第二幕 終わりの始まり。

 歌うことが好きだった深雪は、友達とカラオケに行った事をきっかけに、軽音楽部に入らないかと誘われた。中学二年生の春の事だ。自分の歌が上手いだとか下手だとか、そういうことを考えたこともなく、また部活には普通一年生で入るものだという固定観念から一度は断ったが、その友人が「深雪ちゃん絶対プロになれる! 才能だよそれ! 中学で軽音楽部に入っておけば、高校でもっと上手になるかもしれないじゃん!」と、熱弁するもんだから、結局根負けして見学に行った。

 結論、行ってよかったと深雪は思った。

 今まで音源でしか聴いたことがない楽器を生で触り、その場の演奏に合わせて曲を歌う。その楽しさの虜になった。何より、自分の歌を聴いてくれた人が皆「よかった!」と笑顔になってくれることに、胸の高鳴りを覚えた。

 相変わらず怪異に遭遇する体質は変わっていなかったし、夜が近づけばそれなりにやばい奴らと遭遇することだってある。だけど夢中になれることを見つけた深雪からすれば、そんなことは些細な事で、上手く回避さえすれば支障をきたすことはなかった。

 いざとなれば、言葉で命じればどうにかなる。

 そういう思いが、日に日に心に油断を生んでいったのかもしれない。


 日常に異変が現れだしたのは、中学三年生の冬の終わりのことだった。

 もうあと少しで卒業を控えた深雪たちは、最後の思い出にとそれぞれやり残したことをする日々を送っていた。

 進学先が無事決まり、残りの期間はバンド活動に当てたいとかねてより思っていたこともあって、この頃にはバンド仲間で集まっては、学校以外の施設でライブをすることも多かった。それゆえに、逢坂深雪という歌手はその筋ではかなり有名になっていた。

 

 だがある時から、必要以上に視線を感じるようになる。

 最初こそ気のせいだと思っていたが、その視線は徐々に気配を濃くしていった。道端、出先、ライブ会場、そして卒業式を終えて春休みになった頃には、ついに家のすぐ近くですら感じるようになった。

 誰かに見られている、だが誰に。

「…………」

 怪異の類だろうか。

 だがそうだとすれば、こんなに頻繁に気配を感じるならばさすがにはずだ。見えないということは、意図的に隠れられる人間か。

 だが、心当たりはない。

「…………気にしすぎ、よね」

 言い聞かせるように呟いて、家の門扉を開ける。ふと、ポストに何やら手紙が刺さっていることに気がついた。蓋を開けて手紙を取り出せば、差出人も宛名もない。

 嫌な予感がした。

 恐る恐る、端を破って中身を取り出す。便箋よりも分厚い紙が引き出された。

「なに、これ……」

 中には、隠し撮りされたであろう深雪の写真。

 そしてその上から赤いマジックで大きくハートが描かれていた。

 異常なまでの好意――この瞬間、視線の主は怪異ではなく人間だと確信した。

「…………気持ち悪い」

 満春や祖父に言うべきか。

 いや、実害はない。ならばこのまま黙っておく方がいい。

 無用な心配を二人に浴びせたくなくて、深雪はこの時写真をしまい込んだのと同時に、この異変すら心の奥に閉じ込めてしまったのだ。

 それを、後になって後悔することになるとも知らずに。


    ***


 全てが終わったのは、たった一週間後のことだった。

 この日、中学生最後の思い出として、バンド仲間でお金を出し合って、港のそばにある少し大きなハウスを借りてライブをした。

 ライブは大盛況で、予定時間を大幅に過ぎたにも関わらず、オーナーの男性は快く最後まで演奏させてくれた。おかげで解散する頃には夜の九時を回っていたが、その熱は冷めるところを知らない。

 打ち上げをしようとメンバーの一人が言ったが、時間も時間だ。一応春から高校生とはいえ、今はまだ厳密には中学生であるから、補導されてはかなわない。後日改めて打ち上げをしようと約束して皆はその場で一斉に別れた。

 深雪も荷物を抱えて立ち上がる。他のメンバーは一足先に帰ってしまい、閉店したハウスにも明かりはついていない。波止場の街灯だけが世界を照らす。

 誰もいない波止場は、ただ波の音を響かせるだけだ。寄せては返す波を、手すりからのり出すようにして暫く眺めていた。夜風が吹いてきて、ライブで培った熱を冷ましていく。それがたまらなく気持ちが良くて、目を閉じてうっとりとしていた。


