8 過去



 実のところ、リズ・カローンの中にかつての家族に関する記憶はほとんどない。

 残っているのは、あの頃は楽しかった気がするなあという曖昧な感情のみ。

 「あなたのお父さんとお母さんは妖魔領で私たちみんなの為に戦っているのよ」と養母に言われても全然ピンと来ていなかった。 

 

 そんな彼女の前に突然父親が現れたのは、人魔大戦が終結した数日後。

 忘れもしない、とある雨の日の事だった。


『いい、リズちゃん。

 ディックさん――リズちゃんのお父さんは、私たちのためにここまで頑張ってくれたんだ。だから絶対に責めちゃいけないよ。

 宝物を扱うように、丁寧にお世話してあげるんだ。いいね?』


 軍の偉い人たちのと共にやってきた彼。

 リズたちの方へと虚ろな視線を向ける彼は、どうやら妖魔との戦闘で自身の妻と正常な心を失ってしまったらしい。一人での生活は困難とのことで、彼はリズの養父母――遠縁の親戚の家で暮らす運びとなった。


『あなたが、あたしのお父さん?』


『ねえ、見て見てっ。

 こんなのも切れるようになったのよっ』


 新たな家族の登場に、最初の方は純粋な興味が勝っていた。

 養父母の家に預けられ、既に3年。とっくに彼らの方が家族になっていたリズにとっては、「本当の父親」というのは未知の、不可思議な存在でしかなかったから。

 ただそれもほんの数日間の出来事。どれだけ話しかけてもただ妻の遺品を眺めているだけの彼に、リズはすぐに興味を別の物に移した。


 その3週間後だった、養父母がいきなり蒸発したのは。

 後に聞いた話によると、彼らは「英雄の親族」という肩書を使って借金を踏み倒しまくっていたようだ。そうして軍の有力者たちから恨みを買い、この国――アルーニャ連邦にいられなくなった彼らは夜逃げした。

 その事件を受け、どうやら国は英雄の末路を極力隠す方針にしたらしい。

 「里帰り」を名目に、彼に所縁がある辺境の地の一画を買い上げて彼と彼女を住まわせ、当時に彼の妻の葬式も済ませた。


 しかし齢6歳のリズにそんな事情が理解できるはずもない。

 見知らぬ大人たちが養父母の家を歩き回るのに憤慨し、彼らの帰りを待っているうちに、母方の故郷――ルルーナ村への転居が決まった。


 やってきたのは、一人として知り合いがいない見知らぬの土地。

 一緒に暮らすのは「本当の父親」というよく分からない存在。


 そうして父と娘の、長い長い二人暮らしが始まった。

 とはいえ別に生活に困るわけではなかった。毎月、使えきれないほどのお金が国から振り込まれていたし、家事や彼の世話はお手伝いさんを雇えばどうとでもなった。


 数週間もすれば、ここでの生活にも随分と慣れてきた。

 周りと違うのは母親がいなくて、何もしない父親がいる。ただそれだけだ。そう切り替えて。


 さりとて、村を歩く親子連れなどを見ると、リズの胸はどうしようもなく苦しくなるのだった。

 どうして自分たちはああじゃないのか、言葉すら交わせないかと。


『もう贅沢言っちゃだめだよ、リズちゃんっ。

 リズちゃんのお父さんは英雄さんなんだからっ。うちのお父さんなんていっつも汗まみれで帰ってきて、すっごく臭いんだよ?』


 ある時、そう本気で頬を膨らませる友人の少女に、「それじゃああたしのと交換してみる? 勿論お金はあげないけど」と言った。喧嘩した。怒られた。

 

 またある時は「リズん家はかわいそうだよな、お母さんがいなくて」とからかってきた少年をぶん殴った。勝った。あたしは強い。けど怒られた。


 ともかく、そんな日々を繰り返すうちに父親に対する怒りが積み重ねっていった。

 勿論彼女とて彼の功績の重さは理解していた。養父母たちの失踪について、彼に落ち度があったわけじゃないことも。

 ただそれでも思ってしまうのだ。もし彼が話せるようになってさえいれば、そもそも母親が生きていれば、こんな状況になっていないんじゃないかと。


 医師の説明によれば、彼の症状は魔力の過剰使用による「高負荷オーバードーズ」。

 冒険者や兵士などの間に蔓延る、普遍的にして厄介な病。

 そこに明確な治療方法は存在せず、本人の自然治癒能力に任せるしかない。


『朝起きたら声をかけるなど、できれば毎日刺激を与えてあげてください。

 高負荷オーバードーズはいわば体の疑似的な休眠状態。些細な切っ掛けで目を覚ますこともありますから』


 転居の時に告げられたその言葉を信じて父親の覚醒を待ち続け――そうして、ある日、ぷっつりと切れてしまった。

 何故だか続けていた剣の修行をやめ、毎日のように妻のお墓へと足を運ぶ彼を黙って見送るようになった。


『お父さん。あたし、村での稽古は辞めるから。

 お父さんみたいには絶対になりたくないし』


 その直前に、一度だけ彼に聞いてみたことがあった。


 もしあの時、彼が何か反応を示してくれたら、何か変わったのだろうか?

