第十二話 誰かの金魚鉢(二)

 ――このふかふか加減は寝室のベッドだろうか。

 秋葉が目を開けると、目の前には叶冬と紫音の顔があった。

 叶冬はいつになく不安そうな顔をして、紫音は涙を浮かべている。二人ともアキちゃん大丈夫、僕が私が分かるか、と叫んでいるのがぼんやり聞こえる。

 なんてそっくりな兄妹なんだと笑いが零れた。


「何を笑ってるんだい! 意識は正常かい!?」

「大丈夫です。というか、むしろ気分爽快になった気がする」

「んえぇ?」


 過去にも倒れた経験はある。それこそ金魚の悪夢とワンセットだったり、いわゆる貧血だったり。どちらにせよ目覚めは悪く気分も体調も悪いものだ。

 けれど今は違う。気分は晴れやかで身体も軽い。とても倒れたとは思えないほど気分が良かった。


「でも倒れたのよ。アキちゃんも回転恐怖症?」

「違うけど。でも凄く気分良いよ」

「ちなみに倒れる前に話していたことは覚えてるかい?」

「雪人さんの持ってた金魚鉢が突然現れたって話ですか?」

「僕の昔の苗字は?」

「藤堂」

「僕の傷跡はどうしてできた?」

「……自殺未遂」


 急な質問攻めに秋葉はたじろいだが、こんな衝撃的な話を忘れるはずがない。

 けれど叶冬は眉をしかめてううんと唸った。


「あの、何ですか?」

「覚えてるならいいんだ。でも絶対金魚鉢のせいだよねえ」

「何か特殊な作用があるんですか?」

「僕が知る限りでは無い。でも分厚い説明書があったような気がするんだ。分かんないけど持ってないけど。説明するだけの何かはあるんだと思う」

「え。市販されてるんですか、あの金魚鉢」

「違うと思うよ。でもそんな気がするんだ。マニュアルというのがあった気がする」

「マニュアルですか……」


 秋葉は叶冬の言うことを信じていいのか迷っていた。言うことがどれも『分からないけどそんな気がする』という曖昧なものばかりだからだ。

 けれど本人も真剣な顔で悩んでいて、故意に嘘をついているようには見えなかった。

 となると、やはり記憶喪失ではあるが印象深いポイントだけを覚えているのかもしれない。


「どこで見たのかは覚えてませんか?」

「全く。でもなんとなくだけど、僕はあの金魚鉢に記憶を奪われてしまったような気がしているんだよ」

「奪われた……」


 その表現はとても正しいように感じた。秋葉も今さっき、それと同じ感想を持ったからだ。

 奪われたものが何かは分からないが、何かが無くなったような喪失感がある。まるで秋葉の中に存在した悪いものが消えたかのように。


「金魚鉢が何処からきた物なのかは分からない。でももう一つ覚えていることがある」


 叶冬は羽織っていた着物に袖を通した。きちんと前を併せてすっと手を差し伸べてくる。


「ようこそ金魚屋へ。君が来るのを待っていたよ」

「……え?」


 それは金魚すくいの屋台で言われた台詞だ。

 初対面なのに待っていたというのはどういう意味だろうかと不思議に思ったのを覚えている。


「これは僕が誰かにそう言われたんだ。何処で誰に言われたのかは分からない。でも女だった。その女が黒地に花柄の着物で、演技じみた喋り方をしていたんだ」


 叶冬は着物の袖口にそっと唇を寄せた。とても大切な物のように、けれど瞳は憎い相手を指すかのように鋭く光っている。


「これは彼女を忘れないために真似ているんだ。もし僕が記憶を奪われても周囲が覚えているだろう?」

「記憶喪失はその人の仕業ってことですか?」

「と思ってる。だって都合良すぎないかい、記憶喪失なんて」

「都合良いっていうなら金魚鉢があるのは大分都合良いですよね」

「そうなんだ。もしあの女が近付かれるのを良しとせず記憶を奪ったのなら金魚鉢が僕の元にあるのはおかしい」


