第二十話 金魚屋の御縁叶冬(一)
身体がふわりと浮かんだような感覚があり、辺りを見渡すと目の前の喫茶店の看板は先ほどまでとは違う物に変わっていた。
「金魚屋!」
「入ろう」
「え!? あ、危なくないですか!? 何が起きるか分からないですよ!」
「入らなきゃ何も始まらないよ」
叶冬は迷わず扉に手を伸ばした。
しかし叶冬が開けるよりも早くに扉は開かれ、叶冬を吹き飛ばし秋葉も巻き込み事故で共に転がった。
「おや?」
「あれ?」
暴れながら飛び出て来たのは八重子と夏生だった。
秋葉は打ち付けた鼻の頭を擦りながら起き上がると、ぐんっと八重子に顔を覗き込まれた。
「おやおやぁ? おやぁ!? おやややぁ!?」
「ほらね、言った通りでしょう。俺の勝ちですよ」
「っか~! なっちゃんは本当に可愛くない!」
「どういうことだ! 金魚屋のことはすべて忘れるんじゃないのか!」
そうだよぉ、と八重子は叫んでいる。けれど夏生は愉快愉快と笑っている。
「宮村さん! 何なんですかこれ! 説明して下さいよ!」
「ごめんごめん。秋葉君、忘れ物だよ」
夏生が差し出してきたのは秋葉が無くしたスマートフォンだった。
やはり先程掛けてきたのはこの二人だったようだ。
「どうも……じゃなくて、何で? 俺たち忘れてないんですけど」
「それのせいだよ。二台とも君の持ち物で、しかも空間を繋げる物。これが金魚の通り道になったんだ」
「金魚の通り道?」
「金魚屋への道だよ。金魚と金魚屋だけが通れる道があるんだ」
「じゃあなんで俺達が? 俺たちはもう普通の人間のはずです」
「だから、スマホ。金魚鉢のせいで叶冬君が覚えてたことがあるように、今度はしっかり覚えてたんだろうね。いやー、君たちの姿が見えたから掛けてみたんだ。うまくいけば繋がるんじゃないかなって」
「繋がっちまったぁ!」
うわあん、と八重子は頭を掻きむしってぎゃあぎゃあと叫んでいる。
これは気にせず無視するのが一番だと学んだ秋葉はくるりと背を向け夏生にだけ向き合った。
「俺はそうだとして、店長は? 同行してれば誰でも金魚屋に入れるんですか?」
「叶冬君はまた別枠。けどまあ、多分こうなると思ってたよ」
「どういうことだ」
「雪人君と魂が同化してたからだよ。元は違う物だったけど、一度は一つになったんだ。それが二つに分かれて両方の世界に存在する。つまり君らは存在自体がそのスマホみたいなものだ」
「じゃあゆきは無事なんだな」
「無事だよ」
「生きてるんだな!」
「生きてるよ」
生きてる、と叶冬はぽつりとこぼし、大きく息を吐いた。
顔は伏せているけれど小さく震えている。きっといつものように余裕ぶってみせることもできないのだろう。
「雪人さんに会うことはできますか」
「できるよ。でも君らは覚悟しなきゃあいけない」
「何をだ」
「金魚屋としてのさ」
「金魚屋? どういう意味だ」
「おっと、それ以上は店内でしか話せない」
八重子は夏生を連れて店内へ一歩足を踏み入れた。
そこは金魚屋の領内だ。
「さあ、どうする? ゆきちゃんはこの中にいる」
叶冬は一瞬も躊躇わなかった。すぐに一歩踏み出し、秋葉もそれに続いた。
「駄目だ。アキちゃんはお帰り」
「でも」
「帰っても意味なんて無いさぁ。スマホがあるから来れるもんね」
「ならそっちのスマホを寄越せ!」
「できるならとっくにしてるさ。けどねえ、金魚屋には金魚屋の規則があるんだ。例えば、金魚屋の資格を得た者がその資格を捨てるには自ら契約破棄が必要、とかね」
「契約破棄? 俺は契約なんてしてませんよ」
