論と情、ロジックとポエジー、熱力学と恋物語
有谷帽羊
論と情、ロジックとポエジー、熱力学と恋物語
言語には限界があるよね。何の気なしにサインがそう言ったから、頬張りかけたオレンジ味のマフィンを膝の上に盛大にこぼしてしまった。
さっきまでわたしたちの交わしていた会話は、つい三十分ほど前に起こった会議室内での緑青さんの失言についてであって、極めて通俗的な日常会話をしていたはずが急に次元の異なる話題が彼の口から放たれたために、あまりの唐突さにわたしは顔をしかめるしかできなかった。しかしながらサインはそんなわたしの戸惑いには目もくれず、わたしの膝にこぼれたマフィンのくずを二、三つまんでは口に運びながら、視線を下げたまま小声で語り始めた。
「たとえばほら、『わたしはあなたが好きじゃない』と言ったとする。これってニュアンスとしては『わたしはあなたが好き』よりよほど『わたしはあなたが嫌い』の方が近しいわけだけど、でも言葉としては『好き』って単語が既に発話されてしまってるんだよね。あとから否定の言葉が続いたとして、あるいはヨーロッパ言語なら先の場合が多いだろうけど、どちらにせよ、『好き』は『好きじゃない』のうちに既に存在してしまってるんだよ。どんなに強く打ち消したくともね。だから言語にはどうしても不完全な点があって、その不足は結局のところ他の要素、例えば表情やら身振りやら声音やら、そういう動物的な表現でもって補うしか術がないと、僕はこの頃思うんだよね」
そこで言葉を切ったサインはようやく面を上げてわたしの顔を見つめた。膝の上にはもうマフィンのくずは欠片も残っておらず、未だ戸惑ったままのわたしは発するべき台詞の準備不足を補うために手にしていたマフィンを半分にして、片方をサインへ手渡した。彼はありがとうと呟いて受け取ると、遠慮なくむしゃむしゃ食べ始め、視線は真正面を向いて中庭の中央に生えた細い木に当たっているようだった。
ビルのエントランスから誰か出て来て、だんだんと近付いてそれが緑青さんだとわかった。自分のしでかした失態をもう綺麗さっぱり忘れてしまったのか、あるいは最初からものともしていないのか、わたしにはわからないが、何も気にしてなさそうな緑青さんは財布片手に堂々と胸を反らし、真っ直ぐコンビニへ向かうようだった。
「何が言いたい?」
左から右へ滑らかに移動していく緑青さんのけばけばしい紫色のスニーカーを眺めながら、わたしはサインの顔を見ずに言った。そのくらいしか繋ぎの台詞によさそうなものは思い付けなかった。
この時わたしは少々気分を害していた。折角、緑青さんの失言という単純明快な面白話で盛り上がりかけていたところを、全く空気も読まず形而上学の講義でも始めるかのようなサインの振る舞いには理解が追いつかなかった。確かに彼には突拍子のないところが多々あるのだが、いつもならここまで強引なやり方はしないはずだった。
左から右へ流れる緑青さんがベンチに並ぶわたしたちに気付いて、大きく手を振った。
「何食べてんの!」
あまりの声量にそれが質問なのか宣言なのか判別しがたかった。わたしが迷ううち隣のサインが負けじの大声で、
「マフィン!」
と叫んだ。
「じゃあね!」
緑青さんは答え、それは全く何の返事にもならないまま会話はぶったぎれて、早足の止まらない緑青さんは笑顔のまま階段の下へ消えていった。
「だからさ、」
サインとわたしはそれぞれ手を振って、緑青さんを見送った。緑青さんは何を食べるんだろう、きっと頭の中はその食べ物のことでいっぱいに違いない。羨ましいくらいの単細胞だな、との悪口はあえて言わないことにして、そうするうちサインが喋り出していた。
「言語には可能性があると思うんだ」
見ると、サインはマフィンを食べ終えて、手を払いながらもうここにはいなくなってしまった緑青さんの影を見ているようだった。それからサインはベンチに着いたわたしの手にさっと触れると、立ち上がって背を向けてしまった。
「『わたしはあなたが好きじゃない』」
背を向けたまま、彼は何か駄目押しでもするように再度そう言って、先にオフィスへ戻ってしまった。
さっぱりわけのわからないままマフィンを食べ続けていると階段から再び緑青さんが現れて、
「ブリトーあったわ!」
と力強く微笑んだ。
わたしは無言のまま親指を立て、賞賛の意を示した。緑青さんもガッツポーズして、右から左へ戻っていった。
○
