15 覚醒
長い夢を見ているようだった。
どこまでも不明瞭で、曖昧な世界。そこに存在するのは、のっぺりと希薄化された時間と胸の内に宿る使命感のみ。
まさに夢現のようなその場所で、ただ茫然と空を眺めていた。
『あなたが、あたしの――さん?』
『ねえ、見て見てっ。
こんなのも切れるようになったのよっ』
『あたし、村での稽古は辞めるから。
――みたいには絶対になりたくないし』
それからどれだけの時間が流れただろうか?
何か大事なものを失ってしまった気がするが、分からない。虚ろに身を任せ、たった一つの何かを叶えるためだけに日々を費やしてきたから。
際限なく続く、無味乾燥の日々。
しかしある時、その平穏が崩れた。目の前に一人の少女が現れたのだ。
『この村に危機が迫ってる。
新たな妖魔四天王も出てきた。――の命も危ない』
『疑うなら、――の足元を掘りおこしてみるといい。
――はここでずっと自分の魔力を込めていた。地下に眠る――へと』
訳知り顔で、意味不明な言葉をぶつけてくる少女。
魔力を、込める? ああ、そうだ。ずっとそうしてきたんだった。
約束があったから、大事な人と最期に交わした約束が……あれ、でもそれって誰の事だ? 一体、何を約束したんだ?
胸の内に生じた僅かな疑問。
それが不協和音を奏で始める前に、事態は大きく変わった。
『……あたしはあんたが嫌いだった。
ただそこにいるだけで、周りに褒められて、尊重されて。
大体英雄って何よ? そんなに英雄になるのが大事だったわけ? ――より、世界なんかが大事だったわけ?』
別の少女が泣いていた。
だが自分と彼女の関係性が分からない。どうして彼女が涙を流しているのかも理解できない。
透明な何かが、さらさらと零れ落ちていく。
見覚えのある誰かに世話されながら、彼は久しぶりの一人の夜を過ごした。
いつも通りの、何にもならない夜。誰もいない空っぽな世界をぼんやりと見回していると、胸の内に浮かび上がってくるものがあった。
『この戦いであたしが死んだら、この剣を――に渡してほしいの。
それがきっとあの子のためになるから』
あれはそう、何か大きな戦いの前のことだ。
かつての家で、大切だったはずの彼女とそう約束したのだ。だから自身の全てをかなぐり捨て、こうして剣を作ってきた。
これがあの子の為なんだ、そう思い込んで。
『っ。なんでこんな時だけ動くのっ。
本当に――のことを心配しているなら、何よりまずは――の思いに応えてあげるべきっ。
――のためにっていう免罪符で自分の思いを勝手に押し付けるなっ』
『あんたのせいでどれだけ苦労したのか、あんたに分かる?
ねえ、黙ってないで、あたしの――を返して、あたしの普通に返してよっ』
二人の少女の懇願が蘇る。
だが、本当にその行動は正しかったのだろうか。
……いや違う。あの時、あの言葉には続きがあったんじゃないか。
縁起でもないその提案にやきもきする誰かを、彼女はこう笑い飛ばしたんじゃなかったか?
『え、もし剣士にならなかったら?
その時はその時よ、あたしの剣なんて捨てちゃえばいい。子供がどんな道に進もうと全力で手助けをする、それが
ああ。そうだ、そうだったじゃないか。どうして忘れていたんだ。
すまない、イリーナ。俺は……。
淡い後悔が広がっていったその時、脳裏をあの子の涙がよぎった。
『……あんた、英雄なのよね? 世界を救ったのよね?