「したんだよ。スマホを置いていったこと自体が契約になるんだ」
「……それを壊せば日常に戻れるんだな」
「そうだよ。ただし壊すのはアキちゃん自身だ」
くそ、っと叶冬は普段の口調も大人らしい振る舞いもせず八重子を睨んでいた。
秋葉を巻き込みたくない、もう日常に戻って欲しい、そう思ってくれているのが伝わってくる。
けれど秋葉はもう決めていた。
「行きます。どうするにしろ行かなきゃ始まらない。そうでしょう、店長」
「でも」
「おーいおい。決めるのはアキちゃんだ。君じゃあないんだよ、かなちゃん」
「そうです。ついでにあなたでもありません」
「んァ!?」
「口は出さないで下さいね。あなたは金魚屋かもしれないけど俺の上司でも何でもないんですから」
「んぬぁあああああああああ!?」
「あははは。俺やっぱり気に入ったな」
夏生はクスクスと笑うと八重子を店内に押し込んだ。扉をあけ放ったまま自らも中へ入り、秋葉と叶冬も後を付いて店内へと入っていった。
恐る恐る中を見ると、当然だが店内は変わらず喫茶店のままだ。ほんの数時間で何が変わるわけもないが、何となく摩訶不思議なことを期待していしまう。
秋葉はこの不思議なのかそうでないのか分からない状況に慣れてきたが、叶冬はやはり八重子を睨んだままだ。
「そう睨まないでおくれよ。君らの日常が変わるわけじゃあないんだ」
「変わるだろう!」
「変わらずに生きていけるってことだあよ。証拠を見せよう」
八重子は夏生に目線を送ると、夏生はにやにやと笑い出した。
キッチンを抜けて少し先にある扉を開け、誰かに話しかけているようだった。きゃあきゃあと明るい子供の声が響いてきた。
「他にもお客さんですか?」
「違うよ。あれは本来アキちゃんが出会うはずだった金魚屋さ」
「俺?」
「アキちゃーん!」
「ぐえっ」
八重子に気を取られていたその瞬間、どかんと誰かが体当たりして来た。
声は子供のようだったが決して身体は小さくなくて、ずっしりと秋葉にのしかかった。のしかかってきたのは、ここにはいるはずの無い人間だった。
秋葉は乗っかって来た人物を押しのけると、相手はころんと転がった。
「いたーい! 何すんの!」
「……依都君?」
「より。突進するの止めろって言ってんだろ」
「だってえ」
「神威君!? 君ら、何で……」
「そうか。お前ら全員グルなのか」
「人聞き悪いこと言うなあ。これには色々事情があるんだあよ」
そうそう、と可愛らしくぽこぽこと怒る依都はあっかんべー、と叶冬に喧嘩を売った。
そしてささっと神威の背に隠れたが、依都は以前会った時とは全く雰囲気が違う。急に人柄が変わったように見えたは、真実変えていたのだろうか。
「あの、僕が会うはずだった金魚屋ってどういうことですか?」
「僕らも金魚屋なんだよ! 僕が副店長! 店長は出張中!」
「え」
「言ったろ? 秋葉君の処置をするはずの金魚屋は出張中って。秋葉君はよりちゃんトコの担当地区なんだ」
「え……じゃあ依都君と神威君も、もしかして四十代五十代……?」
ちがーう、と依都はぷうっと頬を膨らませた。
二人はどう見ても二十代だ。八重子の年齢は分からないが、夏生のように実年齢と外見が異なる場合もある。
「この二人は見た目通りの年齢だあよ。これが金魚屋でも変わらずに生きていける証拠さ」
「えっと、でも金魚屋の中は時間が緩やかなんですよね」
「そうそう。でもそれは雇用形態によっても変わってくるのさ」
「雇用形態?」
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