第十話 金魚の見る夢(二)

 風呂を出たら、叶冬は遊びに行こうと旅館を飛び出した。

 様々なプランを考えていたようで、あそこへ行こうこっちの店のこれが美味しいそっちの店を予約してあると、実に手際よく迅速に移動し遊び尽くした。

 金魚の調査が目的だったはずなのだが、パッと見ていないとすぐさま遊びに移る。それに金魚がいないので調べるも何も無い。

 これでは完全に遊びに来ただけで、それで良いのだろうかと考えはしたが叶冬は旅行は遊ぶものだとこれでもかとはしゃいでいる。それにつられて秋葉もすっかり遊ぶだけになり、一日はあっという間に過ぎていった。

 明日帰る前にもう一度部屋の風呂に入ろうと思いながら眠りについたが、日付が変わったばかりの頃に秋葉は夢を見た。

 周りは一面の緑でとても美しい。けれど視界隅に一つだけ赤い何かがひらひらと揺れている。

 ――脚だ。金魚の尾になった自分の脚だ。


「わあああああ!」

「うおおお⁉」


 秋葉は叫んで飛び起きた。布団を引っぺがして脚をさする。

 そこには人間の脚があった。ほっと安堵してため息を吐いたが叶冬は駆けつけ抱きしめるようにして支えてくれた。


「よしよし。怖い夢でも見たのかい」

「……最近夢見が悪くて」

「そうだったのか。よく隈を作ってると思ってたけど、そのせいなのかな」


 叶冬は労わるように目の下を撫でてくれた。

 そんなことに気付いてくれていたのかと、その優しさがじんわりと秋葉の心に広がった。


「現実になったらどうしようって……いつも……」

「嫌な夢は人に言えば現実にならないという。僕で良ければ聞いてあげるよ」

「……笑わないでくれますか」

「もちろんだとも」


 きっとこれが他の誰であっても今までの秋葉なら語らなかっただろう。

 いつまでもずっと一人で抱え、もし本当にその日が来てしまっても人知れず消えていくのだ。

 けれど叶冬はゆっくりでいいよ、と優しく頭を撫でてくれた。


「金魚になるんです。少しずつ。最初はつま先でした。それが足首も侵食して、もうすぐ下半身が全て金魚になるんです……」

「うむ? 夢が連続してるのかい? 今日は下半身、昨日は手、とかじゃなくて」

「続いています。それに……その……えっと……ええと……」

「焦らなくていいよ。ゆっくりでいい。ゆっくりで」


 叶冬はまるで親が子供にするようにぽんぽんと優しく背中を叩いてくれた。

 金魚の話をして両親がこんな風に受け止めてくれたことは一度もない。こんなに安堵できたのは初めてだった。

 ほうっと息を吐いて、顔を隠すように叶冬の肩に額を寄せた。


「俺、具合は悪くないのに突然倒れるんです。前触れが無いから友人も驚いて」

「それは金魚になる夢と関係があるのかい?」

「分かりません。でも倒れるのと夢を見るのはワンセットになってます」

「何かきっかけはあったかい? 夢を見るようになった前後で」

「思い当たることは何も。でも少しずつ頻度は多くなっているんです」


 これは夢だ。倒れるのも病院へ行けば何かしらの診断を得られるだろう。

 けれど異常が無いと言われたら、それはつまりこのまま金魚になるのを待つしかないのだという後押しになる。それも怖くて秋葉はどうすることもできずにいた。

 叶冬は眉間にしわを寄せてしばらく真剣な顔で考え込んで、じいっと秋葉を見つめて来る。


「突拍子も無いこと聞くけど、アキちゃんは急に考えが変わったり、周りと会話がかみ合わなくなることがなかった?」

「……いえ。無いです、別に。倒れてる間は意識ないから覚えてないですけど」

「じゃあ記憶が曖昧になったことは? 何か特別なことが起きた気がするけれど何だかは分からないとか、ちょっとしたことでもいいよ」

「無いです。もし病院に行くとしたら物理的な病気っていうより精神科とかカウンセリングの領域になると思います」

「違うと思うなあ。精神を病んで悪夢を見るなら現時点で恐怖に感じているものが出て来るだろう。でもアキちゃんは金魚と共生してきた。怖いのは金魚じゃなく金魚になる夢の方だ。何かがアキちゃんに影響を与えてるように思える」

