第二十話 金魚屋の御縁叶冬(二)
急に現実味のある言葉が出て来て秋葉は声が裏返った。
空飛ぶ金魚を扱う金魚屋なんていうファンタジーな存在のくせに、店舗だの出張だの、果てには雇用形態なんて一般企業のようなことを言うとはなんて似つかわしくないのか。
訝しげに八重子を睨んだが、ケラケラ笑っていてまともな説明は期待できそうにない。早々に諦め夏生へ目を向けるとにっこりと微笑まれた。
「金魚屋には二つの勤務形態があるんだ。八重子さんみたいに金魚屋の中で生きる正社員と、依都君と神威君みたいに生者が金魚屋をやる業務委託」
「正社員? 業務委託?」
「ちなみに俺は八重子さんのアルバイトであって金魚屋じゃない。だから生活は八重子さんと同じだけど生者の中にも足を踏み入れる特殊ケース」
「タイム。一つ質問いいですか?」
「どうぞ」
「金魚屋って企業なんですか?」
「そうだよ。本社があって各地に店舗がある。チェーン店だね」
なにそれ、と秋葉の口から文句か零れた。どうせなら物語のように美しい存在のままでいて欲しい。
「つまりね、秋葉君が金魚屋をやるなら雇用形態は業務委託。日常生活に金魚屋の仕事が増えるだけ」
「僕も神威君も普通に生活してるんだよ。地下アイドルは仮の姿! とかじゃないの。本当に僕なの」
「そうなんだ。じゃあ店長も業務委託ですか?」
「いんや。かなちゃんは残念ながら特殊ケースだ」
八重子はぺたんと足を鳴らした。どうやら草履に履き替えたらしい。
「ここに来た以上、かなちゃんは選択しなければいけない」
「選択?」
「ゆきちゃんはもう金魚屋の人間だ。金魚屋の人間と魂を同じくする人間がここに来たなら強制的に金魚屋になってもらう。それが嫌なら――」
八重子はすっと叶冬の顔に手をかざし、目の前でぐしゃりと何かを潰すようにした。
「これまでの人生を全て忘れてもらう」
「そ、そんな!」
「今僕がここで君の記憶を奪う。うっかり記憶が残るような偶然は無い」
「待って下さい。そんな」
あまりにも一方的だ。決断を下すにしろ、対等に向き合い話をしなくては冷静に考えることなどできはしない。
秋葉は八重子に食って掛かろうとしたが、それを止めたのは叶冬だった。
「ゆきは金魚屋になったのか」
「そうだよ。彼はもう金魚屋の中でしか生きられない。そういう肉体になってしまった」
「俺も金魚屋になれるのか」
「店長!」
「なれるとも。そいでもって僕はそれをお勧めするよ。だって金魚屋にいる限り大切な者と生きられるのだからね」
八重子はひょいと足元をちょろちょろしていた弟を抱き上げた。
少年は何故か終始無表情だが、すりすりと姉に頬を寄せている。この子が八重子の大切な者なのだろう。ではやはりこの子も金魚屋なのだ。
「それに死なないわけじゃない。ただ少し普通の人間より時の進みが遅いというだけだ。成長もするし老化もする。ただとても遅いだけ」
「けど叶冬君はかなり特殊ケースなんだ。これは君というより御縁神社がなんだけど」
「神社?」
「金魚屋になる場合どの敷地を金魚屋にするかを決める。もし黒猫喫茶を金魚屋の店舗にするとしよう。けど黒猫喫茶は御縁神社という敷地の中にある」
「神社ごと金魚屋になるのか」
「それがややこしいところなんだ。敷地が金魚屋になるといっても金魚屋に繋がる扉は一つだけ。金魚屋の緩やかな時を過ごせるのはその扉の先だけだ」
「……そうか。黒猫喫茶は時間がゆっくりだけど、それ以外の場所で生活すれば普通の時間を過ごせる」
「そうそう。アキちゃんは賢いねえ。なっちゃん見習いたまえ」
「はいはい」
聞き飽きました、と夏生はぺっぺっと八重子がからかいながら頬を突いてくる指を振り払った。