だったら故郷の危機ぐらい何とかしてみなさいよ。
一度くらい、あたしを助けなさいよっ……
「……ああああああっ。二人そろってこの僕をコケにしやがってっ。
いいだろう、こうなったら全部やめだ。目にもの見せてやるっ。
――来い、フーマっ。この村にいる全員を皆殺しにするんだっ」
気が付けば、屋根の上で二体の妖魔が暴れていた。
巨漢の妖魔が足場の建物を崩し、唸るような咆哮を上げる。突然生まれた暴力の気配に、一気に阿鼻叫喚に包まれる広場。
散り散りになって逃げる村人たちの中で、彼は棒立ちのまま頭上を見上げていた。
皆殺しにする? 誰を、この村にいる全員を?
――そんなの、許されるわけねえだろうがっ。
「うおっ。誰――」
近くで呆然としていた兵士から剣を奪い取り、一気に走り出す。
久しぶりに動いたせいか、体が鉛のように重い。それでも諦めるわけにはいかなかった。助けてくれ、と娘に頼まれたのだから。
目標は一つ。屋根の上、騒動の元凶が立つ場所。
「どいてろ、ベルベロ。何か来る」
「っ、一体何がっっ」
二体の前に降り立ち、剣を構える。
片方を庇うように前に出た巨漢の妖魔が、彼を見て好戦的な笑みを浮かべた。
「がははっ。いいねえ、そういうのを待ってたんだよ。
さあ戦おうぜ、剣聖ディック・カローンっっ」
……。
………。
「な、何であの人が動いてっ」
「俺が知るかよっ。
でもすげえ、あのでけー妖魔と張り合ってるぞっ」
崩壊した建物を背景に、凄まじい攻防を繰り広げる妖魔と英雄ディック。
その周りに円になって集まり、困惑と歓喜を口にする兵士と村人たち。
目の前で起こった一連の出来事に、グスタフは完全に面食らっていた。
何が何だかわからなかった。自称ベルベロの横に現れた妖魔が暴れ始めたことも、廃人状態だったはずのディック・カローンがその妖魔と戦っていることも。
さりとて、どれだけ現実逃避したところで目の前の現実は変わらない。
彼らの戦いを見るに、どうやら動きの素早い妖魔の方に分があるようだった。防御の隙間を掻い潜って放たれる爪撃が、確実にディックの体に傷をつけていく。対するディックも折を見て反撃しているものの、その動きは妖魔のそれよりも明らかに硬く、遅い。このままいけば近いうちにディックは膝をつくだろう。
無理やり頭を切り替えて、近くの兵士に最重要な事柄を投げかけた。
「お主たち、加勢は可能か?」
「い、いえ。私たちでは彼の動きにはついていけませんっ。
足手まといになるだけかと」
「ぬぅ」
勢い良く首を横に振る兵士たちを責めるわけにはいかない。
魔力とはエネルギーの源だ。それを大量に取り込んだもの同士の戦いは自然現象に同じ、並大抵の人間では太刀打ちできない。今も、彼らの戦闘の余波で生まれたに過ぎない風がグスタフの肌をぴりぴりと震わせていた。
だとしたら、彼が時間を稼いでくれているうちに何とかするしかないか。
「し、支部長っ。大変ですっ。見張りの者より報告っ。
大量の妖魔が村に迫ってきたようですっ。獣型妖魔の群れ――その数、数千っ」
「っ……ばか、な」
悪夢のようなその報告に、グスタフは一瞬頭が真っ白になる。
ま、まさかベルベロの三千体の妖魔とかいう言葉は本当だったのかっ?