その日の午後、サインのプレゼンが行われた。場所は緑青さんが失言した会議室とは別の会議室で、こじんまりしたその部屋には同じ部署の七人がせせこましく寄り集まっていた。
前方でプレゼンするサインを囲むように一人、二人、三人のコの字で着席したメンバーのうち、わたしは三人の並びの中央に座っていた。右隣には丸栄さん、左隣にはガシュマロがいて、緑青さんはサインの目の前の席、その右隣には部長の姿があった。
「ですから今期の目標を最大限引き上げるためには……」
このプレゼンが社内で行われる幾多のプレゼンの中でもなかなか重要なものであることは承知していたし、わたしも常日頃サインと仲良くしている友人のひとりであるのだから、話の合間合間に頷きながら熱心に聴き入っているガシュマロを見習って内容をよく理解する必要があったのに、どこか心ここにあらずのままサインの淀みない演説をただ音声として分解することに勤しんでいた。ですから/こんき/の/もくひょう/を/さいだいげん/ひきあげる/ため/には。否。です/から/こんき/の/もくひょう/を/さいだい/げん/ひき/あげる/ため/に/は。否々。ですか/ら/こん/きのも/くひょう/を/さ/い/だ/いげん/ひ/き/あ/げ/るために/は。
「のっこ氏!」
最終的に品詞分解でもなんでもない支離滅裂に至ったところで、緑青さんから名前を呼ばれてしまった。我に返って顔を上げると、会議室じゅう全員からの視線がわたしの席へ注がれていた。頭の中だけで行っていたはずの分解が、無意識のうちどうやら口に出てしまっていたらしい。
「すみません」
ひと言詫びると、間を置かずにサインがプレゼンを再開してくれたのが幸いだった。それからプレゼンが終わるまで、全身から火でも吹き出ているかのようだった。午前の緑青さんよりよほど恥だった。
「あれ、何だったの」
プレゼン終了後、誰より先に会議室をあとにしトイレへ逃げ込んだが、個室へ入ってから特に尿意も便意もないことに気付き、仕方なく外へ出るとサインが待ち伏せていた。
サインは上着のポケットに両手を突っ込み、身体の左側を壁にしなだれるようにもたせかけていた。彼は別段怒っているわけではなさそうだったが、その態度には何だか斜に構えたような印象があった。カチンときた。「何だったの」って、そんなの、よほどわたしの方が貴様に訊きたいのだが。
「おまえがわけわからんこと言うから。好きだの好きじゃないだの」
「えっ」
わたしはなるべく敵意を見せようと苛立った声音を意識して発話したのだったが、一体全体どういうわけだろう、サインは床に落としていた目線を上げて、こちらを見つめ返す顔は驚きに満ちていた。
「……してくれてたんだ」
ぼそぼそ聞き取りにくい声で呟きながら、サインはまた視線を床へ落とした。何なんだほんとに。呆れ返ったわたしは返す言葉も思い浮かばずに、サインと二人トイレ前という曖昧な空間で立ち尽くしていると、廊下から丸栄さんとガシュマロが揃って現れた。
「お疲れ。よかったよ、さっきの」
「あ、どうも」
丸栄さんに褒められたサインは一瞬にして外交的な微笑みを形作ると、その笑顔のままオフィスの方へすたすた戻ってしまった。その背中を訝るように見送っていると、いつの間にガシュマロに肩をがっちり掴まれていた。
「のっこ、さっきの」
「さっきの? プレゼン?」
「違うよ!」
ガシュマロは説明に詰まり身振り手振りで伝えようとしていたが、伝わらないうち丸栄さんが「さっきの、あれ」と口を挟んだ。とするとサインの言った「あれ、何だったの」の「あれ」だろうな。
「あれ、何やってたの?」
「びっくりした。なんかのっこの声が聞こえるなーと思って隣見たら、鯉がエサねだるみたいに口はくはくさせてんだもん」
「いやだからあれはわたしのせいじゃなくてですね」
「誰のせいなの?」
「サインです」
「さっきの、あれ?」
「そう、さっきの、あれ」
喋るうち何が「さっきの」で何が「あれ」なのか判然としなくなってきた。サインめ、何が言語の可能性だ。クソくらえ、は、言い過ぎだろうか。ともかくわたしは二人に昼休みのサインの発言を説明する必要があった。もともと聞いた時からこんがらがっていたものだから、今ひとつ説明になってない感はあるとして。
「ふうむ。言語の限界と、言語の可能性か」
