第六〇話 天文十二年三月下旬『市江川の戦いその拾陸』
「慌てて駆けつけてみれば、お前と言う奴は……」
市江川のほとりでつやたちと合流した織田信秀は、なんとも脱力した様子で天を仰いだものである。
津島が危ないと、取る物も取り敢えず強行軍で戻ってきてみれば、自力で万を上回る一向宗門徒を撃退し、それどころか逆に市江川の対岸に陣地まで構築しているという。
しかも洪水を素戔嗚大神の怒りと称したことで、市江島にいる一向宗の残党も、完全に戦意を喪失。
信秀率いる本隊の姿をとらえるや、笠を上げて降伏する有様だった。
「一人で全てに片を付けおって。儂が帰ってくるまでもなかったではないか」
ここまでくると、信秀もさすがにぼやかずにはいられなかった。
空回りもいいところである。
この妹には、つくづく常識というものが通用しない。
「いえ、たまたま策が上手くハマっただけです。それに荷之上城を取るには、さすがに信秀兄さまの後詰めが必要でした」
「で、あるか」
確かに荷之上城には今も数千の兵が詰めている。
常識的に考えれば、つやたちが率いる二〇〇〇弱では攻め落とすのは難しい。
それでもこの娘ならなんとかしようと思えばできたのではないか?
後詰めが来るから無理をしない、新たな切り札を切る必要がないと判断しただけなのではないか?
あるいはそれこそ、信秀の面子を立ててくれただけなのでは?
考えすぎかもしれないが、そう思わずにはいられなかった。
「まあ、
市江島は尾張国の中で唯一、信秀に服していない地域であった。
かつ、川という天然の要害に囲まれ、手が出しにくい地でもあった。
それを手に入れることができ、これで名実ともに尾張の守護代を名乗ることが出来る。
「そうですね、これでより一層、津島、熱田の安全は確保されたかと」
つやも頷きつつ言う。
言われて信秀は脳裏に周辺の地図を思い浮かべ、驚愕に舌を巻く。
つやの言うようにこの市江島は、一向宗の海上からの侵攻に対し、津島や熱田の防波堤的な役割を示す立地だったのだ。
繰り返すが、津島と熱田は織田家の財政の生命線だ。
その安全を確保することは、当然、織田家の安泰にもつながる。
(なるほど! 休む間もなく強行軍で市江島に橋頭堡を作ったのは、そこまで見越しての事か!)
やはりこの妹は、大局というものがよく見えている。
そして未曽有の危機の中にあっても、かすかな好機をしっかり見出し、したたかにつかみ取る。
到底、余人に真似できるものではない。
その眼力と握力は、紛うことなき英傑の証と言えた。
しかもまだ齢九つ、末恐ろしいというしかない。
「まったく大した娘よ。貴様がおらねば尾張はどうなっていたか。褒美は何がいい?」
「褒美ですか? ん~、そうですね。じゃあ、せっかくなのでこの市江島の海岸沿いの砂浜を頂ければ有難いですね」
「す、砂浜!? そんなものでいいのか!?」
「ええ、塩でも作ろうかと。美味しい料理の基本はやはり塩ですから。ああ、でも船着き場も頂きたいかも。どうせなら新鮮なお魚も食べたいですし」
心底からウキウキな様子で語るつやに、信秀は唖然として声も出ない。
これほどの大器を持ちながら、興味関心が美味しいものを食べるということにしか向いていない。
そしてその言葉に嘘がない事もわかるのだ。
花より団子とは言うし、色気より食い気な年ごろではあるのだが、それでもやはり先程まで見せていた英傑の
だがそれもまた、この娘の器の大きさなのだろう。
「よかろう、ならばこの市江島丸ごと、貴様にくれてやる。ああ、ついでにこれからぶん獲る
「は、はいっ!? いや、そんな島丸ごと二つとかいらないんですけど! 端っこをちょびっと頂ければそれで……」
「これほどの大功を挙げまくっておいて何を言うか。相応の褒美を出さねば、儂の面目が立たぬわ」
どこまでも欲のない妹に、信秀は呆れた声を漏らす。
今回の戦では万をはるかに上回る一向宗をわずか二〇〇〇ほどで相手取って、完膚なきまでの大勝。
織田家の台所とも言うべき津島を守り切り、市江島を確保する段取りも整えた。
津島を取られていたら、あるいは破壊されていたら……考えるだけでゾッとする事態である。
市江島と鯏浦、二つ合わせたところで、その貫高はざっと三〇〇〇貫から四〇〇〇貫といったところであろう。
清州の戦いから一年あまり、様々な農機具や商品に、銭湯による清州城下町の活性化などなど、つやが織田家にもたらした利益は、その二〇倍をゆうに越える。
戦果に加え、それらまで加味すれば、むしろ褒美としては少ないぐらいであった。
それに、ここ荷之上城は境目の城である。
領土防衛の重要拠点であり、なまなかな者には任せられない。
その点、つやが治めるというのならば安心だった。
こうして、つやは市江島鯏浦三七六〇貫の加増を受け、それまでの知行三五五〇貫と合わせ、計七三一〇貫。
石高に直せば一四六二〇石。
江戸時代の基準に照らせれば、大名と称される石高を有するまでに至ったのである。
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