第3話
夏休みが終わって帰る日がやってきた。
迎えに来たのはお母さんで、運転席には知らないおじさんが座っていた。おばあちゃんは一回りしぼんでしまったみたいに、しわくちゃの風船になってなってしまった。ため息を長く吐いただけだった。カオリはあれ以来現れなくって、きっと顔を合わせづらくなってしまったんだと思う。ぼくだって顔を合わせづらい気持ちはあったけれど、会いたい気持ちのほうが強かった。
お母さんは便秘が終わった朝のすっきりした笑顔で「仕事辞めたの」、と言った。これからはぼくにもっとやさしくできる、とも言っていた。今まで、とか、これから、とかの話を帰りの車でたくさん聞かされた。低い声で穏やかにうなづく男のひとはお父さんじゃなかった。ぼくはリュックに隠した瓶を胸に抱いて、無口でおとなしいこどものフリをした。賢くて、迷惑をかけない、物分りのいい子供。そうしないとお母さんは機嫌が悪くなるからだ。ぼくは簡単にやさしくしてもらえないことを知っていた。
ひと眠りして起きた場所にぼくの家はなくなっていて、ぼくは今まで誰かの家に居候していたなんて当たり前のことを知ったんだ。
新しい家。新しい家族。新しい学校。新しい友達。
これまでの服はすっかり捨てられて、つるつるする新品になった。お母さん曰く、ふさわしい服なんだって。部品を新しくするみたいに、ぼくのいちいちをとっかえっこ。お母さんの気に入るぼくに。新しいお父さんにふさわしい子供に。
都会にもどって、電車もあるしバスも乗れるのに、田舎以上にどこにも行けないんだって思った。夏の熱がすこしずつ引いていく。ぼくの心は、カオリと過ごしたあの夏に閉じ込められたまんまなんだ。
(降あね確率0ぱーせんと)
寂しさが重たい毛布のようにかぶさってくる夜。
ぼくは隠していた瓶を取り出して、洗面台からとってきたお母さんの香水を一滴、したたらせる。肌冷めた瓶をお腹であたためて、香水がゆっくりと瓶のなかに満ちるのを待つ。いつだかお母さんが教えてくれた。香水は体温で蒸発させて、においの服をはおるんだって。
瓶には夏の宝物が詰まっていた。
『なんで?』
瓶のなかからくぐもった声が聞こえる。おどろいて、困って、怒っているみたい。
せみの抜け殻 ……1つ
水切り石 ……1個
木の枝の残骸 ……少々
神社の木漏れ日 ……適量
夏空ビー玉 ……1つ
畦道の風 ……風速4メートル/秒
置き去りの約束 ……ひとつ
夕立の水滴 ……1滴
おとなの女のカオリ……ひとふり
ぼくは宝物を胸に抱える。
ぼくとカオリと夏のすべて。
ぼくは瓶のなかにカオリを再現した。
『出しなさい』
「だめだよ。カオリはあの夏のあいだ、誰かが覚えていないといられないんだ。瓶のなかには夏とカオリの思い出でいっぱいなんだ。ここならカオリは消えたりしない。いなくならない」
『アンタの気分次第でどうとでも――』
「アンタじゃない」
瓶をはげしくゆさぶった。
「ユウトだよ。ユ、ウ、ト」
夏のあいだ、一度も呼んでくれなかった名前を繰り返した。瓶に入っちゃうぐらいすっかり小さなカオリは、悲鳴を上げて、ぼくのことでちっとも揺れなかった彼女が、ぼくなんか眼中になくて見えてなかったカオリが、怖がった目をして、ぼくのことをみた。ぼくだけをみた。
『お願いやめて、ユウト。これじゃ檻に閉じ込められているのと同じよ。どこにもいけないわ』
その言葉を聞いて安心した。成功だ。
「よかった〜」
瓶のなかの宝物はきらきらとかがやいて、時間がたってもすこしも古くなったりしない。きれいなものだと、まちがいなく、信じることができたんだ。
(降あね確率100ぱーせんと)
毎晩、夏を抱いて眠る。
あの夏を写し取った宝物を、この手に抱いて。
「もう寂しくないよ」
夏の標本、そのかおり 志村麦穂 @baku-shimura
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