第5話 初恋
山下陽子。
俺が所属する二年五組の担任を務めている女性教師で、一年生だった頃の担任も陽子先生だった。
年は二十代後半で、大人の女性らしく、非常に落ち着きを払っている。
規律を大事にする先生で、生徒達から人気の出る優しくて、明るい教師像からはかけ離れている人だ。
しかし、その美貌と凛とした性格も含め、一部の女子生徒の中で人気があるらしい。
ちなみに。
一年も俺と同じクラスだった沙霧は、陽子先生を「ヨーコちゃん」呼びするほど慕っていたりする。
どうして突然担任を紹介したのか。
それは朝のSHRの出来事に理由がある
「さて、今日は諸君に重大な発表がある。私事だが来月結婚することになったため、今月末で退職することになった」
「……………………」
一通り話を終えたSHRの最後。
いつも通りの淡々とした口調で告げられた言葉に、クラス全員が口を半開きにし
「「「えぇえええええええええええええええええ——っ!?」」」
驚愕。そして爆発。
「ヨーコちゃん結婚すんの、マッ!?」
「先生をつけろ、沙霧。それとしっかり日本語を話せ」
勢いよく立ち上がった沙霧を注意し、陽子先生はザワつくクラスを落ち着かせる。
「各々思うところはあるだろう。私としても、進級してこれからって時に申し訳なく思っている。だからこそ、最後まで諸君の担任としての責務を全うしよう。残り約三週間、改めてよろしく頼む。以上、号令」
こんな時まで陽子先生らしい。
クラスメイトの多くは、陽子先生の結婚発表に驚きを隠せないようだ。
厳格な陽子先生はあまり笑顔を見せず、女子生徒が恋人の有無を質問しても「仕事が忙しいから」と適当に流せれてしまっていた。
美人だが、男気は皆無なイメージを誰もが持っていたはず。
そこにきてのこれ。
俺としてもショックだった。
「山下先生、恋人いたんだー。前聞いたときはいないって言ってたのに」
「あれはぐらかしてただけじゃん。いないとは言ってなくね?」
「結婚式いつするのかな? 写真送ってほしいー」
「先生のウエディングドレスとか絶対綺麗じゃん! ヤバっ、ちょー見たいんだけど!」
浮き足立ち始めるクラスメイト達。
「みんな、ちょっといいか」
本格的に騒ぎ始める前に、俺は手を挙げて注目を集めた。
「提案なんだけど、陽子先生の最後の登校日に、送別会やらね?」
クラス替えしたばかりで、きっと誰もが思いながら言い出せなかったこと。
だが、こうして口火を切ってしまえば。
「さんせーい! お花渡そ、お花! あたし渡したいんだけど! いい?」
「ヨーコちゃんと仲良いの沙霧だし、いいんじゃない?」
「そこらへんは後で改めて希望者を募ろーぜ」
「やるとしたらHRの後?」
「色紙もいいんじゃない?」
「私黒板アートできるよ!」
クラスの中心にいる沙霧達を筆頭に、クラスメイトも賛成を表明する。
「静粛に! みんな静粛に!」
声を張り上げたのは、いつの間にか教壇に移動した眼鏡男子。我らが二年五組の委員長、
去年も俺と同じクラスで委員長を務めていた。
「すぐに授業が始まる。ひとまず意見をまとめよう。
「「「さんせーーい!!」」」
どうやら全会一致のようだ。
「うむ。では明日の朝、SHR前に話し合いの時間を設けよう」
「朝? 昼休みでも良くね?」
「昼休みは予定のある者が多い。教室で弁当を食べている生徒はいいが、学食で食べている生徒はお昼を抜きにしてしまう」
「あー、そっか。仕方ない。明日は早起きすっかー」
「そうしてくれると助かる。それまでに各々やりたいことを考えてきてくれ。くれぐれも、山下先生には内密にな。本日はこれにて解散。みんな、授業の準備をしてくれ」
さすが委員長。固いところはあるが、やはりこういう時は頼りになる。
言い出しっぺとして情けないが、俺の立場だとせいぜいきっかけ作りが限度だ。