 背後に現れたその気配に、寸前まで気がつかないほどに。


「っ⁉」

 それは、突然だった。

 背後に膨れ上がった気配に振り向けば、次の瞬間、何か鋭利なものが深雪の腹を貫いた。

「……っぁ」

 焼けるような痛みに、声が出ない。全身に鳥肌が立つようなその視線に、今までのことが思い出される。

 どうして今日に限って忘れていたのだろう。

 あんなに日々日常に纏わりついていた視線の事を。

 そしてその視線が、今日に限っては纏わりついてなかったことを。

 作戦だったのか、と涙の滲む視線を上げれば、そこには見覚えのある男が立っていた。どこで見たのか、ああ、恐らく学外でライブをした時……。

 とすれば、彼はファンからストーカーになったということなのか。

 痛みで考えがまとめられない深雪の目の前で、ゆらりと包丁を持つ男の手が揺れた。そしてそのまま何かぶつぶつと言いながら再び包丁を振りかぶる。

『ウマソウ』

「……!」

『ウマソウ、クワセロ、ウ マ ソ ウ』

 街灯が反射した刃が、再び深雪の体を貫いた。前屈みになっていたせいで、背中を深く刺され、肺に達したのか息が出来なくなる。

「ぐう……っ」

 くぐもった自身の声しかもはや聞こえない。風の音も、波の音も。神経がやられたのか、あたりの音が消える。

 だが、先刻聞こえた声……聴き間違えでなければ『ウマソウ』と言っていた。

 霞んできた瞳を懸命にあけて、もう一度男を見る。

 男の背後に……人ではないの姿を見た。

「…………っ!」


 やられた。

 率直な感想はそれだった。

 このストーカー男は、人ではないモノに憑りつかれ、動かされていた。写真を送ってきたところを見れば、最初こそ本当に逢坂深雪という人間に対して異常な好意を持ったただの人間だったのだろう。それがいつしか人ではないモノに目を付けられ、利用されたということか……。

「…………ぅ」

 ウマソウとは、恐らく魂のことだ。

 人を殺して奪おうとするものは、だいたい魂だと相場が決まっている。深雪のように怪異を見ることが出来る人間の魂は、恐らく奴らにとって御馳走に違いない。

 ふと、妹の顔が浮かんだ。

 彼女は自分のように、この世のモノではない何かを見ることはない。ないはずだ。

 だが、万が一のことがある。

 この先万が一、満春がこの化け物に狙われることになったら……。

 自分がいなくなった後、代わりに標的にされるようなことがあったとしたら……。

「――っ!」

 瞬間。

 深雪はぐっと喉と腹に力を込めた。腹部から血が滴り落ちるが構っていられない。目の前の男を――怪異を、どうにかしなければという思いだけで最後の力を振り絞った。


「お前は……っ」


 血で濡れた指で男の背後にいる怪異を指さす。


「消滅、する……!」

 ジュっという焦げ付くような音が、遠くなった耳に微かに聞こえた気がした。途端、今の瞬間までそこにあった怪異が嘘のように消えてなくなる。憑りつかれていたストーカー男が意識を手放しそうになってふらふらとその場でたたらを踏んだ。

 まだだ、と深雪は最後にもう一声叫ぶ。

「お前は、」

 震える指で、男をさした。

「逢坂家の人間の事を……何もかも……忘れる。このまま……家へ帰れ……」

 言い終えてその場に膝をつけば、男がふらふらとまるで操り人形のように歩きだし、やがてその場から見えなくなった。上手くいけば、あの男が気がついた時には全てを綺麗さっぱり忘れている。それは同時に深雪を殺したという記憶も消滅するということだ。

 深夜を前にした波止場には、誰もいない。

 息が苦しくなって前のめりに倒れ込めば、びちゃっと自分自身の血だまりが跳ねた。むせ返るような鉄の臭いが鼻を衝くも、もう目が良く見えない。

(満春……)

 可愛い妹の顔が、走馬灯のように浮かんだ。

 恐らく自分はもう、助からない。

 となれば、いずれ妹は独りぼっちになってしまう。

 それ以前に、こんな無残な姿になった姉の死体を見て、彼女どんな傷を負うだろう。

 優しい心が割れてしまう。

 それだけは、どうしても嫌だった。

「……っぅ」

 這うようにして体の向きを変え、そのまま波止場の淵まで体を持っていく。手すりの下の隙間から身を滑り込ませるようにのりだし、次の瞬間傷ついた自らの体を海に投げた。

 どぶん、と鈍い音に混ざるように、体が海に沈む。傷口から海水が入って激痛を伴うはずが、鈍くなった感覚ではもう正しく認識できなかった。

(お願い、)

 音にはならないが、口だけを動かしてその言葉を紡いだ。

(私の死体を、深く深くに沈めて。二度と、地上へ浮き上がってこないように……)


 それは、妹のためだった。

 犯人の男は、もはや深雪のことを覚えていないだろう。

 死体さえ上がらなければ、最悪行方不明ということにされる。

 命を取られたことは許せない、きっとこの怨みは永遠に続く。

 だが全ての事実を残したままにし、妹に姉の傷ついた死体を見せて永遠に消えない傷を作るより、その方がましだ。

 これは他でもない、深雪のエゴだった。


(さよなら、満春、おじいちゃん……)

 遠ざかっていく水面に意識が消えかけた時、そこに何か大きな影が飛来したのが見えた気がした。


『妹のそばに……居たいか?』


 その威厳に満ちた声は、どこか優しく深雪に問いかけた。

(そばに居たい、まだ、離れたくない……)

 消えゆく意識でそう思えば、声の主がふっと笑った気がした。

『それでいい、まだ恩を返していない』

(恩……?)

『間に合わなくて、すまなかった。深雪』

 

 私の可愛い深雪。

 

 声はそこで途切れ、深雪の意識もまた、暗闇に落ちて行った。


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