余夜

ブラックコーヒー、ミルクコーヒー

 眠い、もうありえないくらい眠い。

 蓮夜は広げたテキストを睨みながら、おもむろに右手で眉間を揉んだ。

 時刻は深夜一時。自室にこもって机に座り、デスクライトだけを頼りに勉強に励む。

 学生には絶対に通らなければならないテストというものがある。夏休みを目前として行われる期末試験もそのテストの内で、現状を告白してしまえば、非常にまずい。

 七獄の年ということもあって、ここ最近怪異に振り回されまくっていたというのもあるが、一番の原因は入院していたことだ。欠席していた期間のありとあらゆる科目が、その期間分だけすっかり意味不明なのである。いや、国語や英語はまだいい、問題は数学や理科といったいわゆる理数系だ。もともと苦手なのが影響して、もう非常にまずい状況である。

「うー……なんで眠れない時は全く眠れないのに、こういう重要な時に限って眠たくなるんだ僕は……」

 恨み言の一つでもこぼせば、同時に深くため息が出た。

 怪異の気配を感じて怯えて眠れない夜なんかざらにある。だというのに、眠ってはいけないときに限って眠くなる自分が情けない。いや、憎たらしい。

 とにかく起きなければ、起きて明日試験がある科目はどうにかしておかなければならない。特に数学……明日は国語と日本史と数学だったはずだ。

「あ、日本史……日本史もちょっと……」

 興味がないわけではないし、これに関しては理解できるできないという話ではない。歴史は暗記だと得意げに話していたクラスメイトがいたが、まさにその通りだ。覚えていればどうにかなる。

「多分、大丈夫のはず……あ、でも先にちょっとだけ教科書読んでおこうかな……後の時間を全部数学に当てないとだし……」

 眠さで半分回っていない頭を必死に動かして現状を整理する。朝まであと数時間しかない。本当に眠っている場合ではないのだ。なのに、

「マジでめちゃくちゃ眠い……」

 テキストが広がったままの机に額から頭を落とせば、ゴツンと小気味のいい音が響く。じんじんとした痛みすら、眠さを遠ざけてくれない。

 もういっそ全部諦めて寝てしまおうか。赤点になってもどうせ夏休みに補習になるだけだ。夏休みなんかどうせ何の予定もないのだ。あるのはきっと、怪異に振り回される日々――

「……おい、お前さん、寝んなよ」

 後頭部をガシッと掴まれて、蓮夜はハッと顔を上げる。

 首をねじって後ろを振り返れば、暗闇に立つロクロウが蓮夜の後頭部を鷲掴みにして見下ろしていた。鋭い視線がライトのせいで余計に光って見える。どこから現れたのか。

「なんか知らねぇが、明日から重要な試験とやらがあんだろ? 寝てる場合なのかよ」

「もう、それロクロウが言う⁉ 元はと言えば、お前のせいで入院してたせいだぞ! 僕が今回の期末テストやばいの!」

 掴まれた手を振り払うように右手を振り回せば、ロクロウが「ほぅ?」と意味ありげに笑って手を離した。それから蓮夜の横に回り込んで机に乗り上げるように腰を預けてくる。

「その言い方だと、俺様と出会う前はさぞお勉強がお得意だったように聞こえるなぁ?」

「……う、いや、それは」

「ん? どうした? 入院してなかったらこんなことになってなかったんだもんなぁ?」

 ニヤニヤと笑うロクロウが、俯いた蓮夜を覗き込むように顔を近づけてくる。

「……いや、えっと」

「んー? なんだ? 俺様聞こえないなぁ」

「……勉強は……元々そんなに、得意じゃない、けど……」

 言ってしまえば、満足そうにロクロウが「だろうなぁ」と笑う。何がそんなに面白いのか、悪霊の考えることはいまいちよくわからない。

「もう! ちょっと放っておいてくれよ! マジで勉強しないと赤点になっちゃうから!」

「とかなんとか言って、放っておいたら寝るだろ、さっきみたいに伏せて」

 机を指さされながら、今度は呆れ顔で言われる。

「うう……」

 図星だった。悪霊に図星をつかれるなんてどうかしている。

 現に今こうして話している最中でも眠たいのだ。恐らく話すのをやめたらまた己の睡眠欲に負ける。その自信がある。

「はぁ……そうだよその通りです」

 ため息を吐きながら思う。なんでこんなに眠たいのか。恐らく日頃色々考えて頭を使いすぎているせいだ。どれもこれも七獄の年……いや、怪異に振り回されているからか。理由なんか考えても眠さはどうにもならないが、自分の不甲斐なさとダメ人間ぶりから来る罪悪感を緩和させるにはこうやって考え込むしかなかった。自分は悪くないと思い込みたいのか。

