第十六話 金魚屋の八重子(二)

 ぞくりと背に寒気が走った。にやにやと笑う八重子はやけに恐ろしく感じて、がくがくと足が震え出した。

 このまま倒れてしまいそうだったが、叶冬が抱き留め庇ってくれる。


「秋葉に触るな」

「別に取って食ったりしないさ。それは君が一番よく分かっているだろう」

「だとしても触るな」


 くくっと八重子は笑った。


「ここから先は僕が案内しよう。店長の仕事だ」


 八重子は叶冬が羽織っている着物を乱暴にはぎとるとぽいと捨てた。捨てられたそれはまるで八重子の上質な着物の偽物のようだった。

 八重子は席を立つと、奥にある扉へ手を掛けた。そこには『葬儀場』とプレートが貼られている。

 これからやるのが金魚を弔う儀式のようなものだとしたら、そこはまさしく葬儀場だ。


「さあさあ歩け歩けぇ」


 この先にどんな恐ろしいものが待ち構えているかと秋葉は身構えたが、一歩踏み込み歩き始めたそこは何の変哲もない廊下だった。少しばかりひやりと空気が冷たくて、ふいに叶冬の金魚屋が思い出された。

 八重子ふんふんと歌にもなっていない歌を口ずさみながら八重子はスキップしていたが、突然何かが秋葉の足元をひゅんとすり抜け八重子にくっついた。

 それは少年だった。十歳くらいだろうか。幼いながらに端正な顔立ちをしていて八重子によく似ている。


「おお、どうした。稔。甘えん坊の寂しん坊かい」

「弟さんですか?」

「そうだよ。可愛いだろう。可愛くてたまらないだろう」


 八重子はひょいと弟を抱き上げた。可愛い可愛いと頬ずりをしている姿は金魚屋などという肩書などもたないただの姉だった。

 八重子が姉の顔をしたのは意外だったが、それ以上に血縁がここの不思議な店にも存在するということに驚いた。夏生はその素性からしても他人であろうことは想像できた。何らかの理由でここにいるだけなのだろう。

 一体どういう店なんだと首を傾げていると、八重子がさあ着いた、と大きな扉の前に立った。従者のように夏生が前に出て扉を開く。

 するとそこにあったのは真夏の空のように真っ青な一面の水でできた壁と、その中でルビーのように赤く輝くものがあった。

 金魚だ。数多の金魚が輝きを放ちながら泳いでいる。


「水槽だ。壁が一面」

「これが金魚屋の弔うべき魂たちさ。一番右側の水槽にいるのは富が沼の金魚だ」

「あのモールの塊!?」

「うん。俺が回収したんだ。回収ってのも味気ないから救うと掬うを掛けて金魚すくいって呼んでる。どう?」

「そんな余計な洒落っ気は出さんでよろしいっつってんのにぃ」


 金魚すくいと聞いて、神威が見せてくれた動画を思い出した。

 たしかあの動画の中で『今日こそ金魚すくいに行かないと。結構な数飛んでるんだよ、あそこ』と言っていた。ではあのころから夏生はこの仕事をしているということだ。


「もしかして少しずつ連れてくるんですか?」

「そうだよ。何しろ金魚帖と照らし合わせながらだから大変でさ」

「それでか……」


 富が沼の金魚の塊は見るたびに小さくなっていた。そして動画に映っていた夏生は何か数えるようにしていたが、あれは金魚すくい中だったのだ。

 それに夏生は『御縁神社付近の地区担当の金魚屋店主が出張中』と言っていた。それに『金魚帖には回収すべき金魚が出てくる』というのは、金魚帖に沿って金魚すくいをする人間が他にもいるということではないだろうか。


「そっか。じゃあ別に僕が金魚に何かしたから消えちゃったわけじゃないんだ。よかった」

「よかった? なんでだい? 別にアキちゃんには関係無いだろうが」

「そうですけど。でも魂を無意識に消してたなら申し訳ないなと思って」

「っへぇ~! アキちゃんは優しい子だあね!」

「そ、そうですか? 普通そう思いませんか」

「思わないよぉ。思うはずがない。だって金魚屋は弔うだけで金魚に情は持たないものさ」

「秋葉君は金魚屋じゃないですよ」

「ああいえばこういう。なっちゃんは本当にうるさい」

「そうは言っても俺は生者寄りですし」


 生者寄りというのはどういう意味だろうか。そもそもこの少年は宮村夏生本人なのだろうか。どうみても四十五歳ではない。

 それに叶冬も一目で八重子を記憶にある女性だと断定したが、もし出会ったのが自殺未遂の時だとしたら、それも二十年近く昔の話だ。

 八重子は若く見積もっても二十代前半だ。当時もこの姿でそこから二十年ともなれば八重子も四十を過ぎている可能性がある。若作りですむ容姿ではない。

 じいっと二人を見つめていると、それに気づいた夏生がクスッと笑った。


「金魚屋の中は時が緩やかなんだ。生者とは刻む時が違う。俺は大学の時に金魚屋に入ったからそこで止まってる」

「大学!?」

「そうだよ。大学一年だったかな。二年かな。そのくらいだよ」

「まさか……」

「信じられない? でも本当だよ」


 信じられない。どうみても、どうみても夏生は――


「……高校生ではなくて?」

「は?」

「いえ。微妙に幼いからてっきり高校生くらいかと」

「は!?」

「あっはっは! ひゃーははははは!」

「八重子さん!」

「なっちゃんは子供みたいな顔をしてるけどれっきとした成人さ! あはははは! あーははは!」

「そんなに笑うことじゃないでしょう! 童顔なだけですよ!」

「じゃあ同じくらいかあ。絶対高校生だと思った」

「ひーひひひっ! ひゃははは!」


 夏生は顔を真っ赤にして怒り、八重子はじたばたと暴れながら笑い転げた。

 秋葉もつられて笑ってしまったが、隣の叶冬は無言のまま八重子を睨みつけていた。決して笑っていられる状況ではないのは秋葉も分かっているが、この妙に人間っぽい二人を見ていると金魚なんていうものは夢のように感じてしまっている。

 けれど叶冬にとっては消えた己の記憶と幼馴染の行方が隠されているのだ。とても笑う気分にはなれないだろう。秋葉はきゅっと口を結んで俯いた。


「なんだいなんだい。二人して暗い顔をして」

「さっさと進めろ」

「おお、怖い。あんなに可愛かったのにねえ」

「ごめんごめん。そうだね。金魚の弔いを始めようか」

「あの、それって何をどうするんですか?」

「これは見た方が早いよ。まずはその水槽分をやるから見てて。八重子さん」

「へぇ~いへいっ」

「秋葉君と叶冬君はどっかに掴まって。引っ張られるから」

「え? は、はい」


 どっかと言われても、とあたりをきょろきょろしていると、叶冬が後ろから抱きしめるようにして秋葉を自分の身体に固定し、自分は扉の取っ手に手を掛けている。


「妙なことが起きたらすぐに外へ出るんだよ」

「は、はい」

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