第十七話 輪廻(一)

 何かが割れたなら掃除をする。

 秋葉はその程度にしか考えていなかった。まさかこんな異常な光景が喫茶店で繰り広げられているとは思ってもいなかった。


「な、何だあれ!!」

「おや、付いて来ちゃったのかい」

「あれ! 何ですかあれ!」


 喫茶店へ戻ると、そこには二十代ばかりの女性がいた。けれどそれはとても人間とは思えなかった。

 金魚鉢に入っている金魚を取っては食い取っては食い、赤い汁を飛び散らせながら金魚を貪っている。よく見れば女の口には牙のようなものが生えている。


「何、してるんですかあの人」

「人じゃない。あれは出目金の共食いだよ」

「は!? 人ですよ!!」

「出目金は共食い続けると生前の姿を取り戻す。でも取り戻せるのは死した状態。手に入るのは死肉で、すぐに腐っていく。それを保つために金魚を食べ続けるのさ」


 女性は金魚を頬張った。その度にぐちゃぐちゃと音がして肉片が飛んでいく。

 秋葉は思わず目を背けて蹲った。


「ちゃあんと見ておいで。このままいけば君もああなるのだからね」

「……え?」

「金魚を食べたいと思ったことはないかい? あるはずだよ。思い出してごらん」

「金魚を――……」


 それは夢だった。依都と神威のライブを見たその日の夜、金魚を食べている夢を見た。夢のはずだ。

 だがあれはただの夢ではなく、金魚が見せている夢ではないかと叶冬は言った。

 ――ではあれは金魚の願望か。


「アキちゃんの前にあの子をどうにかしないとね。稔」


 八重子はぽんっと弟の頭を軽く叩いた。弟はこくりと小さく頷くと、軽やかな足取りで金魚を貪る女に飛び掛かった。

 女の身体に手を伸ばすとそれはするりと通り抜け、何かを引っ張るようにして取り上げた。その手に持っているのは金魚だった。次々に金魚を取り出し放り投げると、次第に女の身体は朽ちていき、最後に残ったのは小さな出目金だった。

 夏生は出目金に金魚鉢をかぶせて蓋をすると、お疲れ、と少年の頭を撫でた。少年は終始無表情だったが、きゅっと夏生にしがみ付く様子はとても子供らしい。


「出目金はどうするんですか」

「弔うのさ。そうすれば昇天できる」

「つまりどのみち弔うんだよ。なら美しい金魚のまま昇天させてあげるのがせめてもの餞だ」

「春陽もこうなるんですか……」

「なるのはアキちゃんだよ。魂を全て食われたらその身体は死に、水瀬渚沙の物になる。でも所詮は金魚で肉は腐る。そして補填のために金魚を食べる」

「でも金魚の弔いをすればそうはならない。だから今ここで水瀬渚沙と春陽君は弔わなきゃいけないんだ」

「春陽も、ですか。だって春陽は俺を守ってくれてるんだ」

「葬儀システムというのは個体認識はしない。ただそこにある金魚を弔う。水瀬渚沙だけを抽出なんてできないのさ」

「そんな……」

「弔ってくれ。今すぐ」

「店長!?」


 それでも嫌だ。そう言おうとした秋葉の手を掴んだのは叶冬だった。

 ここまで静かに睨みつけていただけだったのに、顔色を変えている。


「待って下さい! 俺は嫌だ!」

「駄目だ。金魚は呼吸をすることで魂を食う。悪気なんてない。それは無自覚で金魚自身も知らないんだ」

「さすがかなちゃん。金魚のことをよく分かってる」


 まるで自分のように語る叶冬に、八重子はぱちぱちと拍手をした。

 八重子さん黙って、と夏生がお決まりの注意をしている。

 それはまるでよくある日常の一コマだ。


「俺は君を守ると約束した。君のご両親と、春陽君にもだ」

「あ……」


 秋葉の実家に挨拶をしに来てくれた時、両親に『秋葉君は私がお預かりいたします』と言ってくれた。春陽の仏壇に手を合わせ『例え誰であっても手出しはさせない』とも言ってくれていた。

