第三〇話 天文十二年三月中旬『地金』織田信秀side

 鳴り止まぬ歓声が、神社を覆っていた。


 兵たちの士気は、これ以上ないほどに上がっていた。

 これならば死さえ恐れず敵陣に突っ込んでいけるに違いない。

 つやはまさに最高の仕事をしてくれたと言える。


「くっ、くくく……相変わらず儂の想像を超えてくる娘よ……っ!」


 舞台の下で信秀は戦慄に身体を打ち震えさせていた。

 舞台に上がった当初は、あまりの数の観衆に呑まれているように見えた。

 いかな伏竜鳳雛とは言え、まだ齢一〇の娘である事には違いない。

 いきなり大舞台に立たせるのはさすがに早すぎたか。もっと場数を踏ませるべきだったか、と危惧したが、ただの杞憂であった。


 確かに一瞬、狼狽えはしたようだった。

 だが、すぐにその瞳に覚悟と決意が宿り、演者を一喝し、足踏み一つでざわめく観衆を黙らせた。


「どうやら彼奴は、四天王の化身でもあったらしい」


 仏教における四天王とは、持国天、増長天、広目天、多聞天の事を指す。

 日本では古くから信仰を集めており、聖徳太子がこの四天王に勝利を祈願したという逸話も残るほどだ。

 彼らの像の足下には、人に仇なす邪鬼が踏みつけられており、それをほうふつとせずにはいられなかったのである。


「清州の戦いの時にも思うたが、つくづく……つくづく敵でなくてよかったわい」


 大衆を虜にし、意のままに従わせる。

 言葉で言うだけなら簡単だが、それは至難の業だ。


 それを一〇の娘がやって見せる。

 こんな事が、いったい他の誰に出来るというのか!?


 日本史で女傑と言えば、巴御前がいの一番に上がるが、いかな彼女とて、こんな事はおそらくできまい。

 大陸に目を向けても、おそらくはいないだろう。

 なによりとんでもなかったのが――


「咄嗟の機転が、神がかっておるわ」


 舞台に立った瞬間、確かにつやは観衆に呑まれていた。

 その想定外の数に、声に、熱に、完全に圧倒されていたように思う。


 だが人間、そういう追い詰められた時にこそ、地金というものが見えるというのが信秀の持論だった。

 つやは瞬く間に自らを立て直し、役目を果たし切った。

 当初予定していた神楽舞いよりも、はるかに効果のあるやり方で!

 土壇場にあっても、枠に囚われぬ発想で即座に最適解を導き出す。

 それは戦場の将として、最も求められる資質であった。


 幸若舞『敦盛』。

 人の世の五〇年など天界の一日に過ぎず夢幻のようなものだ、と人の世の儚さと無常さを謡った演目である。


 だが、つやの踊りにはそんな諦観の色はない。

 むしろ幼いながらも力強さのある舞いは、生命の輝きに満ちていた。

 人の一生は短く、そして一度生を受けたら滅せぬ者などおらぬ。

 だからこそ、死を恐れず困難に立ち向かえ!

 一生懸命に生き、何かを成し遂げよ!

 そんな信念を舞いからは感じずにはいられなかった。


 その信念は厳密にはつやのものではなく、手本とした信長のものではあった。

 とは言えつやも、破れかぶれだ、もうこれを舞うしか他に道はない! と開き直って踊っていたところがある。

 おそらくそれが信長の解釈と奇跡的な親和性を生んだのだろう。


 だが、そんな事は信秀にはわからない。

 わかったのは、この演目が出陣前に実にぴったりな演目だった、という事だ。


 過剰に死を恐れていては、逆にそれが死や敗北を招く。

 死中に活あり、という言葉もある。

 神楽を舞われるより、兵士たちもよほど心身が引き締まったに違いない。


「ふふっ、儂も負けてはおれんな」


 ここまで幼い妹にお膳立てしてもらったのだ。

 盛り下げようものなら、兄としての沽券に関わる。

 パンパン! と両頬を平手打ち、気合を入れて信秀も壇上に上がるや叫ぶ。


「しずまれい! しずまれい! しずまれぇいっ!!」


 その声は、清州の戦いでつやが用いた拡声器を通じて、神社に鳴り響く。

 途端に兵士たちのざわめきも収まっていく。

 どうやら自分の威厳も、まだまだ捨てたものではないらしい。

 静まった頃合いを見計らい、


「聞いたな、皆の者! 一度生を受け、滅せぬ者などおらぬ! 大事なのは、その短い生涯で何を為すかじゃ!」


 グッと拳を握りしめ力強く喝破する。

 ついで東に視線を向け、


「三河ではもうずっと、かの地を治める松平一族同士での骨肉の争いが続いておる。そのせいで田畑は荒れ果て、民は貧困に喘いでおる。もはや松平家に三河を治める大義はない!」


 これは厳然たる事実である。

 もう何十年もの間、三河はそういう状態にある。


 先々代松平清康がそれらを力でねじ伏せ一時はまとめあげる寸前までいったが、家臣の裏切りに遭いあっけなく殺された。

 その後は、松平清定が広忠を追い出し、広忠が戻ってきても内輪揉めを続け、清定が死んだと思えば、松平信孝が台頭し、また権力争いを始める始末だ。

 もはや救いようがないというしかなかった。


「その事に胸を痛めた松平信孝が三河を救ってくれと儂を頼ってきた。これも天命であろうと、儂はその要請に応えることにした」


 熱っぽく語りながらも、我ながら詭弁がすぎると、信秀は内心で苦笑する。

 松平信孝に民を思う心などさほどない。

 興味があるのは自らの権勢だけだ。

 信秀にしたところで、民の為と言う気持ちがないわけではないが、領土的野心がないと言えば嘘になる。


 だが、口ではあえて綺麗事を口にする。

 戦には、兵の士気を上げるには、大義名分が絶対に必要だからだ。


「治安維持こそ弾正忠たる儂の務めだ。三河を平定し、その民に安寧をもたらすため、皆の者、力を貸してくれい!」

「「「「「おおおおおおおおっ!!」」」」」


 信秀が拳を衝き上げると、呼応するように兵たちも鬨の声をあげる。

 これまで幾度となく戦に望んだ信秀であるが、これほど声から兵たちの気合がみなぎっているのを感じたことはかつてない。

 その手応えに、信秀は口の端を吊り上げ、バッと手のひらを前方へと振って叫ぶ。


「すわ! 出陣じゃぁっ!!」

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