第十六話 金魚屋の八重子(三)

 夏生がそんな危ないことを仕掛けてくるとは思えなかった。

 けれど叶冬は、外に飛び出せるよう心積もりをしているんだよ、と逃げる姿勢を整えるよう繰り返していた。

 叶冬は扉前に立ち、扉を背にするのではなく扉を向くようにと言った。何かあった時すぐに逃げられるようにということだろう。

 夏生の方から追ってこれるのなら逃げる意味はないかもしれないが、それでも叶冬は秋葉を逃がせるような体勢を崩さない。

 秋葉がぎゅっと叶冬に掴まると、夏生は微笑ましいものを見るように微笑んだ。それはまるで秋葉達を大切なものだと思ってくれているようにも見えた。

 一方の八重子は秋葉と叶冬のことなど気にもせず、どこに持っていたのかノートパソコンを立ち上げ何かを打ち込んでいる。魂だの空飛ぶ金魚だのという不可思議な物に囲まれているくせに、タッチタイピングでキーボードを叩く速度はかなり早い。

 見た目のイメージでは一本指で目的のキーを探して回りそうなのに、慣れた手つきでカードを挿入したりUSBメモリを取り換えたりしている。ケーブルをノートパソコンに挿し、その反対側を何処へ挿すのかと思ったら、なんと水槽の足元にカチリとはめ込んだ。そこにはカードスロットもあり、カシュッと一枚のカードを差し込んだ。

 カードにUSBにケーブル、それはあの金魚鉢を思い出させた。叶冬も同じことを思ったのか、ぎゅっと強く秋葉を抱え込んだ。


「さあ、金魚の弔いだ」


 八重子は両手を広げて天を仰いだ。それを合図にごおおと地響きがして、抱きかかえてくれている叶冬の腕にさらに力が込められた。

 夏生は好きですねそれ、と呆れたように笑っている。まるでなんでもないことのように。

 そして八重子がちらりとこちらを見てにたりと笑い水槽を指差した。

 ――見ておいで。

 言葉にはしなかったけれどそう言っているのが分かった。じっとケーブルの差し込まれた水槽を見つめていると、次第に水が渦を巻き始めた。


ぐるぐる


ぐるぐる


ぐるぐる


ぐるぐる


ぐるぐる


ぐるぐる


「これは……」

「そうだ。君が一度経験したことだよ、かなちゃん」

「経験って――うわっ!」

「秋葉!」


 秋葉は何かに足を引っ張られ、がくんと膝が折れてしまい床に倒れ込んだ。

 ガシャンと何かが落ちて壊れたような音がして、叶冬は慌てて抱きかかえてくれたがそれでも何かに足が引っ張られる。必死に叶冬にしがみ付いていると、次第に地鳴りは収まり秋葉の身体もふっと軽くなった。


「大丈夫か!?」

「は、はい。もう平気です。今のは……」

「近くにいると巻き込まれるんだよ。二人とも弔われるべき魂を持っているからね」

「二人? 店長もですか?」

「かなちゃんは特殊の特殊なのだ。まあ後で説明してあげるよ。それよりほら、見てごらん」


 八重子が指差したのは水槽だ。そこには大量の金魚が泳いでいた。泳いでいたはずだった。


「消えた!?」

「弔ったのさ」

「昇天したってことですか?」

「弔ったんだよ」

「でもあなた何もしてないじゃないですか」

「したよ。葬儀システムのロックを解除してスイッチをオンにするという大いなる仕事をね」

「システム?」

「そうさ。金魚の弔いは情もなくこのシステムで自動的に処理されるのさ」


 八重子はぺちぺちと水槽を叩いた。

 水槽の足元にはLEDランプがついていて、カードを抜けというかのように赤いランプが点滅している。


「……あの、何かこう、八重子さんに特殊な力があるとかではなく?」

「ないよ。僕の仕事はセキュリティカードの管理とパソコンとシステムのパスワードを定期的に変更することさ」

「本当は金魚すくいもだけどね。それは俺がやってるから八重子さんの仕事はそれだけ」


 ――なんだそれは。

 何かがおきるのだろうとは思っていた。だがそれはきっと魔法のような超常現象を想像していた。それがまさかこんな機械仕掛けであっさりと終わってしまうとは思ってもいなかった。

 きっと叶冬もそうだろうと見上げたが、叶冬は驚いた様子が無い。


「そうか。金魚鉢はこれのモバイル端末か」

「お! 正解!」

「何ですかそれ。どういうことですか」


 分かんないよね、と夏生は笑って後ろの戸棚を開けた。そこにはずらりと金魚鉢が並んでいる。とても大きくて、それは叶冬の金魚鉢とそっくりだった。


「秋葉君さ、叶冬君の金魚鉢使ったでしょ。倒れなかった? 気分が良くなったり」

「……しました」

「それは水瀬渚沙の魂が少しだけ弔われたんだよ。金魚鉢は持ち運び式の葬儀システム。一匹単位でしかできないけど弔うことができるんだ」


 あの時、秋葉は体から何かが奪われたような感覚があった。それが水瀬渚沙の魂だったのだ。


「実感ない? まあそれでいいよ。どうせ金魚屋を出たら全て忘れるからね」

「この出来事を全てですか?」

「そうだよ。金魚のことも金魚屋のことも全て忘れる」

「……そうか。それで鹿目浩輔は記憶が途切れてるのか」


 鹿目浩輔は夏生の部屋に泊った時に倒れたと言っていた。

 きっとその時に金魚屋へ招かれ葬儀をし、そして帰ったのだろう。おそらく彼にも金魚が憑いていて、夏生はそれを助けたのだ。


「ではやるよ。アキちゃんは金魚鉢を持ってそこに立つがいい」

「これで俺を弔うんですか?」

「水瀬渚沙と石動春陽をだよ。水槽に入ってない金魚は外部からアクセスできる金魚鉢じゃないと弔えない」

「春陽! そうだ! 春陽はどうなるんですか! まだいるんですよね!?」

「どうって、そりゃあ昇天するよ」

「け、けど、そんな……」

「可哀そうかい?」

「だって……」


 ほんのわずかしか生きることのできなかった弟。秋葉はその顔も声も知らない。本当に存在した証を、何一つ秋葉は見たことが無い。両親の想像に過ぎないのではないかとすら思うこともあった。

 けれどそんな言葉を交わしたことのない兄を守り続けてくれていた。

 それをこんな機械ひとつで消されてしまうなんて、秋葉は悔しくてたまらなかった。

 嫌だ、そう言おうとしたが、それをかき消すようにガチャンと大きな音がした。どこかでガラスが割れているようだ。


「しまった。逃げたね」

「また放置しましたね」

「面倒なんだあよ。君らちょいちょいと待っていておくれよ」


 ああいやだ、と八重子は声に出してため息を吐きながら夏生と弟を引き連れてどこかへ向かった。

 秋葉と叶冬は顔を見合わせ頷いて、八重子たちの後を追った。

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