第三一話 天文十二年三月中旬『恐王』松平広忠side
「どういうことだ、これはぁっ!?」
岡崎城の一室では、城の主である松平広忠が金切り声とともに、その手に持っていた書状を叩きつけるように畳に投げ捨てる。
織田信秀が、再び三河侵攻の兵を挙げた。
これ自体はいい。
尾張に潜ませた
近い内に攻め込んでくるのは、想定の範囲内である。
その兵力が一万という大軍なのも、驚きはしたがまだ理解はできる。
尾張は大変肥沃な土地だと伝え聞いている。
それを統一し、さらに熱田、津島の二つの港町、清州の城下町を中心に商売も繁盛しているという。
北の斎藤と同盟も結んで後顧の憂いを断ち、その兵力の大半をこちらに差し向けたとすれば、そうおかしい数字でもない。
彼が怒り狂っているのは――
「水野もじゃとぉっ!? これでは西三河の連中、ほぼ皆、儂を裏切ったということではないかぁっ!?」
信秀が水面下で進めていた裏切り工作の成果を、今まさに立て続けに報告を受けているからであった。
一つ二つの裏切りならば、戦国の世ならよくある事と、業腹ではあるが受け入れもできた。
だが、実に五つである。
しかもうち三つは親族の松平家、一つは妻の実家ときた。
いくらなんでも不義理が過ぎるというものだった。
これが許されるならば、この世には正義も何もあったものではない。
「於大を!
「は、ははっ!」
広忠の怒号に、小姓が慌てて部屋の外へと駆け出していく。
しばらくして。
一目で身分があるとわかる、美しい着物に身を包んだ若い少女が、哀れなほどに青白い顔で現れる。
彼女自身、動揺しているのがすぐわかった。
「あ、あ、兄が裏切ったと聞きました。ま、真にございますか!?」
「ちっ、嘘だったらどれだけよかったことかな!」
広忠は舌打ちとともに吐き捨てる。
ただでさえ青白かった於大の顔から、さらに血の気が引いていく。
妻となってもう二年ほど、さすがにもう彼の性格を知っているのだ。
「わ、わたくしはどうなるのでしょう?」
「決まっておろう!」
にぃっと広忠は口の端を吊り上げ、腰の刀を抜き放つ。
「そのそっ首、叩き斬って信元の下に送りつけてくれるわ!」
「ひっ!」
血走った目で広忠が一歩踏み出すと、於大が後ずさる。
その怯えた顔が、広忠の留飲を少しは下げてくれる。
殺す理由は、それで十分だった。
「ひひっ、死ねいっ!」
下卑た笑みとともに、広忠は刀を振りかぶり、
「お待ち下され殿!」
いざ斬りかかろうとした瞬間、後ろから家臣の阿部定吉に、飛び掛かられるように羽交い絞めにされる。
「離せ! 何をする!?」
「お怒りはごもっともなれど、冷静になってくださいませ!」
「うるさいっ! 俺を馬鹿にした奴を許せるものか!」
「ど、同盟が破棄されれば、妻は実家に帰すのが定石かと!」
定吉の言葉は事実ではあった。
人質の色合いが濃く、殺される場合もあるにはあったが、戦国の世とは言え、やはり長く情を交わした相手をいざ殺すとなると、さすがに難しかったのだろう。
離縁し実家に送り返すのがほとんどであった。
「はあっ!? そんなもの知ったことかぁっ!」
だが、広忠にはそんな事は関係なかった。
妻? 我が子の母? どうでもいい。
今の彼にとっては、この胸にうずまく怒りを少しでも鎮めてくれるなら、もうなんでもよかったのである。
「離せっ! 離せぇぇっ! 俺を馬鹿にした奴を許しておけるかぁっ!」
この怨念こそが、今の広忠を突き動かす根源であった。
彼は松平家の当主の子として生まれ、一〇歳までは蝶よ花よと皆から大切に育てられた。
父、松平清康は若くして三河を統一し、名君との呼び声高かった。
そんな父が誇らしかったし、自分も父の跡を継ぎ、松平家の当主として家を盛り立てていくのだと幼心に大志を抱いてもいた。
だが、守山崩れで、まさしく全てが崩れた。
敬愛する父は死に、阿部定吉に連れられ、見知らぬ伊勢の地にまで逃げねばならなかった。
伊勢の地では、生地を追われた幼君として同情と憐憫の眼差しを感じ続けた。
それは高い矜持を持つ広忠にとっては、そこまで自分は落ちぶれたのかとはなはだ不愉快極まりないものであった。
長じてからは今川義元を頼り、その後見でなんとか松平家当主に返り咲いたが、松平信定、松平信孝と広忠を名ばかりの当主と侮り、彼の言うことを聞こうともしなかった。
その二人も一人は死に、一人は失脚させ、ようやく俺の時代だと思ったところで、今また西三河の諸将たちは次々と広忠を裏切ってきやがった。
広忠は三河の盟主には相応しくないとこぞって突きつけてきたのだ。
もはや到底許せるものではなかった。
「俺が! 俺こそが松平家の当主なのだ! 俺を侮った連中は全部ぶち殺してやる! 手始めはそいつだ! そいつをなぶり殺して信元めに首を送りつけてやる! 見せしめとしてなぁ!」
半狂乱気味に、広忠は喚き散らす。
その眼は血走り、まさに悪鬼羅刹のごとき形相であった。
だが、この苛烈なまでの気性の荒さもまた、戦国乱世においては人の上に立つ者の資質ではあった。
ほぼ同時期に、遠く西洋でもマキャベリがその著書『君主論』にて、「愛されるよりも恐怖されることこそが君主には必要」と喝破している。
実際、その場にいた家臣たちは皆、ゾッとその心胆を寒からしめていた。
嫡男を生んだ自らの妻にさえ、この冷酷さだ。
下手に逆らえば、裏切れば、一族郎党なぶり殺しにされかねない、とその心に刻み込むには十分だった。
そして同時に高揚もさせたのだ。
お家存亡の窮地にあっても、ここまで血気盛んに
その姿は恐ろしくも頼もしい、と。
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