第十五話 宮村夏生との遭遇(二)

 秋葉は目の前の光景を受け入れられずにいた。

 金魚を見続けて二十年の間に、金魚を意のままに操れたりしないだろうかと試してみたことがあった。喋れたりしないのかと会話を試みたこともある。

 けれど何度やってもそれは敵わなくて、だから金魚は交流が図れないものだと思ったのだ。

 それを宮村夏生と名乗る少年は、おいで、と声をかけて呼び寄せている。金魚もくるくると夏生の周辺を泳ぎまわり、まるで懐いているようにすら見える。

 馬鹿な、と秋葉は思わず口に出すと、夏生はああ、とそれに気づいてにこりと笑った。


「この子は特別なんだよ。普通の金魚とは少し違うんだ。イレギュラーってやつだよ。君たちみたいにね」

「イレギュラーだと? 何がだ。どういう意味だ」

「そう睨まないでよ。実は今回は二重のイレギュラーなんだ。まず秋葉君」

 ぴっと指を指され、秋葉はびくりと身体を揺らした。

「君は金魚屋で処置が必要なんだけど、御縁神社付近の地区担当の金魚屋店主が出張中でさ。だから秋葉君も放置になっちゃったんだ」

「処置? 出張?」

「で、別件で八重子さんは叶冬君に用があるから探してたんだよ。そしたら君ら一緒にいたから、ついでに秋葉君もうちで処置しようってことになったんだ。本来は別々なんだ、君らは」


 夏生はやれやれと溜め息を吐いたが、秋葉と叶冬には何を言っているのか分からなかった。

 顔を見合わせ首を傾げたが、ここからどうしたらいいのか秋葉には見当もつかない。焦る一方で、つうっと冷や汗が流れた。


「八重子さんの手違いで叶冬君には色々迷惑をかけてしまったんだ。中途半端に記憶が残ってるだろう?」

「……お前は何を知ってる」

「又聞きでしか知らない。まあここで説明しても埒が明かないし、二人とも付いて来てくれる?」


 どこに、と聞こうとしたけれど、叶冬ががしっと肩を掴んできた。

 その表情はとても真剣そのもので、いつものような余裕は感じられない。


「アキちゃんは帰った方が良い。何があるか分からない」

「いえ、行きます。俺に用があるならまた来るでしょうし。それに一人で襲われるほうがよっぽど怖いです」

「……絶対に僕の傍を離れてはいけないよ」

「はい」


 本音を言うと、秋葉は叶冬が何かしらの犯人なのではないかと疑っていた。叶冬の言動はあまりにも不自然な点が多かったからだ。

 けれどこの様子を見る限り、本当に何も知らず金魚屋を追いかけているだけなのかもしれない。

 ごくりと息を呑むと、あ、と夏生は手を叩いた。


「行く前にちょっと待って。金魚すくいの最中なんだ」

「金魚すくい?」

「そう。こうやって弔う子を連れて行くんだよ」

「弔う……?」


 夏生は手に持っていた真っ赤なノートを広げた。表紙には金で『金魚帖』と型押しされている。

 広げたページを指で追いながら群がっている金魚を見ては、はいOK、はいOK、お前はまた今度、と何やら仕分けをしているようだった。


「何してるんだい、あいつ」

「金魚を数えてます。あのノートと照らし合わせてるみたいです」


 金魚が見えない叶冬には何をしているのか分からないのだろう。だが秋葉の目には確実に仕分けしているように見えた。それがどんな基準で行われているのかは分からないが、目的が『弔う』ということであれば、まさかこの金魚を消してしまおうというのだろうか。

 ふいに秋葉は金魚鉢を思い出した。あれは金魚を消す装置だと叶冬は言っていた。

 ではあの金魚鉢は――


「お待たせ。じゃあ行こうか」


 夏生が金魚帖をパタンと閉じた音で思考の渦に引き戻された。

 付いて行っていいか迷ったが、夏生はこちらの考えなど無視してすたすたと歩きだした。叶冬を見上げると憎々しげに夏生を睨んでいる。

 たった一人の子供に対してこんなに大人げない顔をするのは初めてで、秋葉はいつも叶冬がしてくれていたようにぽんぽんと背を叩いた。


「とりあえず付いて行きましょう。八重子という人に会えるかもしれない」

「……ああ。そうだね」


 叶冬のようににこりと笑ってみせると、叶冬は少しだけ苦しそうにしていたけれど小さく頷いてくれた。

 夏生はそのまま歩き続けた。仕分けをしてOKとした数多の金魚だけを率いて、十分、ニ十分、三十分――……かれこれ一時間が経過しようとしたころには市街地も居住区も抜けて、やけに木々の多い場所へと足を踏み込んでいた。あたりには人間どころか金魚一匹おらず、やけに静まり返っている。