「迎撃はっ?」
「た、例え私たち全員で防衛に当たったところで不可能ですっ。
せめて同じレベルの人間があと5人はいないと――」
「――支部長、私たちも手伝うのよ」
とその時、栗色の髪をした少女を先頭に、7人の村人たちがグスタフに近づいてきた。どこか物々しい雰囲気を醸し出す少女達だ。
先頭の少女の名前は確かヴェロニカ・ホーレンス。その経歴は――
「元冒険者、だったか?」
「そうなのよ。
数年のブランクはあるかもだけど、足を引っ張らない程度にやれるつもりかしら。
それに私たちは実戦経験者。対妖魔の防衛戦術には覚えがあるのよ」
「おお、それは心強い。
……しかし支部長、今回は流石に敵の数が多すぎます。例え彼女たちの助力があったとしても、恐らく10分と持たないかと」
「ええ。私たちも同じ意見なのよ」
「……で、あろうな」
元々の戦力比が何十倍に近いのだ。数分の猶予を稼げるだけでも上々であろう。
問題はその間に何を出来るか、だ。援軍はどう考えても間に合わない。殲滅など以ての外。だとしたら鍵を握るのは――。
「ベルベロ・ベロッティかっ」
くそ、あやつは一体何者なのだっ。
まさか本当に影の支配者というやつなのか? というか、妖魔を操る笛はどこいった、笛はっ。
狼狽と共にその名前を零す。
彼の目的や正体は未だ分からない。さりとて、あの様子からして彼が妖魔を呼び寄せたとみて間違いないだろう。
だとしたら可能性はある。
彼の突然の激昂により御破算になってしまったとはいえ、一応の話し合う余地はあったのだ。彼と再び対面できれば、何とか交渉できるかもしれない。
だがどうやって問題のベルベロを探す?
どさくさにまぎれ、既に彼はグスタフたちの前から姿を消している。兵士たちの助けなしにこの広大な町の中で彼を見つけるには相当に骨が折れるだろう。グスタフたちギルドの職員が総出で捜索したとしても最低1日はかかる。
それをたった数分で終わらせるなんて不可能に近い。
「グスタフの爺さん、ベルベロの野郎は俺たちに任せてくれ。
妖魔共はともかくベルベロはただの人間なんだ。捕まえるのくらい、俺たちだけでやれるはずだぜ」
「ふむ……なるほど」
そう声を上げる商人のフロッグに、周りにいた村人たちが同調するように頷く。
確かに彼らの力を借りるのは悪くない方法だ。むしろ少ないリソースと時間の中で彼を探すにはそれが最善であろう。
であるならば、制限時間内に村人たちがベルベロを捕縛する可能性に賭けて――と結論を出そうしてグスタフはハタと気付いた。
そうだ、村全体を守ろうとしているからそんな不確実な手を打つしかないのだ。
これがグスタフ含め数人の命を守ろうとするだけなら大きく話は変わってくる。
グスタフの周りを兵士や冒険者などの実力者で固めて強行突破すればいいのだ。勿論それで本当に突破できるか保証はない。だが自身の安全という観点で考えれば、恐らくそれが最善なはず。
何より元々そういう予定だったではないか?
村人たちを見捨てて自分だけは助かろうと考えて、策を巡らせてきたではないか。いまさら何を躊躇する必要がある?
「……支部長、ご指示を」
後ろ暗い思考に走るグスタフに、いつもはおちゃらけている馴染みの職員が真剣な瞳で判断を仰いできた。
村長が、兵士が、元冒険者が、村人たちが固唾を呑んでグスタフの言葉を待っている。出鱈目な噂を信じて、保身のために奔走してきたグスタフの態度を真に受けて。
……かつて、国防大臣時代にそんな視線を向けられたことがあっただろうか?
いや、国のためにと思って色々改革してきた彼の熱意が彼らに伝わったことは一度だってなかった。彼らに浴びせられてきたのはいつだって冷ややかな視線と見当違いなバッシングだった。
それがまさか、逆のことをするだけで、こうも反転するとは……。
……ああ、本当に馬鹿ばっかりじゃのお、民衆は。
口元に柔らかな笑みを浮かべて、グスタフは声を張り上げた。
「兵士と元冒険者は外縁部で妖魔の群れから村を防衛っ。
それ以外の者たちは力を合わせて今回の下手人、ベルベロ・ベロッティを捕縛せよっ。なに、心配はいらん。儂らにとっては此処こそが故郷、部外者のベルベロなどすぐに見つかるであろうよ。
それに武具なら腐るほどあるのだ。好きなだけ持っていくといいっ」
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