 リズには分からない。ただリズにとってはもう彼はただの邪魔者、欠点でしかなくて――



「っ。なんでこんな時だけ動くのっ。

 本当に娘のことを心配しているなら、何よりまずは娘の思いを応えてあげるべきっ。

 娘のためにっていう免罪符で自分の思いを勝手に押し付けるなっ」


 母親の墓の前で、見覚えのある少女が叫んでいた。

 ディックに組み敷かれながら、必死に声を荒げる少女。その気迫に、そしてその主張に、リズは思わず息を呑んだ。


「大人たちはいつもそう。

 勝手に産んで、勝手に苦しめて、私たちの心は考えもしないっ。

 私だって家族と一緒に幸せになりたかったっ」


 少女は続ける。心の底から絞り出すように。

 何で彼女が彼に怒っているかはさっぱり分からない。ただ彼女の言葉はリズの心の中にすとんと落ちていった。

 同じだったのだ。感じていた憤りも、望んでいたものも。


「……今日はもう帰る」


 叫び疲れたのか、少女が身を起こして去っていく。

 それを木陰に隠れて見送った後、リズはゆっくりとディックに近づいた。


 年端もいかない少女に激情をぶつけられた元英雄。3か月ぶりにまともに見たその顔が何処か動揺しているように見えたその時、ああそうか、とリズは気付いた。

 

「あはは。

 あたしは、あの子みたいに面と向かってずっと怒りたかったんだ……」


 嗚咽と共に乾いた笑いが漏れる。

 6年越しに分かるなんて、馬鹿すぎだろ、あたし。


 それでも足取りは軽かった。

 これまでずっとリズは一人だった。周りの人間たちは全員ディックの味方で、人類の英雄を悪く言うなんて恐れ多い、と崇拝を強要してきた。

 まるで、それに疑問を抱くリズがおかしいかのように。


 ずっと意味がないと思っていた。

 この状態の彼に何を言っても響かないと勝手に諦めていた。


 でも恥も外聞も捨てて、大真面目に怒った少女がいた。

 彼女はきっと、リズがあった中で一番辛辣で――何より、彼のことを信じていた・・・・・


 だから今度はあたしが――


「っ」


 つばを飲み込んで、元英雄のディックを睨みつける。

 ぼさぼさな頭。虚ろな瞳。萎れた服。

 幼い頃からずっと見てきたはずの彼の体は、いつの間にか随分と老いて小さくなっていた。当たり前だ、同じ人間なのだから。


「……あたしはあんたが嫌いだった。

 ただそこにいるだけで、周りに褒められて、尊重されて。

 大体英雄って何よ? そんなに英雄になるのが大事だったわけ? お母さんより、世界なんか大事だったわけ?」


「……」


「あんたのせいでどれだけ苦労したのか、あんたに分かる?

 ねえ、黙ってないで、あたしのお父さんとお母さんを返して、あたしの普通に返してよっ」


「……」


 彼はやはり何も答えない。

 ただリズはそれでも構わなかった。これは彼女自身のけじめなのだ。彼女が前に進むための楔なのだ。


「……あんた、英雄なのよね? 世界を救ったのよね?

 だったら故郷の危機ぐらい何とかしてみなさいよ。

 一度くらい、あたしを助けなさいよっ……あたしのお父さんなんでしょっ」


 リズの震える手が父親の服を掴む。

 二人ぼっちの墓地に、静かな慟哭が響いていた。



 ……。

 …………。



 その数時間後。

 リズの姿は少女――ティナが泊まる宿屋「るるーなのさと」にあった。


「なん、でっ。リズがここに??」


 突然自身の部屋を来訪してきたリズに、口ごもるティナ。

 そんな姿に少しだけ得意になりながら、リズは彼女の前に仁王立ちして言い放った。



「あんたが前にした話、もう一度最初から説明しなさいよ。

 あんたのこと、完全に信用したわけじゃないけど……一応、話くらいは聞いてあげるわ」


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