「どこまで行くんでしょう」

「かなり歩いたね。でも通話は圏内だよ」

「そりゃまだ敷地内じゃないからね」

「金魚屋に入ったら繋がらなくなるのか」

「うん。こことそっちを繋げる物は使えなくなるんだ」

「金魚屋とそっちってどういうことですか」

「そのままの意味だよ。けど俺も仕組みは分からないんだ。元々そっちの人間だし」

「え?」

「さあ着いた」


 そっちの人間とはどういうことなんだ。そう聞こうとしたけれど、夏生はあそこだよ、と指差した。

 そこには「Cafe Chat Noir」という看板の掲げられた喫茶店があった。黒板にランチメニューが書かれていて、そこには黒猫も描かれている。

 黒猫がキャラクターの喫茶店。それは叶冬の黒猫喫茶を思い出さずにはいられない。


「叶冬君は黒猫喫茶だっけ。それも記憶を頼りに付けたんだろ? 凄いね。そこまで覚えてたのは君が初めてだよ」

「他にも僕のような人間がいるのか」

「いないよ。叶冬君みたいにこことそっちを繋げる物を持ってる人間はいないから」

「店長みたいに?」

「俺が何を――……」


 はっと叶冬は息を呑んだ。

 叶冬だけが持ってる金魚屋と叶冬を繋げる物。そのヒントだけで気付くには十分だ。


「あの金魚鉢はお前の物か」

「違う。この店の備品だよ」


 夏生はクスクスと笑って看板を指差した。指差した先はCafe Chat Noirの看板だ。

 Cafe Chat Noirの看板のはずだった。


「え!?」

「これは……!」


 そこには既にCafe Chat Noirの看板は無かった。

 掲げられているのは木製の古めかしい看板だった。筆を用いたような達筆な黒文字で『金魚屋』と彫られている。


「ここだ! そう、そうだ、ここだ。俺はここに来た! 俺はここを追い出されたんだ……!」

「追い出された?」


 明らかに様子がおかしい叶冬を抑えるように抱きしめたが、叶冬はここだ、と金魚屋の看板を睨みつけている。

 夏生はパンパンっと手を叩いた。


「はいはい。それ以上は中で話そう。ややこしいから」


 夏生は扉に手を掛けた。


「さあどうぞ」


 金魚屋の扉が開かれた。

 キイッと音を立て、ゆっくりと、ゆっくりと夏生は扉を開いていった。けれど――


「遅おおおおおおい!」

「ぎゃっ」

「遅い遅い遅おおおい! たかだか金魚百匹連れてくるのに何百日かかってるんだあ!」


 バアンっと音を立てて扉が開かれた。内側からだ。夏生が開けたのではなく内側から開け放たれたのだ。

 演技じみた口調で喋る黒い着物の女に。

 ――このひとは。

 女はおっとりした印象の顔立ちをしていた。顔だけ見れば上品なお嬢様のようだ。けれど人間味を感じないほど肌は陶器のように白く、唯一薄桜色の唇が温かみを演出していた。

 この世のものではない美しさというのはこういうことをいうのだろう。紫音も綺麗な顔をしているが、この女はまるで人では無いような無機質さがあった。

 着ている黒い着物は大きな花柄で、叶冬が羽織っている着物とよく似ている。

 叶冬はぶるぶると叶冬が震えていた。この女、と目を血走らせている。落ち着いて、と抱き留めるが叶冬には聴こえていないようだった。

 けれど黒い着物の女も夏生もまったく気にしていないようで、のん気にお喋りをし始めた。


「出てからまだ三時間ですよ。往復二時間だから実質一時間です」

「一日千秋の想いで君を待っていたのだよ」

「はいはい。それよりお連れしましたよ、八重子さんの被害者」


 ちろりと夏生が振り向いた。秋葉を見てにっこりと笑ったけれど、黒い着物の女は目をぐりんとひん剥いて叶冬に飛びついてきた。


「やあやあかなちゃん! 久しぶりだあね!」

「お前……!」

「全く。君は最初から最後までイレギュラーだ。なっちゃんの上を行くイレギュラーだ」

「俺はともかく彼がイレギュラーになったのは八重子さんのせいですよ。自然発生したイレギュラーは秋葉君だけです」

「自然発生?」


 叶冬は夏生と黒い着物の女を敵だと判断したのか、下がって、と秋葉を背に隠した。

 けれど夏生はそれを見ても、まあ分かる、と大きく頷き、黒い着物の女はあっはっは、と普段の叶冬と同じような笑い方をした。


「ふふ。存分に警戒するといい。どうせ忘れてしまうのだから」

「忘れる……?」


 黒い着物の女はにたりと笑った。一歩店内に入ると、すうっと手を伸ばしてくる。


「ようこそ金魚屋へ。君が来るのを待っていたよ」


 それはまるで、屋台で初めて出会った叶冬のようだった。

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