて三十年。プロになってから十八年のキャリアがあった。

 それに手に入れた健全な肉体が加味かみされれば、名の通った高校生になんか負けない経験とテクニックは持っているんだ。

 あとは、十五歳のおれの肉体と感性が、四十歳のおれの経験とテクニックについて来れるかどうかにかかっていた。


(やってみよう)

 バイオリンを構えた。

 おれは頭の中に浮かんだバイオリンの名曲を躊躇ためらいなく引き始めた。

 エルガーの 愛の挨拶あいさつ だ。

 この曲は長い髪を躍らせながら弾いていた、美弥子が得意とする曲だった。

 二十年以上美弥子に付き従えてピアノ伴奏してきた曲だ。楽譜は頭に入っているし、みずからもバイオリンを手にした曲だ。

 美弥子を意識した訳ではないが、おれの体は、踊るみたいにく美弥子のように、自然と揺れ出していた。


(ここはゆっくり滑らかに)

(このパートは激しく力強く)

(そしてここはビブラートをぶち込む!)

(フィニッシュだ)


 三分程だろうか。

 短く集約して弾いたエルガーの 愛の挨拶 はおれの思う通りの演奏が出来ていた。

(おれ、やれるじゃないか)

 おれは少し興奮気味だった。

 これ程納得のいく演奏が出来たのは久しぶりだった。

 健全な十五歳のおれの肉体は、持病にむしばまれた四十歳のおれの演奏を、遥かに凌駕りょうがしていた。

 それは、これまでの経験とテクニックに、十五歳の若い肉体が融合した結果だった。


「……す、すごい」

 と少し間があって風見が拍手をした。

 風見は涙を流しておれを見つめていた。

 その後、廊下にいた十人少しの学生が、おれに向けて拍手を送ってくれた。


「素晴らしいぞ、新入生」

「とても良かった。心に響いたわ」

「オケ部に入るんだろ? また聞かせてくれよな」


 偶然通りかかったようだ。いずれもオーケストラ部の上級生たちだった。

 しばらく拍手が続いた。

 バイオリンを握る手が震え、達成感に包まれたおれの心は、とても高揚こうようしていた。

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