わたしの説明をひととおり聴き終えた丸栄さんはそれっぽく腕を組み、いかにもサインの真意を見抜いていますという風な素振りを見せているが、この人のそれがはったりでなかったためしなど今まで一度としてない。案の定丸栄さんは「ふうむ」を無限に発しつつ誰に向けてでもない相槌を繰り返すのみ、この場を転換させるべき言葉はその形のよい頭蓋骨の中でひと言も生成されていないようだった。一方ガシュマロはといえばもっとひどい、何の悩みもなさそうな顔でふわあとあくびしながら、
「のっことサインの会話っていつもわけわかめだよね」
とだけ言って、さっさと考えるのを放棄してしまった。
いや、今回ばかりは流石のわたしもわけわかめなんだが。ガシュマロと同じノリで「わけわかめ」と言ってしまいたいんだが。
しかしそれが許されないのはこの件がわたしにとってどう足掻いても他人事にはできない近しさを持っているからだった。サインはわたしに向けて投げかけたのだから、なぞなぞの答えを探すのもまたわたしの役目だろう。
胸のうちでそんなあきらめにも似た決意をしながら、全く役に立たなかった二人を連れてオフィスへ戻ると、部署の皆が部長のデスク前に集まっていた。その群れの中心から背の低い禿頭がにょきっと手を伸ばし、「おおい」とわたしたちを手招きした。部長のもう片方の手には綺麗な草緑の紙箱が握られており、中にはツヤツヤした水まんじゅうが三つ残っていた。
「きみたちの分だよ。早くしないと取られちゃうよ」
部長は滑らかな頭皮を手のひらで撫でながら照れた顔で笑った。遅れたわたしたち三人は遠慮なく自分の分の水まんじゅうをつまみ上げ、「いただきます」と言うと同時に口の中へ放り入れた。みずみずしさとねっとりした舌触りとが交互にやって来て、最終的にそれらはめちゃくちゃ甘くなった。もちゃもちゃとゆったりしたペースで味わっていると、ふと傍らに今年入社したばかりのマツMがいて、誰かと盛んに議論しているかと思えばそれはサインだった。
「いやでもね、サイン先輩はそう考えたいお年頃なのかもしれないけど、おれはそういう釈然としない、もっと言えば無責任な感じはあまり感心しないですね」
「だからといってきみみたいに果敢に挑む気には到底なれないよ、もう若くないからね」
「年取るってやだな。そんなに自信がなくなるものなんですか? でも先輩、ガツンと立ち向かわなければ全く伝わらないってよくあることですよ、特にあんな、って」
そこで振り返ったマツMが後ろで様子を窺っていたわたしの顔をひと目見るやいなや、ワーッと幽霊でも見たかのような大声を上げたので、オフィスじゅうがしんと静まり返ってしまった。
「すんません」
マツMは全く悪びれず軽く謝り、オフィスの空気は一瞬で元通りになった。先ほどの会議でのわたしの「すみません」とマツMの「すんません」と、同じ言葉を喋ったはずがここまで違う結果となるのはなぜだろう。マツMが羨ましくなった、と同時に以前からそうではあったがマツMのことがさらに嫌いになった。
「のっこさん盗み聞きですか? ほんと悪趣味ですね」
「死ねハゲ」
「うわあ、ひどい。ハラスメントだ。ハラスメントでしかない」
マツMが茶化すように繰り返しながら毛量の多い茶色の頭髪をこれみよがしに見せつけてくるので、馬鹿みたいにとんがった革靴の先っぽを軽く踏んづけてやった。
「今度は暴行罪だ」
叫び出したマツMの背中を容赦なく叩いたところ、ええんという高い男声のむせび泣きが聞こえてきて、しまったやり過ぎたと思いマツMの顔を見たけれど、相手は馬鹿丸出しでけろっとした表情のままだった。サインの表情も特に変化なく、仕方なしにわたしはこわごわ振り返ざるをえなかった。背後で何かが光った。それは禿頭ではなく、目尻から止めどなく流れ落ちる涙だった。部長が泣いていた。
「ハゲだって生きるもん。生きたいもん」
顔から頭まで全身を真っ赤にして園児のように泣き喚く部長に、わたしはすみませんすみませんと必死で連呼するしかなく、そこにはもはや謝意があろうがなかろうが違いもなさそうだった。マツMが文字通りプークスクスと笑いながら謝り倒すわたしを上から見下ろしていた。そしてサインはといえば、真意のよくわからない哀れみの目でただわたしを見つめていた。黙ったままの彼の姿に、今だろ、と心の中でつっこんだ。今こそ彼は言うべきだった。「好きじゃない」に内在する「好き」の可能性を、上手いことすりかえて、「死ねハゲ」が実のところ「死なないでハゲ」を、ひいては「生きてくださいハゲ」を示唆しているのだというでまかせを熱弁すべきだった。それだというのに結果として彼が選択した行為は、部長の側に寄って、
