第五七話 天文十二年三月下旬『市江川の戦いその拾参』願証寺証恵SIDE

「証恵御院! 織田勢が撤退してきますよ」

「ふふっ、見えておりますよ」


 見目麗しい少女の言葉に、証恵はうんうんと鷹揚に頷く。

 荷之上城の物見櫓からは、戦場となっている市江川周辺がはっきりと一望できる。

 少女の言うように、織田勢がさざ波が引いていくように逃げていくのがここからならよくわかった。

 自分たち浄土真宗の勝利である。


「ふふっ、しぶとく抵抗していたようですが、御仏の力に人の力で抗しようなどというのが間違いなのです」


 スッと証恵は殊勝に手を合わせ、感謝を示すように空に向けて拝む。

 そう、まったくもって御仏の力は偉大だと思う。

 ただの農民が、死に物狂いで戦ってくれる勇士へと変貌を遂げるのだから。


 南無阿弥陀仏。

 それさえ唱えていれば死んでも極楽浄土へ行けると信じ、味方がどれだけ屠られようと恐れることなく突っ込んでいける。

 こんな便利な兵士もいなかった。


 無理な力攻めだったこともあり、随分損害は出たが、問題はない。

 代わりはそれこそいくらでもいる。

 彼らとしても、御仏の為に戦い、極楽浄土へと旅立てるのだから死んで悔いはなかろう。


 まあ、証恵としてはそんなあるかどうかもわからぬものの為に命を懸けるなどまっぴらごめんだが。

 あくせく働くのは馬鹿どもに任せて、自分は財と権力と女に満ちた現世の極楽をたっぷり堪能したいところである。


 そう言えば件のつや姫も、子供ながら大層な美貌の持ち主と聞く。

 やはりその折伏しゃくふくは、証恵自らやるべきだろう。

 まずかいより始めよ、である。


 まあ、だが差し当たっては、


「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」


 今、目の前で真摯しんしに念仏を唱えているこの娘か。

 その見目麗しさに目を付け、身の回りの世話を任せてもう一年になる。

 年は十三。身体もいい感じに育ってきた。


 ペロリと証恵は舌なめずりをする。

 そろそろ手取り足取り薫陶くんとうを与えてやってもいい時期だった。


「戦の興奮で昂ったこの心と身体を鎮めねばなりません。たえ、手伝……っ!?」


 少女の肩に手をかけ、寝所へと誘おうとしたその時だった。


 ドドドドドドドドドドッ!!


 遠くから重々しい音が轟いてくる。


「なっ!? ま、まさか!?」


 長島で生まれ育った証恵は、この音を幾度となく聞いたことがあった。

 ゾッと背筋に寒いものを感じつつ、佐屋川の上流へと目を向ける。

 想像通りの、否、想像さえ上回る激流が、下流へと押し寄せてきていた。


「ば、馬鹿な!? 雨が降ったのは一昨日だぞ、なぜ!?」


 思わず空を見上げる。

 雲一つない晴天だった。

 雨が降ったその日、あるいは翌日に川の水が増水するのはわかる。

 だが、二日も経った今になって、あれほどの激流が突如発生するなどあり得なかった。


「なぜだっ!? なぜだっ!? なぜだぁっ!?」


 証恵が混乱し発狂している間も、激流はどんどん下流へと迫っていく。

 市江川にいる一向宗たちも異変に気付いたようだったが、その大半はまだ川の中、あるいは川岸である。

 慌てて逃げようとするも、到底間に合わない。

 激流が、まさに八岐大蛇のごとく一向宗門徒たちを容赦なく丸呑みしていく。


「あ、あり得ない、こ、こんな……っ!」


 つい先程まで、勝利はもう目前だったのだ。

 後はもう逃げ惑う敵を蹂躙するのみだったはずだ。

 それがこのわずかの間に状況がひっくり返り、自軍が壊滅状態に陥っているのである。


 こうなっては、いかに一向宗と言えど津島を獲るのは不可能だった。

 津島と桑名から上がる銭を土台に、本家である本願寺を乗っ取るという壮大な夢が、今の一瞬で泡と消えた。

 いや、それどころかさすがに一万近い死傷者を出し、何一つ得られるものがないとなれば、今後は当然、証恵の責任問題にも発展するに違いない。

 祖父の代から連綿と受け継いできた願証寺御院の地位からは、まず間違いなく引きずり降ろされるだろう。

 手にしていたものすべてが、ガラガラと崩れ落ちていく音が聞こえる……。

 

「嘘じゃ……嘘じゃ……こ、こんなことあり得ていいはずが……」


 現実が受け入れられず、証恵はがくっとその場に膝をつきうなだれ、ただただ呆然自失の体でつぶやく事しかできなかった。


 この後、願証寺を放逐された証恵は、摂津国(大阪府)周辺で托鉢僧に身をやつした姿が多くの者に目撃されている。

 身体は痩せ細り服もぼろで、御院当時を知る者にとってはびっくりするほど落ちぶれた姿だったとか。

 だがそれも、一年ほどで見なくなったという。


 その後の彼の足跡は、史書には記されていない。

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