第五九話 天文十二年三月下旬『市江川の戦いその拾伍』太原雪斎SIDE

「まさか……嚢沙のうしゃの計とは……っ!」


 同じ頃、荷之上城の別の物見櫓ものみやぐらでは、太原雪斎もまた戦慄に声を震わせていた。


 嚢沙の計自体は雪斎ももちろん知っている。

 河川の多い日ノ本では、いの一番に警戒する計略である。

 だからこの計略を仕掛けてきたこと自体に驚きはない。

 雪斎が驚いたのは、その丹念な仕掛け・・・・・・のほうである。


 織田勢は初戦と言い、翌日の戦いと言い、今日と言い、一向宗を上陸させまいとそれはもう必死に抵抗していた。

 てつはうを用い、弓矢を惜しみなく浴びせかけ、騎馬隊を縦横無尽に駆け疾らせ、こちらの上陸作戦を幾度も幾度も潰してきた。


 そこまで頑強な抵抗をしてくるということは、それだけ敵は渡河してきてほしくないということである。

 逆に言えば、嚢沙の計の可能性は薄まる。

 それを使う気ならば、むしろ渡河は大歓迎のはずだからだ。


 それが思考の罠だった。

 雪斎とて完全に誘導されていた。

 そうして敵が満を持して全戦力を投入したところで、せきを切り一網打尽にする。


「これが織田の鳳雛ほうすうか……っ!」


 今の策、言葉にするのは容易いが、実行するのは至難の業である。

 まず嚢沙の計を使うつもりだったのならば、もっと早々に退いて、敵を押し流してしまいたくなるのが人情である。

 兵力差で圧倒されているのだからなおさらだ。


 使う機会は幾度もあったはずだ。

 その誘惑をグッと堪え、絶好の機が到来するまで耐えに耐え抜く忍耐力がまずとんでもない。

 そして機と見るや、数万人であろうと容赦なく激流に飲み込ませる果断さ、胆力も凄まじい。


 さらに言えば、一昨日の雨もまた天が味方をしていたと言える。

 川の水量が減っていくのも、それは自然のことだと誤魔化せる。

 つまり、将として最も大事な『天運』も持っているということだ。


「我が今川の脅威となるのは、やはり信秀などよりこの者のようですね」


 全く恐ろしい女傑もいたものである。

 いきなり万を超える兵に攻められて、大した準備期間もなかったはずなのに華麗に撃退してのけるなど、想定の範囲外もいいところであった。

 これでまだ齢九つなど、本気で神仏の類としか言いようがない。


 信秀も確かに『尾張の虎』と呼ばれるだけの器量は十分にある。

 侮れない難敵であることは間違いない。

 それでも、手に余るという気もしない。

 どうとでも対処できるという感覚がある。

 土壇場でこそその人間の真価が見えるものだが、実際、信秀は岡崎において雪斎の想定を上回ってくることがなかった。

 どちらが脅威かなど、もはや比べるまでもなかった。


「むっ!?」


 雪斎は東のほうで上陸を果たし、陣地の設営を始めている織田勢を発見する。

 なんとまあ、実に抜け目も容赦もなく、したたかだった。


「これはもう間に合いませんね」


 門徒の大半は洪水で流されている。

 残っている者たちも衝撃で呆けて、大半は兵としてしばらく使い物になりそうにない。

 使える者だけ集めて編成し直している間に、敵は設営を終えてしまうだろう。


 そして明日には信秀率いる後詰が来るのだ。

 斎藤もおそらく来る。

 兵の士気は最悪で、川という天然の要害まで突破された荷之上城に、それら大軍に抗しうるだけの防衛力がもはや残っているはずもない。


「やれやれ、ここは混乱に乗じて、早々に退散したほうが良さそうです」

 

 圧倒的優位から高みの見物を決め込んでいたはずの雪斎までが、気づけば逆に危機に陥らされている。

 慌てて逃げ出さねばならない羽目になっている。

 まったく恐ろしい女を敵に回してしまったものである。

 だが、その口元には楽し気な笑みが浮かぶ。


「ふふっ、いずれまた相まみえようぞ、織田の鳳雛……っ!」


 困難であればあるほど、やり甲斐を覚え燃えるのが太原雪斎と言う男だった。

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