 あの時は叶冬が春陽を敵視して言ったのかと思ったが、もしかしたらあれは切り捨てる覚悟だったのかもしれない。


「でも……」

「……秋葉君。俺が金魚屋に来たのは妹が出目金になったからなんだ」

「え?」

「俺が心中を持ち掛けて俺だけが生き残った。沙耶は――妹は俺に殺されたようなものなんだ。俺も死んでもいいと思った。けど沙耶は『生きて』と言ってくれた」

「生き、て……?」

「そうだよ。生者は生きなくてはいけない。それが死者への礼儀だ」

「でも、それは、春陽を殺すということでしょう」

「そうだよ」

「そうだよ、って……でも、あなたはスイッチを入れるだけなんでしょう……」


 あんな無機質に。まるで何も無かったかのように。


「そうだよ。金魚屋は弔うだけだ。蘇生などできはしない」

「だから、簡単に殺せるんですか……関係無いから……」

「殺すんじゃない。弔うんだ」

「同じです! こんな、スイッチひとつそんな……!」

「……そうだね。だから金魚屋が生者にしてあげられることは一つだけなんだ」


 夏生は悲しそうに、けれど何故か懐かしいものをみるように温かく微笑んだ。


「俺も秋葉君と同じことを思ったよ。どんな姿になっても妹だ。殺すなんてできない。でもそれで死んでやれば沙耶は喜ぶのか? ……それは違う。死した身体をひきずってまで俺に生きろと伝えに来たのに、俺が死んだら沙耶の想いは無駄になる」

「宮村さん……」

「だから俺は沙耶の弔いをした。せめてこの手で送り出してやりたいと」


 夏生はポケットから何かを取り出し秋葉に差し出した。それはカードだった。何のカードだかは書いていないけれど、うろこのような模様が浮き出ている。

 何のカードかは聞かなくても分かった。


「これがあれば誰でも葬儀システムを動かせる」

「これで、春陽を殺せと……?」

「春陽君は君を守った。それは君に生きて欲しいということだ。それなのに君は死を選ぶのか」

「俺は……」

「金魚屋は金魚帖に従い弔いをするだけの店だ。それに反することはできない。できるとしたら弔い手の変更くらいのものだよ」


 ようするに、秋葉がやらなければ八重子が弔う。八重子が弔えば秋葉は何もせず見ているだけになる。


「さあ、選択だ」


 八重子はコツンと足音を鳴らした。草履ではなく編み上げのブーツを履いていたことに今気付いた。その足元には捨てられた叶冬の黒い着物が落ちている。

 顔を見れば殺すかどうするかを議論しているとは思えないほど華やかで美しい笑みを浮かべている。

 秋葉にできるのはこのセキュリティカードを受け取るか、それともいびつなこの女に全てを託すか。どちらにせよやることは同じで結果も同じなのだ。


「殺すかい? それとも殺すかい?」


 ――金魚屋が殺すか、自分で殺すか。

 八重子はにこやかな微笑みで手を差し出していた。

 けれど秋葉はその手を振り払い、捨てられた叶冬の正装である黒い着物を拾った。叶冬は一度も袖を通していない。羽織るだけだ。それにはどんな意味があるのだろう。

 秋葉は叶冬の着物を羽織った。それは八重子のような整った着こなしには程遠い。


「やり方を教えて下さい」

「いいねえ。なっちゃんの次くらいに面白い」


 くくくっと八重子は静かに笑った。今までも激しく笑っていたけれど、心底楽しそうに笑った。

 秋葉はセキュリティカードを受け取った。そして葬儀場へと戻り、水槽の足元にそれを差し込んだ。それはとても簡単な作業だった。

 夏生は水槽と金魚鉢をケーブルで繋ぎ、よし、と頷いた。


「スイッチはその床。パネルを踏むだけだよ。水槽と金魚鉢は連動するから」

「……はい」


 そこはさっき八重子が立っていた場所だ。

 床を踏むだけで葬儀システムが動くのならば、大仰に手を広げて弔いだなどと叫んでいたけれどあれは単なる演出だったのだ。

 何の意味もなかったのだ。


「さあさあアキちゃん。踏んでおしまい」


 これは何でもないことだ。これが日常だ。この無機質な時間が金魚屋の日常なのだ。

 秋葉はほんの少しだけつま先に力を込めた。

 何の音もしなかったけれど、わずかに凹んだのが分かった。

 そしてさっきと同じ様に水が渦を巻き始めた。


ぐるぐる


ぐるぐる


ぐるぐる


ぐるぐる


ぐるぐる


ぐるぐる


 渦を見つめていると、自分も回っているような気になってくる。気のせいだろう。

 けれどその時、叶冬が抱き留めてくれているのに気が付いた。倒れたようだった。そういえば身体から力が抜けていく。

 何かが奪われていく。

 この渦が奪っていく。

 数秒して渦はぴたりと止まった。同時に秋葉の身体の揺れも収まり、やけにすっきりとした気分になっていた。


「さあ、終わったよ。これで無事アキちゃんに憑いている金魚は弔われた」


 八重子が何か言っている。聴こえてはいるけれど頭には入ってこなかった。

 ただこの女が言葉を発しているという現実だけが、春陽がここにいたという証に思えた。

 ぱたりと秋葉の目から涙が落ちた。


「安心おし。春は夏を迎えて秋になり、そして冬へと移ろうのさ」


 金魚屋の女が何か言っていた。

 もう少し何か喋っていて欲しかったのに、それで終わりとばかりに微笑んでいた。

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