「もう泣き止んでください。冗談ですから」
と慰めることだった。冗談もなにも、わたしは部長に向かって言ったつもりは一ミリもなかったのに。
こうして今日もわたしひとりが悪者になり、その空気は終業まで一ミリも揺らがないまま、気付けばオフィスに残っているのはわたしとサインだけだった。
現実としてわたしはまだ片付けていない作業が残っているのでパソコンのキーをめくらめっぽう叩き続けているわけだが、サインの方はどうだか、手もあまり動かさず涼しげな無表情で必要のない画面を睨むふりをしている。一体こいつはほんとに何なんだ、と昼休憩から数えて百万回目くらいの疑問を繰り返し、その回数分だけ答えも見つからないまま、作業も全く終わりそうにない。
サインはなぜ「手伝うよ」と言い出さないのか。言い出してくれないのか。もしかして待ってるのか? わたしが「手伝って」と言い出すのを。
「手伝えよ」
答えの見えない苛立ちのままにぶっきらぼうに投げ付ければ、サインはびっくり箱のバネ付き人形のように椅子からボカンと飛び出して、無表情のままわたしのデスクへ寄ってきた。その無感情なままのかたくるしい全身に、わたしはいよいよ恐ろしさを覚えた。いつもならこんなやつじゃないのだ。いいかげん、
「怒れよ」
「何?」
「あ、べつに」
わたしもわたしで柄でもなく引っ込み思案になってしまったのはなぜなのか、そうして二人の間を取り巻くどうにもぎくしゃくした空気の厚みは何なのか、端から端までその日はほんとにさっぱりだった。さっぱりのまま二人は黙々作業を続け、一人分の作業を二人でやったものだから三十分もしないうち目処がつき、一時間後には二人揃ってオフィスを出ていた。
ビルのエントランスの向こうは静かな夜だった。星も月もないが明るい、昼間座っていたベンチはそこだけライトアップでもしてるかのように容赦なく目に飛び込んできた。
「あのさ」
「何?」
立ち止まったサインが切り出したので、勢いづけてやろうと間を置かず促したわけだが、どうやら逆効果だったらしい。サインは妙に考え込んでしまって、昼間とは逆に今度は視線を宙に泳がせながら言葉を待っている。昼間あれほどよどみなく「言語の可能性」うんたらを語った同一人物とはとても思えなかった。
「あのさ、」
悩ましく額を抑えながら目を閉じたサインは同じ「あのさ」を繰り返し、それは繰り返しでしかないため話が進むわけもなく。待ちくたびれてしまったわたしは帰宅を急ぐ人々のファッションをひとりひとり観察し始めていた。中折れ帽、フチなし眼鏡、トレンチコート、フレアスカート、ショートブーツ、ブランドリュック。皆、おもいおもいのおしゃれを今夜も楽しんでいる。けれど本気でそれらを楽しんでいる人間なんて、この夜のうちにどれだけ生きてることだろう。
「あのさ……」
ため息の中で、サインはとうとう言語の可能性をあきらめたようだった。わたしは勝ち誇ったような気持ちになったが、その高揚感は瞬時に冷め、なぜだか侘しい空気に辺りは包まれてしまった。再び歩き出したサインの髪は夜風で乱れまくって、それでも彼にはもう身だしなみを気にする余裕もないようだった。ぼさぼさ野郎め。わたしは口の中で罵り、声にしないまま呑み込んだ。
異様なまでに泣きそうだった。
○
翌朝、一番出社は常のごとく緑青さんだった。銀色のスパンコールのびっしりついたスニーカーを履いた緑青さんは、その輝きを見せつけるようにしながら大音量で
「おはよう!」
と、二番目のわたしに向け押しつけがましく微笑んだ。
緑青さんから放たれるすべての鬱陶しさをなるべく避けながら生きる、それがこの会社でのわたしのモットーで、同僚は皆多かれ少なかれその傾向を持ち合わせている。
「緑青さん」
「どうした、のっこ氏!」
「ちょっと相談があるんだけど」
だから自分から緑青さんにアプローチをかけるなどもってのほかだ。そんなことは常識としてこのオフィスにいる誰もが重々承知している。緑青さんに何かアドバイスを求めたところで、結果は悲惨な大事故に巻き込まれるだけなのだから。
「昨日、サインから言語の限界やら可能性やらについて長々講義されてさ。終いには『わたしはあなたが好きじゃない』とまで言われちゃって。これってどういう意味だと思う?」
