第2話 めっちゃ恥ずかしがってんじゃん
名門と呼ばれるだけあり、嘉乃の敷地面積は広大だ。
複数のグランドと体育館。プール、テニスコート、サッカー場や野球場もある。しかも全寮制であるため、寮館に加えてカフェテラスも設置されている。
「うあ゛ーッ、疲れた〜」
その陸上競技場にて。
練習を終えた嘉乃学園陸上競技部の短距離ブロックのメンバーが横になっていた。
「けつ割れっ……あぁああ、死ぬ……っ」
「お疲れ様。水飲めそう?」
「無理です……」
「……ヤバ、吐く……ンオエっ」
「ちょっ、やめて
話す気力もない者。悲鳴を上げる者。発射する者。
疲労困憊で死屍累々と倒れていても、そのあり方は三者三様だ。
(わかるぞ……冬練の時期は終わったってのに、長い距離は勘弁してほしいよな……でもここで吐くのはやめてくれ……。カレーの匂いが……っ)
大慌ての同級生を横目に、一兎はマネージャーが用意してくれていたボトルを仰いだ。
程良く冷えたスポーツドリンクが身体に染み渡るのを感じる。
しばらくして、息が整ってきた頃。
「一兎おつ〜」
聞き覚えのある声が一耳に飛び込んできた。
声主を見れば、予想通りの人物がそこに。
「お疲れ沙霧。ハードルも終わり?」
「本練はね。これから補強やんの。ってか、さっきなんか騒いでたけど、何かあったの?」
「ああ、貴之がトラックに吐いたんだよ」
「マジ!? トイレまで間に合わなかったやつかー。また新しい黒歴史作ってんじゃん」
「あいつは存在が黒歴史みたいなとこあるからな」
「辛辣っ。でもそれはそう」
貴之とはちょっとした有名人でもある。
というのも、多くの生徒がその黒歴史を目撃してきたからだ。
自己紹介でボケてすべったことなどまだかわいい方だ。
授業中に居眠りし、「回鍋肉っ!」と叫びながら飛び起きる。
学祭の演劇中に衣装のマントを踏んで転ぶこと二回。
去年の卒業式では「卒業生、起立」で見事に立ち上がってみせた。
そんな数々の武勇伝を誇る貴之に、また一つ新たな話が紡がれたのだ。『黒歴史製造機』なんて呼ばれるのも必然だろう。
「キツい練習して吐いたんなら、『頑張ったから』で済ませられるし、今回のは大丈夫だろ」
「園田の黒歴史の中じゃインパクト低いしね。……っていうか一兎さ、あたしを見てなんか気付かない?」
「…………」
思わず黙ってしまった。
嫌な質問だ。眉間に皺が寄ったのが自分でもわかる。
「もし当てられたら……イイことしてあげる♡」
悪戯っぽい表情で、沙霧がバチッとウインクする。
ダダ下がった一兎のモチベーションを上げようとしているのだろう。
しかし『いいこと』か。いくらでも妄想が膨らむこれは——
「魅力的な提案だな」
「でっしょおっ! 別に外れたって怒ったりしないから、ドンドン言ってみよー!」
「んー……綺麗になった」
「マジっ!? 具体的にどこが?」
——どこが?