「……仕方ねぇな。おい、ちょっと小銭寄こせ」

 そんなことをぐるぐると思考していれば、ふいにロクロウが口を開いた。悪霊らしからぬセリフが聞こえて、俯いていた顔を思わず上げてロクロウを見る。

「小銭……? ちょ、ついにカツアゲまでするようになったのか⁉ 悪霊に小銭って必要⁉」

 そこまで言って、そういえばロクロウは自分と契約しているから実体化出来るんだった……と思い出し、思わず頭を抱えた。実体化している時は普通の人間にも目視できる。ゆえに買い物だって出来るし、変な話人間のふりだって出来る。

「うるせぇな、いいから寄こせ」

 苛立ちを含んだ声でロクロウが蓮夜の額にデコピンをかます。

 大人の体格を持つ彼のそれは、地味に痛い。少し眠気が和らぎそうだが、何度も食らいたくない。

「もう、仕方ないなぁ……」

 椅子に座ったまま、床に置いてあった通学鞄に手を伸ばす。ごそごそと中を弄って普段使っている財布を取り出し、そこから五百円玉を一枚取り出した。それをロクロウに手渡そうとすれば、ロクロウが何ということなく「五百円も要らねぇぞ」と言う。

「え? この時間だからコンビニとかしか開いてないよ? 何買うかしらないけど、五百円は必要じゃない?」

「いや、要らねぇ。三百円だけ寄こせ」

「三百円……?」

 ロクロウが何を考えているかますますわからない。

 悩んでも答えは導き出せそうにないから、ひとまずここは大人しく言われた通りに三百円だけ渡しておくことにする。幸いにも百円玉はちゃんと三枚財布の中にあった。

 ロクロウはそれを受け取ると、迷うことなく部屋の窓際まで行き、窓を開けて淵に足をかける。

「おい、一分半くらい待ってろ。さすがのお前さんでもその程度の時間なら起きてられるだろ」

「え? ちょ、どういうこと?」

 問いかけるも、それと同時にロクロウは窓の外へ飛び出していった。夜風が吹き込んできてカーテンが揺れる。すぐに戻るという意思を感じたが、彼は一体どこへ行ったというのか。

 とりあえず開いた窓はそのままにして、再びテキストに視線を落とす。夏場とはいえ、夜風は少しばかり冷たい。開いた窓から入ってきた風が、蓮夜の首筋を優しく撫でる。



「お、窓開けたままとは賢いな、お前さん」

 振り返れば、ついさっき出ていったロクロウがもう窓の淵に足をかけて中に入ってくるところだった。後ろ手に窓を閉めて、そのままの足で蓮夜の机へと戻ってくる。

「すぐ帰るって言ってたから、開けといた……どこ行ってたの?」

 言えば、同時に首筋にピトッと何かを当てられて飛び上がりそうになる。

「つめたっ! 何⁉」

 冷たい物体の正体を目視しようとロクロウの手に視線を合わせれば、彼の手にはコーヒーの缶が二本ほど握られていた。

「え、コーヒー……?」

 これを買いに行ったのか、とロクロウの顔を見上げれば、やれやれと言った風に眉を上げる。缶を持っていない方の手で器用に釣銭を机の上に置きながら「どっちにするよ」と言った。

 よく見れば、缶コーヒーは二種類。

 ブラックコーヒーと、もう片方はミルクが多めのミルクコーヒーだった。

「眠気にはコーヒーがいいらしいな」

「よく知ってるなぁ、悪霊なのに……」

 本当によく知っていたと思う。どこでそんな情報を手に入れたのか。

 不思議に思っていると、察したのか、ロクロウが口を開いた。

「怨代地蔵に来る人間……俗に言うって部類になる奴らが、よく愚痴の最中にその情報を零してたんだよ。眠気覚ましにコーヒー買ってやったのに、とか、眠い時にコーヒーのひとつも満足に買えねぇのか、とかな」

「ああ、なるほど……」

 人の恨みつらみは根深い。他人にとって大したことのない話に聞こえても、それをロクロウの前で零していった人にとっては苦しい事だったのだろう。どんな事情があったか少しばかり気にはなるが、今はそれを気にしている場合ではない。

