第十七話 輪廻(二)

 ぼんやりしたまま叶冬に支えらて喫茶店の椅子に座った。

 夏生が淹れてくれたコーヒーを飲むと、それはとても馴染みのある味がして意識が次第に鮮明になっていく。


「じゃあ次は叶冬君の番だね」

「何から説明するのが良いだろうねえ」


 ううん、と八重子はコーヒーの粉が島になっているお湯をぐびりと飲み干した。


「僕のことはどの程度覚えてる?」

「金魚屋に迎え入れられたことと、追い出されたことだけだ」

「ああ違う違うぜ~んぜん違う」

「何がだ」

「迎え入れてなんかない。勝手に来たのさ。僕らは金魚帖に記載のない金魚を呼んだりしない」


 ん、と秋葉は八重子の言葉に引っかかりを覚えた。

 金魚を呼んだりしない、と言うのはどういうことか。


「待って下さい。これ店長の話ですよね」

「そうだあよ」

「でも今、勝手に来た金魚って言いませんでした?」

「そうだよ。かなちゃんは金魚だったのさ」

「金魚……だった?」


 金魚はなろうとしてなれるものではない。それは悪夢にうなされるほどの恐怖で、思い出したくもない。

 けれど叶冬は否定もせず、ただ八重子を睨んでいる。


「ふふ。当時のことを教えてあげたらどうだい、かなちゃん。もう思い出しただろう?」


 聞きたい。けれど叶冬はぐっと唇を噛み俯いた。

 説明したくないのは明らかで、聞いてはいけないような気になってしまう。


(けど俺も何も分からないままじゃ……)


 何か起きた時に何の対処もできない。

 金魚屋の彼らが完全に味方かというとそうとも言い切れないものを感じる。どうしたらいいかと悩んでいると、ゆっくりと叶冬は口を開いた。


「俺は一度死んだ」

「えっ」

「正しくは肉体が死にかけて、それで魂が金魚になってしまったんだ」


 叶冬は冷静だった。もうどれほど思い出しているのだろうか。もしかしたら全てだろうか。

 けれどこれは秋葉も思っていたことだった。叶冬の言っていることはまるで自分が金魚の中にいたようだったからだ。


『鮮明に覚えているのはたくさんの金魚が泳いでいる景色。三百六十度めいっぱい金魚がたくさんいるんだ』


 三百六十度に金魚が泳いでるなんて、それは自分もその中にいないとありえない。

 それに外から見ていたなら覚えているのは金魚ではなく巨大な水槽の方だろう。今入って水槽に圧倒されたが、自分がその中に入った気分にはならなかった。

 叶冬は水槽の中にいたのだ。


「……あれは高校生の頃の話だ」


 叶冬はゆっくり、ゆっくりと過去を語り始めた。


*


 叶冬はひやりとした空気に身を震わせて目を覚ました。

 周りはぐるりと巨大な水槽に囲まれていて、その中では数多の金魚が泳いでいる。差し込む光を跳ね返す様はまるでルビーのようだった。

 その眩さに魅了され手を伸ばす。いや、伸ばそうとしたけれど何も動かない。


(何だ? 身体が動かない。声も出ない……)


 立ち上がろうとしたけれどやはり脚が動く気配は無い。その代わり動いた物があった。

 景色がすうっと視界の下に落ちていった。まるで建物全体がエスカレーターで階下に移ったように見えたが、そうではなかった。

 建物が沈んだのではなく、叶冬が浮いたのだ。


(俺飛んでる……)


 一体何なんだと辺りを見渡すと、水槽のガラスに何かが映っていた。

 そこに映るのは位置的にも自分の姿のはずだが、しかし映っているのは人間ではない。


(……金魚? 金魚だよなこれ。え? 俺金魚になってんの?)


 事態が呑み込めず、叶冬はくるくると旋回した。一体自分に何があったのか、叶冬は記憶の糸を手繰り寄せた。


 叶冬には真野雪人という幼馴染がいた。

 家が隣同士で名前も似ていて、性別も生まれた日も血液型も同じでまるで双子のような存在だった。いつも二人一緒で、冬は近所の雪祭りに出かけるのが恒例だった。当然叶冬は今年もそのつもりでいた。


「ゆき! 雪人! 来月の雪祭りさ」

「ごめん。もうかなとは行かない」

「え? 何で?」

「……金貸せないから」

「は?」


 叶冬の家は裕福ではない。父は働かずに遊び惚けていつの間にかいなくなり、母が働いているが高校三年生には通わせてあげられないかもしれないと言われた。

 それはやはり悲しくて、きっと笑われて恥ずかしい思いをするだろう事も想像がついて辛かった。

 それでも叶冬が笑っていられたのは雪人がいたからだ。雪人がいればそれだけで楽しくて、ただ雪人が好きなだけだった。


「……俺が金せびると思ってんの……?」

「いや……」

「いやって何だよ! そういう事だろ! 何だよそれ! 俺そんなの言った事ないだろ!」

「放せよっ!」


 雪人は叶冬の手を叩いて突き飛ばし家に逃げて行った。

 急にどうして、と涙をこらえられないまま家へ帰ったけれどその理由はすぐに分かった。叶冬の母が雪人の母に十数万円という大金を借りていたのだ。

 その翌日、叶冬は高校を辞めた。雪人と同じ場所に通うのも雪人の家に借金をしているのも恥ずかしかった。

 せめて母の借りたお金だけは返そうと思い働いて、ようやく溜まったバイト代から二万円を持って頭を下げた。少しずつでも返すと詫びたけれど、雪人の母は返さなくて良いから雪人には近付かないでくれと言い追い返されてしまったのだ。

 返さなくて良いと聞いた母は大喜びで、それを見ると叶冬はため息も出なかった。

 朝から晩まで働いても急に金が溜まるわけじゃないし、働き続けなければいけない事には変わらない。

 そして叶冬が稼ぐようになればなるほど母は自堕落になり、気が付けば父と同じく仕事をしなくなっていた。


(……俺何のために生きてんだろ……)


 叶冬は駅のホームから地下へ降りる長い階段をぼんやりと見て、気が付けば階段の無い場所に脚を伸ばしていた。


 その後のことはあまり覚えていないが、かくんと膝が折れて転がったところまでは覚えている。


(そうだ。階段から落ちたんだ。やっと死ねたって思った……のに……)


 もう一度水槽に移った自分を見ると確かに人間ではなくなっていたが、金魚になりたいと願った記憶も無い。

 何を考えたらいいのかも分からずホバリングしていると、コツンと軽やかな足音がした。


「その様子じゃ知らなかったようだね。未練を持って死んだ魂は金魚になるんだよ」


 声の主を振り返ると、そこには着物姿の女が立っていた。おっとりした上品な顔立ちで、叶冬が見たどの女性よりも美しかった。週の半分を同じ服のまま布団の上で過ごす叶冬の母と同じ性別とは思えない。

 あまりの美貌に釘付けになったが、それよりも気になったのは女の大きさだ。とても普通の人間の大きさじゃない。目を左右にぐりぐり動かさないと視界に収める事ができないほど大きい。


(違う。俺が小さいんだ。俺が金魚だから……)


 混乱する叶冬を他所に、女はにこりと微笑んで両手を広げた。


「ようこそ金魚屋へ。君が来るのを待っていたよ」

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