具体的な形にするにはまとめ役と、当然クラスメイトの協力が必要不可欠。間締の立場だと、沙霧にように周りを巻き込んで士気を高めてくれる人間はかなり助かる存在だろう。
クラス結束を高めるという観点から見ても良い影響が考えられる。
こういう行事は準備の段階から新しい友達を作ったり、親交を深める契機にもなる。
結束力が問われるのは、やはり九月の学園祭と、たたみ掛けるようにくる十月の体育祭だろう。
まぁ、五組が体育祭で一位を目指したり、文化祭で優秀賞などを狙うかどうかは……いや、愚問だな。考えるまでもない。
とりあえずは好感触でなにより。
そして、午前中の授業を終えて。
昼休みの時間。俺はいつもの学食ではなく、購買のサンドイッチを買って屋上の扉を開いた。
四方をフェンスで囲まれているが、嘉乃自体が高い位置に建てられているため景色は良い。
静かに屋上に出た俺は、扉の上側……塔屋の上に飛び乗った。
「結婚……か……」
突然だな……プライベートだから当然だけど。
「でもっ……あぁああああっ! マジかぁ……」
頭を抱えて俯く。
祝福したい気持ちはあるのに、黒いモヤモヤとしたものがそれを阻む。
今の顔……陽子先生に見られなくてよかった。クラス連中にも。
送別会の提案をした時や授業中も顔を引き締めていたから、誰にも違和感は持たれていないと思うが。
「ヤッホー、一兎。愛しの幼馴染が会いに来てやったぜー♪」
「うおっ!?」
いつの間にそこにいたのか。
梯子から塔屋に登ってきた沙霧が、顔だけ出すようにこちらを見上げていた。
すぐに俺は表情を取り繕う。
「ビビるわ! ホラーやめろ!」
「いやいや。屋上の扉を開けた時点で気づけって。あれけっこー錆びてんだよ? まぁまぁ音鳴るよ?」
「……それはそうだな」
どんだけ周りが見えなくなってたんだ俺。
沙霧は梯子を登り切ると隣に腰を下ろした。昼飯だろうか。その手にはビニール袋が握られている。
「んで、何しに来たんだ?」
「へ? だから会いに来たんだって」
「なんで?」
「んー……」
沙霧は斜め上に視線を上げた後。
「一年前ぐらいに、誰かさんが私に『辛いときは誰かが近くにいてくれるだけで助かるものだ』って言ってたから……かな」
「んなのケースバイケースだろ」
「無理してノンデリ野郎になんなくていーよ。あたしはわかってるから」
沙霧はそう言うと、ビニール袋からパンを取り出して俺に差し出す。
それは一年の頃から好きな惣菜パンだった。
「一緒に食べよ?」
「……一ノ瀬達はいいのか?」
「問題なし! オールクリア!」
ニッと笑って見せた沙霧。
気が付けば、俺もつられるように小さく笑い、パンを受け取る。
「ありがとう」
「うん」
それから言葉はなかった。
二人並びながら黙々とパンを食べる姿は傍目には奇妙に見えるだろうが、少なくとも今は気をつかう人間はいない。
取り立てて語るような、劇的な何かが陽子先生とあったわけじゃない。
今も昔も生徒と先生のままだ。
ただ偶然、少しだけ、他の生徒と比べて話す時間が多かっただけ。
気付けば……陽子先生のことが好きになっていた。
周りと比べても遅い初恋。上手く隠していたつもりだったが、どうやら幼馴染の目は誤魔化せなかったらしい。
俺が沙霧を理解しているように、沙霧も俺を理解しているようだ。
余計な事を聞いたり言ったりしないあたりが、それを物語っている。
「あ、お金は返してね。あたし今月ピンチだから」
「全部台無しだよ」
まさに余計な一言。
一瞬で空気が変わり、いつも通り俺達は昼休みが終わるまで軽口を叩き合った。
誘惑してくる小悪魔はいざ押されると弱い ますく @madakutsu
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