「金魚が意図的に見せてるってことですか? そんなことありますかね……」

「だって不特定多数じゃなくアキちゃんだけってことは、金魚がアキちゃんを固有の存在として認識してるんだ。金魚を見れるのは金魚側に特別な意味があるのかもしれない。具体的にはいつから悪夢を見始めたんだい?」

「大学に入ってからです。一年生の終わりから二年生になってから」

「僕に会ってからというわけじゃない? 僕の存在を耳にしたことがあったとか」

「違います。店長のことはお祭りで初めて知りました。会って金魚に変化があったわけでもないですよ」

「他に変わったことは? 大学に入る前後で特別なことは無かった?」

「無いです。実家を出られた開放感はありましたけど」

「家? そういえばよく電話があるよね。厳しいご家族なのかい?」

「ただの監視ですよ。小学生の時に金魚を見るって言っていじめられたんです。母は自分が白い目で見られるのが嫌だから見張ってたいんです。俺のためじゃない」


 吐き捨てるように母の悪口を言うと、叶冬は少しだけ困ったような顔をしてぎゅうっと抱きしめてくれた。

 馬鹿なことを言ったと分かっている。本当は母が心配してくれていることも分かっている。けれど、自分の全てを聞いてくれたのは叶冬が初めてだった。


「このまま寝ておしまい。大丈夫だよ。何か異変が起きたらすぐに起こしてあげる」

「……子供みたいで恥ずかしいです」

「辛い時に大人も子供もないよ。誰かに寄りかかることが恥ずかしいのなら僕は今も子供さ」

「店長は親にこうしてもらったんですか……?」

「さあね。覚えてないな。でも、そうだね。そうだったかもしれないね。さあもうお休み」


 ぽんぽん、ぽんぽん、と叶冬は優しく背を叩いてくれた。

 子供を寝付かせる時にこうするのは何故なのか秋葉は知らなかったけれど、ようやくその意味を知った。

 そして次の瞬間ふと目を開けるともう朝だった。いつの間に寝たのか覚えていないし、今の今まで寝ていたと理解するまでしばし時間を要した。

 目の前には叶冬がいて、抱き抱えられたまま眠ったようだ。


「お、はよう……ございます……」

「おはよう。よく眠れたみたいだね」

「……すみません。大変なご迷惑をおかけしまして……」

「迷惑なものか。頼ってくれて嬉しいよ。ところでアキちゃんは一人暮らしだね」

「え? はあ、そうですけど。突然どうしたんです」


 起きたばかりで意識はどこかぼんやりしていたが、いつもながらの急な話題転換に意識は完全に目を覚ました。


「なら次の更新はせずに僕の部屋に越しておいでよ。部屋はめちゃくそ余ってるんだ」

「めちゃくそ?」

「御縁のマンションだよ。金持ち仕様で無駄に広い」

「そんなとこの家賃払えませんよ」

「いらないよ。その代わり家事全般をやっておくれ。僕は毎日外食で掃除はハウスキーパーを呼ぶんだけど、それをやってくれれば僕の出費が減るから家賃分としてあげよう。どうだい」


 行きたい。

 悩む間もなくそう思った。このまま縋りついてしまいたい。

 けれど理性に手綱を引かれ、さすがにそれはどうだろうと悩んでしまう。


「もし来てくれたら僕の秘密を教えてあげよう。僕は秘密の金魚鉢を持ってるんだ」

「……それって最初に言ってた金魚を消すっていう」

「おやおや! それ以上は駄目だよ。次の契約更新はいつだい?」


 叶冬はくすくすと笑った。

 金魚鉢と聞いてようやく思い出した。叶冬は『金魚を消す金魚鉢』を持っていると言っていたのだ。


「考えておくんだよ。さあ、そろそろチェックアウトの時間だ。行こう」

「はい……」


 いつも金魚になる夢を見た後は眠れなかった。恐ろしくてとても眠れない。

 けれど昨日は不思議なくらいすうっと眠ってしまった。その理由は、まだ分からない。

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