第五八話 天文十二年三月下旬『市江川の戦いその拾肆』柴田勝家SIDE
「嚢沙の計……書物でその存在は見知っていたが、実際に目の当たりにすると凄まじいな」
先程までとは一変した光景に、勝家は思わず息を呑む。
勝家率いる織田勢は洪水の時にはすでに土手の上に避難していたため損害は一切なかったが、市江川を埋め尽くさんばかりにいたはずの一向宗門徒たちが、ごっそりと消え失せている。
こちらの岸にもなんとか難を逃れた者たちもいるが、おそらく五〇〇人にも満たないだろう。
しかも洪水の衝撃で、兵たちも呆けてしまっている。
勝家はそんな彼らを槍で指し示し叫ぶ。
「見よ! つや姫様を仏敵などと称し、素戔嗚大神の怒りに触れた一向宗の者どもの大半は洪水に呑まれた。天がどちらに味方したかは明らかである!」
どの口がと思いつつ、勝家は高らかに叫ぶ。
今回の洪水はつやが発案し、林秀貞が実務を取り仕切った、極めて人為的なものにすぎない。
だが、民というものは迷信深いものである。
神が自分たちに味方してくれた。
これほど士気を昂らせるものはなく、将には時にはったりも求められるのだ。
さらに追い打ちをかけるように――
「さあ皆の者、叫べ。喝采を上げろ! 天罰
「「「「「天罰覿面!!」」」」」
「
「「「「「素戔嗚大神、万歳!!」」」」」
ここぞとばかりに織田勢は敵の信仰心を揺らがせにかかる。
これもつやが、嚢沙の計と同時に実行すると発案した策である。
一向宗の最も恐ろしいところは、その信仰心にある。
死んでも極楽浄土に行けると信じているから、死を恐れぬ勇猛な兵となれるのだ。
単純な武力では、彼らを怯ませることはできない。
だが、織田家と争えば神罰が下ると、天は織田家に味方していると思い込ませればどうだろうか?
「教義が仇となったな、一向宗」
ニッと勝家は口の端を吊り上げる。
一向宗は他宗派の神・仏も全て阿弥陀如来の化身であると説く。
全て阿弥陀如来が変化した姿に過ぎないのだ、と。
すなわち今回の洪水も、彼らの崇める阿弥陀如来が起こしたことになるのだ。
「天命は下された! それでもまだ我らに鉾を向け地獄に落ちるか!? それとも武器を捨て、笠を上げるか!?」
畳みかけるように、勝家は拡声器を使って降伏勧告する。
別に情けをかけているわけではない。
それぞれの故郷に逃げ帰った彼らは、まことしやかに今回の戦の事を語るだろう。
織田家に、すなわち天に弓引けば、そもそも極楽浄土へは行けなくなるのではないか。
そんな疑念が一向宗門徒に広がれば今後、織田家に敵対しようという時、二の足を踏み、動員にも応じにくくなるに違いない。
そこまで見越しての一手であった。
しばらくして、一向宗たちが次々と武器を捨て、兜を脱ぎ頭上に掲げていく。
大洪水に多くの仲間が呑み込まれた惨状に、さすがの一向宗も戦意喪失したらしい。
すでに織田勢の完全勝利と言っていい状況であったが、さらにつやは容赦がなく、徹底的だった。
実はこの洪水の混乱に乗じ、金森長近率いる下河原織田党を東より市江島に侵入させる算段である。
橋頭堡を確保し、信秀率いる本隊が戻ってきた時に一気呵成に荷之上城を奪ってしまおうという作戦だった。
そしておそらくそれは、今の敵の状況を見るに十中八九成功するだろう。
「ふふっ、まさしく深慮遠謀……っ! 守護代様が今孔明と仰られるわけだ」
この策を聞いた時には思わず、勝家はあの小さな少女に戦慄さえ覚えたものだった。
評定に参加していた皆が、この国難をどう乗り越えるか、その事に掛かりきりだったというのに、つやはその先まで見据え、敵の力を奪い、再発防止の手を何段にも重ねて打ち込むのである。
はっきり言って、視点の高さが違う。見ている景色が違う。
「いっそ敵が哀れになってくるな」
味方の時はこれほど頼もしい方もいないが、敵に回せばこれほど厄介な相手もいまい。
この突発的にして絶体絶命の危機にあってさえ、物ともしない。
冷静に合理的に的確に、先の先まで見越した判断を下す。
その上、様々な道具、兵器にも精通し、商売にも明るく、物凄い勢いで富国強兵を実現させていく辣腕の政治家・戦略家でもある。
手に負えない、とはまさに彼女の事を言うのだろう。
「なんとしても、守らねばならぬ」
正攻法で手に負えないとなれば、暗殺などのからめ手も今後増えるかもしれない。
彼女は尾張を、否、日ノ本全体を豊かにする存在だ。
絶対に失うわけにはいかない。
そう決意を新たにする勝家であった。
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