「よく覚えてるんだな、そういう話」

「まぁ、単なる暇つぶしよ」

 ため息交じりにつまらなさそうにロクロウが言う。それから「で、どっちだよ」と再び缶を押し付けてくるもんだから、まじまじと缶を見て悩んでしまう。

「本当はブラックコーヒー飲めないんだけど……眠気覚ましにはブラックコーヒー飲まなくちゃだめだよね、やっぱり」

 蓮夜は本来、紅茶にすら砂糖とミルクをたっぷりと入れる。ストレートでも飲めなくはないのだが、どうも渋みがあまり得意ではなかった。それがコーヒーとなると尚更のこと、渋みに加えて苦みが来るのがどうも苦手で、普段はカフェオレを好んで飲むくらいだ。だが眠気にはブラックコーヒーという。ここは大人しく我慢してブラックにすべきかと黒いパッケージの方に手を伸ばせば、それを拒否するかのようにロクロウの手が動いた。

 ブラックコーヒーを引っ込めて、蓮夜の机の上にミルクコーヒーの缶を置く。そのままの足で蓮夜が使っているベッドに移動すれば、彼はそこに腰かけて黒の缶のプルタブに指を掛けた。カシュッと中の空気が抜ける音が薄暗い部屋の中に響く。

「無理してこっち飲んでも、なんもならねぇだろ。そっちもコーヒーには変わりねぇ」

「……ひょっとしてロクロウ、最初から僕にこっち寄こすつもりだった?」

 僕がブラックコーヒーダメなの知ってたのか、と問えば、ちらりと黒い瞳が暗闇の中で蓮夜を見た。一瞬の沈黙の後、静かな声が響く。

「知ってた、というよりはって言った方が近ぇな。お前さんと契約してるからか、なんとなくわかるんだよ、色々とな」

「そうなんだ……」

 色々と言われたその中身が何か気になったが、聞くのは怖いから突っ込まないでおく。

「でもどの程度甘いのが好きとか、苦いのが苦手とか、そこまではわからねぇからな。飲めるレベルの苦手なら選択する余地もあるかと思って、選択肢を増やしたまでだ」

 まぁ、想像よりお子ちゃまだったみてぇだがな。

 そう言ってブラックコーヒーを飲みながら、ロクロウが目を細めてニヤッと笑った。悪霊がブラックコーヒーを飲んでいる姿を見たことがある人間が、果たしてこの世にどれくらい存在するのだろうか。

「ロクロウは飲めるんだ、コーヒー」

「あ? そりゃ今実体化してるからな」

「いや、そうだけど、そうじゃなくて。ブラックでも飲めるんだねってこと」

 思ったことをそのまま言えば、ロクロウは「はぁ?」と気の抜けたような反応をした。

「お前さん、逆に聞くが……俺様がミルクコーヒーとかそういうものを好んでる姿が想像出来るか?」

「……いや、ごめん。今のは僕が悪い気がする」

 確かにロクロウのみてくれからすれば、どう考えてもミルクコーヒーのそれじゃない。むしろ全身黒ずくめなのだから、ブラックコーヒーで大正解なのではないか。甘いものよりも、どちらかと言えば酒や煙草を好んでそうな気配すらしてくる。

「ロクロウはそうだね……甘党じゃなくて辛党っぽいし……それに煙草とか平気そう」

「煙草、ねぇ」

 ぐいっと缶を仰いだロクロウが呟く。

「煙草は嫌いじゃねぇな」

「え? 吸ったことあるの?」

 意外な返事に驚けば、ロクロウは視線を寄こさないままに言う。

「地蔵の所にやってくる人間の中には、供え物していく奴がいるんだ。その中に、たまに自分が吸って火をつけた煙草を供えていく奴がいるんだよ」

 それを吸ったことならある、とロクロウが言う。そういえば墓参りに行った際、煙草に火をつけて置いて帰る人を見たことがあった。ああして供えれば、故人もその煙草が吸えるとかなんとか聞いた気がする。なるほど、あながち嘘ではなかったのかもしれない。

「へぇ、そうなんだ……うん、ロクロウ煙草似合いそうだ」

「なぁに、変に納得してやがんだよ」

 変な奴、とロクロウが言う。

 机の上に置かれたミルクコーヒーの缶にようやく手を伸ばして、蓮夜はそれを開けた。カシュッと小気味のいい音が響いて、かすかに甘い匂いが漂う。

「ねぇ、知ってる?」

「あ?」

「糖分は、勉強するのに役に立つんだよ」

 言ってから中身をゆっくりと仰る。コーヒーをまろやかに包み込むミルクはほんのり甘く、それでいてどこかすっきりと喉に流れていった。

「……さぁ、知らねぇなぁ」

 

 そう答えたロクロウは、意味ありげに、少しだけ笑った。

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