 だが金魚鉢は元々真野雪人の持ち物だったはずだ。

 となると、真野雪人はその女と関りがあるということになりはしないだろうか。しかも置いて行ったということはその余裕があったということになる。

 であれば真野雪人は自らの意思で手がかりを残し叶冬の元を去ったということではなかろうか。叶冬もそう思っているからその女を忘れてはならないと思っているのではないか。


「店長は金魚じゃなくて雪人さんを探してるんですね」

「ああ。僕は自殺未遂をした時に何かあって金魚屋の女と関わった。僕の近くにいたゆきも巻き込まれて金魚屋の女の元へ行かざるを得なかったんだ」


 それはそうかもしれない。けれど秋葉には分からないことがまだ二つあった。

 一つ目は、叶冬が金魚を死者の魂だと言った理由だ。

 ここまでの話を聞いても、なるほど金魚は魂だとは思わなかった。金魚屋という何者かは存在するとしても叶冬の経験はそこだけだ。金魚についてではない。

 仮に推論だったとしても、まるで確定事項のように叶冬は語る。その確証は何処からきたものなのだろうか。

 もう一つは叶冬の金魚屋だ。あれもおそらく金魚屋という存在を忘れないためなのだろう。しかも金魚屋にある金魚だけの水槽群を、叶冬は記憶だと言っていた。


『はあ。どうして金魚だけなんですか?』

『記憶だからさ』

『……金魚が好きなんですか?』

『いいや。忘れないためさ』

『何をですか?』

『記憶をだよ』


 金魚を見ていた記憶があるという意味なのだろうか。

 それとも金魚に囲まれていた事象が記憶にあるという意味なのだろうか。もしそうなら自分もその中にいたということで、それはまるで――


「そして! そんな時にアキちゃんと会ったのさ!」

「うわっ!」


 がつんと叶冬に抱き着かれ思考を遮られた。

 叶冬はうひひ、と玩具を見つけた子供のように笑っている。


「僕は君が僕を知ってるのかと思ったんだよ。僕の知らない僕を知っているのじゃないかと」

「……すみません。何も知らないです」

「そのようだね。でもおそらくアキちゃんはゆきに関わりがあるんじゃないかと思ってる」

「雪人さんですか? すみません。全く知らないです」

「直接じゃなくて間接的にだ。それを繋ぐのがおそらく金魚」

「そういえば、店長は何で空飛ぶ金魚がいるって思ったんですか?」

「ゆきがそんな風だったからなんだ。何故か分からないけど、ゆきはひどく金魚を気にしていた」

「空飛ぶ金魚がいるって言ってたんですか?」

「それを言ったのは私。かなちゃんが事故に遭って退院したばっかりの頃、ゆきちゃんが『何でここはこんなたくさん金魚が飛んでるんだ』って言ったの」

「それにゆきは歩きながらあちこちをきょろきょろしたり、何もないところで何かを避けるようにしたりしていたんだ。それに、あれは二人で雪祭りに行った時だった。ゆきが『やっぱり金魚すくいはないね』と言った。雪祭りなんだからあるわけないだろうと言ったら空を見上げて『いるのにな』と言ったんだ」


 ――俺と同じだ。

 秋葉はごくりと喉を鳴らした。子供のころは金魚を見ては除けて歩き、それを危ないと注意されたり奇異な目で見られたたりした。

 真野雪人はそれと同じことやっていたのだ。


「でもどうやって探したらいいんですか? その黒い着物の女の金魚屋だって普通のお店とは思えないですよ」

「大丈夫。手がかりにアテがあるんだ」

「金魚屋のですか?」

「正しくは金魚屋を知ってるであろう人物にだ。神威君の言っていたことを覚えてるかい?」

「神威君?」

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