さあ、とどめを刺せ。その無慈悲かつ容赦ない明るさに満ちた笑顔で、わたしを今すぐ絞め殺せ。爛々とした緑青さんの両の瞳は、真っ直ぐわたしを打ち抜いていた。大丈夫。この人なら苦しませず一息にやってくれる。丸栄さんみたいな気遣いもガシュマロみたいな天然ボケもなく、ありのままの事実をはっきりと伝えてくれる。そうして伝えてくれたなら、今度こそわたしは号泣しよう。三番目のマツMが来るまで時間はたっぷりあるから、誰にも知られず悲しみに浸ろう。確かに緑青さんは空気の読めない人間ではあるが、心根は誰より優しく、堂々として、わたしのように偏屈なところはちっともない。ほんとうに、ちっとも。だから誰にも言わないでと懇願すれば、きっと約束は守ってくれるだろう。それこそ律儀にも死ぬまで。
「のっこ氏ともあろうものが、そんなこともわからないのか!」
珍しい緑青さんの呆れ声が人の少ないオフィスに響き、わたしは覚悟を決めた。
「大好きってことさ!」
大爆発は免れない。
始業時間になってもトイレから出られないわたしを心配して、丸栄さんとガシュマロが様子を見に来た。のっこ、のっこ、だいじょうぶ? と口々に繰り返す。正直、煩わしくて仕方がなかった。
「顔を大やけどしちゃって、恥ずかしくて出れない」
言ってしまってから大失言だと気付く頃にはドアの向こうから二人の悲鳴が響いていた。
「誰か呼んでこなきゃ!」
「誰か、誰か、のっこが大変!」
最悪だった。便座の上で頭を抱えながら、わたしは来て欲しい人物の顔を思い浮かべる。どうか部長であってくれ。どうか神様、部長でさえあってくれれば、わたしも一緒にハゲになるから。何ならマツMでもいい。マツMに見られたとて、その百倍靴先を踏みつぶせばいいだけだから。それでも駄目ならせめて緑青さんにしてください。あの夥しいスパンコールの輝きを目にすれば、却って血の気も引いて顔も青ざめるかもしれない。
「のっこ」
なぜ神様はわたしのささやかな願いさえ聞き届けてはくれないのだろう。
「開けるんだ、今すぐ」
まるで緑青さんのような大声で、はきはき喋る声は悲しいかな緑青さんでは決してなく、どうにも必死な感じの伴うこの響き。サインでしかなかった。
サインは声を張り上げながら無遠慮にドンドン扉を叩き続け、わたしは頭をどんどん深く抱えるしかない。さらに悪いことに、この薄い扉一枚隔てた先にサインがいると思うと、ますます顔の赤みは取れなくなっていく。それだから余計に鍵を開けるわけにはいかなくなっていく。悪循環この上なかった。
「ごめん、昨日」
急にシーンと静まり返ったかと思えば、サインは扉に向けて潜めた声で囁いていた。
「昨日言ったことは、全部なかったことに……」
弱々しく語り出した彼の言葉を、そのまま呑み込んでしまえばよかったはずが、全身燃え滾ったままのわたしには火に油だった。
この野郎、どの口が言いやがる。もはや羞恥なのか怒りなのかさえわからず、わたしは個室を飛び出した。サインのやつ、今すぐ息の根を止めてやろうじゃないか。
突然飛び出てきたわたしに驚いて焦点を失ったサインの唇を、わたしはありったけの力を込め封じ込めてやった。ほかでもないこのわたしの唇で。言語の可能性? やはりクソくらえだと思った。おまえは言ってしまったのだから、なかったことになど、なるはずもない。
同じ論理で、やってしまったこともまた容易には覆らないらしい。
唇を離すと、目の前のサインの顔はわたしに負けず劣らず真っ赤に染まり上がっていて、まずいと思ったわたしが身を引こうとしたところ、逃がさないうち両腕できつく抱きしめられてしまった。
一部始終を傍らで見ていた、いつの間にか一人残らず集まっていた五人のうち、四人は絶句していた。言葉を発することができたのは、緑青さんただひとりだった。
「ウルトラハッピーエンド!」
それは何とも能天気で間抜けで、予定調和なエンディングにぴったりの、まるで深みのない宣言だった。サインの野郎、耳かっぽじってよく聞いておくがいい。高鳴る彼の鼓動に額をあずけながら、わたしは吐き捨てた。何が言語の可能性だ。彼の背中に手を回し、爪の跡が残りそうなほどきつく指に力を込める。呆れ返ったわたしは誰よりほくそ笑んでいた。言語だなんて、しょせんはその程度のものなのだ。
論と情、ロジックとポエジー、熱力学と恋物語 有谷帽羊 @bouyou
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