「……………………心?」
「誰が性格ブスだ! わからなくてもせめて見た目で答えんかバカタレ!」
「怒ってんじゃん!」
「あんなこと言われたら誰だって怒るし! そうじゃなくて、もっと無難なやつちょーだい!」
「無難……あれか、前髪を切った!」
「一ミリも切ってないけど、そう! そんな感じ!」
「化粧を変えた」
「そもそもしてない!」
「ダイエットした?」
「それ前は太ってたって言いたいわけ?」
「身長が伸びた」
「ねぇ、雑っ! すっごい雑っ! あたしにも感情はあるんだよ? そこには気付いてる?」
「沙霧が無難なやつって言ったんじゃねーか!」
「身長とか言い始めるのは違くない? 伸びてたとしてあたしがわざわざクイズにすると思う?」
「え、嬉しくねぇの?」
「うん、全然」
真正面から沙霧のジト目が突き刺さる一兎。
ここまで時間を稼いでみたものの、沙霧の望む答えは導き出せそうにない。
「わからん! リタイア!」
「んじゃ、ご褒美はオアズケね。正解は……コレっ!」
沙霧が指差したのは練習着のショートパンツだ。黒を基調として、白のラインが入っている。
「じゃーんっ! 朝学校行く前に開けたやつ。ねっ、どー?」
ショーパンの裾を両手で摘んで、見せつけるように広げる。
沙霧が純粋に感想を欲しているだけなのだが……なぜか一兎は少し気まずそうで。
「おう……よく似合ってる」
これが精一杯だった。
そう、似合ってはいるのだ。一兎も勿論そこに異論はない。
だが体育の授業等で着るジャージの短パンに比べ、沙霧のそれは丈が非常に短い。
すると何が起きるか。
否が応でも視界一杯に入ってしまうのだ。惜しげもなく晒されている沙霧の真っ白な素足が。
沙霧が新品の練習着を見せているだけなのはわかっているが、その事実が更に一兎の心に罪悪感となってのしかかる。
なんだかイケナイことをしているようで妙に落ち着かなくなってしまい、しれっと視線を逸らす。
すると視界の端で。
にまぁ〜〜っ、と沙霧が口元に笑みを浮かべるのが見えた。さながらいじり甲斐のあるおもちゃを見つけたような、そんな顔をしている。
来た。来てしまった。
一兎はこの顔をよく知っている。この後に起こるであろうことも。
沙霧は一兎の隣に腰を下ろすと、おもむろに脚を組む。
「ちょっとちょっと〜、どこ見て言ってるんですか〜。適当に言わないでくださいよ」
「ほんとよく似合ってると思うぞ? めっちゃ見てるし」
「嘘ですね、あたしは騙されませんから!」
からみつくような、ねっとりとした口調で喋りながら、沙霧はゴロンと寝転がると、脚を空中に浮かせる。
ショーパンの裾が滑り、かなり際どいところまで落ちる。
「ほらほら、遠慮しないで見ていいんですよ? あたしは寛容ですから、一兎が舐め回すように見ても引いたりしません!」
「いや、そうじゃなくて……」
そこまで言って、一兎はあえて周囲を見渡すように視線を動かした。
「?」
だが、うまく伝わらなかったらしい。
なら仕方ない、と一兎は不思議そうな表情を浮かべる沙霧へ声を潜めて言った。
「見てんのは俺じゃなくて、周りの連中な」
「——っ!?」
途端、沙霧は目にも止まらぬ速さで姿勢を正した。
そしてチラッ、と周囲を確認すると、主に男子部員達が鼻の下を伸ばしながらこちらを伺っていて。
「くそぅっ! サービスタイムは終わりか……っ」
「あれが噂の沙霧先輩のサービスシーン……やばっ、鼻血が!」
「おい誰か! 今の写真に収めたか?」
「誰が部活中にスマホ持ってんだよ」
「ああん? じゃあ明日からはスマホを持ったまま走るぞ!」
「コーチに怒られっから!」
コソコソ話しているつもりだろうが、沙霧の大サービスに大興奮のようで、しっかり会話の内容が二人の耳にも届いていた。
「……ほ、補強あるからもう行くね!」
早口でそう言って、逃げるようにしてハードルパートの元へ戻る沙霧。
それと入れ替わるようにして、一人の男子部員が一兎の隣に来る。
「今日も『距離バグコンビ』は健在だね。初めて見た一年生達がビビっていたよ」
「そのあだ名みたいなやつ、誰が言い始めたの?」
「う〜ん……去年から言われていたけど、まぁ、二人を見て呆れている誰かが言い始めたんだろうね」
「急に刺して来るじゃん」
幼馴染の一兎にだけ行う沙霧の誘惑するような言動を、一兎も一兎で嫌がったり突き放したりしない為、この二人の距離感の近さには周りももう慣れてしまっている。
と同時に。
幼馴染であっても、あの距離感はお互い色々と無自覚すぎやしないか……と呆れていたりもする。
特に同じ二年生にはこれが顕著に出ている。
しかし、周囲には疑問もあった。
沙霧の誘惑行為は攻撃力が高い。
直撃を喰らわなくとも、鼻血を吹き出したり、悩殺される男子が多発する。
だというのに、一兎にはそれがない。
それは一兎がスカしているとか、沙霧を異性として意識していないとか、そういう話ではない。
一兎は知っているのだ。
(耳真っ赤じゃねーか)
実は沙霧が、恥ずかしがり屋だということを。
一兎を誘惑する時、緊張して敬語になってしまうことを。
何気なく沙霧を見れば、ちょうど何かを思い付いたのか、小走りで自分のカバンに向かっていた。
そして、中から部ジャーの長ズボンを取り出すと、いそいそと
(めっちゃ恥ずかしがってんじゃん……)
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