「つまり、金魚屋の時を生きるのが嫌なら普段は黒猫喫茶に入らなければいい。住居が別にあるんだろう?」
「敷地から出てもいいのか?」
「いいよ。俺だって出てるし。ただ俺は好きで金魚屋の中にいるだけ」
「お止めと言ったのに聞かないんだこの子は」
「それを決めるのは八重子さんじゃないですし」
夏生は、なー稔、と言って八重子が抱っこしている弟の頬を突いた。
少年は相変わらず無表情だったけれど、きゅっとなつきのゆびを握りしめた。それはとても仲が良さそうで、ふんっと八重子は面白くなさそうに夏生へ背を向けた。
「つーわけだ! さあかなちゃんどうする!」
「ゆきは金魚屋の時を生きるんだな」
「そうだあよ」
八重子は手を差し伸べた。すらしとした白く細長い指は人形のように美しい。
「金魚屋をやるかい? それとも忘れるかい?」
その答えは聞かなくても分かっていた。叶冬はその手をパンッと払いのける。
「やってやる。けどゆきは俺の店にくれ。それは譲れない」
「それはぜひそうして欲しいけどそれはともかく今僕の手叩く必要あったかい?」
「普段の行いが悪いんですよ、八重子さんは」
「んなぁぁにぃぃ!?」
はいはい、と夏生はドンっと八重子を押しのけた。そのまま『立入禁止』の扉に手を掛ける。
「金魚屋は基本的に店長と副店長、アルバイトもしくは業務委託で構成される。叶冬君が店長なら副店長が必要だ」
八重子はそっと『立入禁止』の扉を開いた。そこから誰かがちょこっとだけ顔を出している。
「……かな?」
「ゆき!」
顔を出しているのは雪人だった。叶冬は夏生を突き飛ばし雪人を抱きしめた。
よかった、生きてるな、とぼろぼろと涙を流している。いつも余裕を見せている叶冬と同一人物とは思えない。
それでも雪人は安心したように微笑み、けれどどこかおっかなびっくりという風だ。
「……ごめんね。僕のせいで巻き込んじゃった」
「いやぁ、巻き込まれたのはゆきちゃんだよ。かなちゃんが金魚になんてならなけりゃこうはならなかったんだ」
「違います。そもそも八重子さんが叶冬君を追い出したりしなければこうはならなかったんです」
「うぐぅ」
夏生はすっこんでて下さい、と八重子の首根っこを掴んで後ろにぽいと捨てる。深々と頭を下げ、ごめん、とはっきりとした口調で告げた。
「君たちは完全に八重子さんの被害者だ。こちらもできる限りのことはする」
「……ゆきを元に戻すことはできないのか」
「それはできない。雪人君が金魚屋に来たのはそもそもの寿命だったんだ」
「寿命?」
「病気だったろう? 雪人君は叶冬君に魂を食われたからじゃなくて普通に病死なんだ。金魚になったのも普通にだ。ただその時点で二人の魂が同化していたから生きながらえているだけ」
「じゃあ、今の雪人さんは……」
「かなちゃんの魂を餌にギリギリ生きてるんだあね。本来はとっくに弔われて終わっているのさ!」
「な、何ですかそれ。かなの魂を餌にってどういうことですか」
「言い方が悪いですよ、八重子さん。餌じゃないよ。二人で一つの魂を使ってるって意味。一度混ざった魂は分離しないからね」
夏生はうちの店長がすみません、とまた頭を下げた。
けれど普通ならば言いにくいことも八重子があっけらかんときっぱり言ってくれるのは分かりやすく、かつ良い意味で真剣みが無い。
重々しく語れば陰鬱となったかもしれないけれど、そうはならずに夏生がうまく切り替え話を進めてくれているのは有難く感じた。
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