第二五話 天文十一年一二月下旬『三河松平家当主、松平広忠』
「ふはーははは! やぁっとくたばったか、あのくそじじいめ!」
三河国(愛知県東部)の岡崎城の一室で、少年が口汚く喝采をあげる。
曽祖父が亡くなったというのに、その口元はなんとも楽し気な愉悦に歪んでいる。
そしてその眼は鋭く暗く、見る者が思わずぞくっと背筋が凍るような黒い情念がほとばしっていた。
凶悪そのもの、という人相のこの少年こそ、松平広忠。現松平本家の当主であり、後の徳川家康の父である。
「と、殿、さすがに口が悪うございますぞ」
そう諫言してきたのは、阿部定吉。
守山崩れから始まる松平家のお家騒動において、汚名を被ることも辞さず、広忠とともに伊勢国(三重県)へと逃げ、彼を守護し続けた第一の忠臣である。
「何を言うか、定吉。あのくそじじいのせいで俺がどれだけ辛酸を舐めたか、お前なら知らぬはずもなかろう!?」
「それは重々承知しておりますが、壁に耳あり障子に目ありと申します」
「ちっ」
つまらなさげに広忠は舌打ちする。
彼がここまで憎悪を抱くのにも、相応の理由があった。
彼の曽祖父松平長親は、確かに一軍を率いる将としては、何度となく三河に侵攻してきた敵軍を追い払った、三河の守護神ともいうべき名将だ。
ただ一方で、長男に家督を譲って隠居してからの振る舞いが、松平家を大いに混乱させ衰退させた元凶だったこともまた事実である。
次男、信定を偏愛し、信定もそれによって増長し、自らが松平家当主にならんと野心を露わにした。
結果、広忠は信定に暗殺されるのを避けるため、故郷を離れ伊勢国に潜伏生活を余儀なくされることとなった。
以降、駿河の今川義元の助力を得て、なんとか広忠は三河に帰還し、松平家当主へと返り咲いたが、信定は事あるごとに広忠と対立し、天文八年に病死するまで延々と家中を混乱させ続けた。
家というものは、長子が相続するものだ。
でなければ、お家騒動の元となり、家そのものを衰退させる。
親である長親が、それをしっかり信定に教え込んでおけば、また変に甘やかさなければ、広忠も伊勢などで暗殺に怯える潜伏生活をすることもなかったし、松平家も家中が割れることなく一致団結し、今よりはるかに隆盛であったに違いないのだ。
さらに言えば今川家に従属するなどという屈辱を味わうこともなく、また「尾張の虎」からたびたび侵略を受け、その脅威に震える事もなかったはずだ。
長親・信定親子こそが広忠の苦難の元凶であり、彼が曾祖父を憎悪するのも無理ないことだったのだ。
「まあ、邪魔者が立て続けにいなくなってくれて、なによりだ。最後の一人はどうなっている?」
「……昨日、信孝様は義元様へと年賀の挨拶に駿河へと向かわれたとのこと。我が家の銭一〇〇〇貫文を持ち出して」
「ほぉう」
定吉の言葉に、広忠の口元が邪悪に歪んでいく。
「く~くっくっくっくっ、まんまと動いたか!」
「はっ。ではこの後は手筈通りに?」
「無論だ。彼奴が駿河に到着する頃合いを見計らって、彼奴の家臣と妻子をこの岡崎城から放逐しろ! 所領は全て没収! 処罰理由は、俺の後見人の立場を利用し、我が物顔で横暴の限りを尽くした事だ!」
バッと勢いよく手を振り、広忠は高らかに宣言する。
広忠の後見人として専横を極めていた叔父信孝に、広忠とその家臣たちは危機感を強めていた。
このままでは信定の二の舞になり、松平家は衰退の一途をたどる、と。
なんとかしたいと思いつつも、信孝の勢力は松平本家を凌ぐほどになっており、さらに言えば戦も滅法強く、まともにやり合っては到底敵わぬ相手でもあった。
そこで広忠は一計を案じたのである。
駿河の今川義元にひそかに根回しし、年賀の挨拶に来るよう要請し、また銭一〇〇〇貫文を上納するよう圧をかけてもらったのだ。
今、松平家が西からの織田家の圧に対抗するには、今川家の助力にすがらざるを得ない。
その状態で広忠が仮病で床に臥せれば、信孝が代理として駿河に向かわざるを得ない。
その隙を突き、信孝の勢力を一気呵成に削ぐという算段だった。
「くくくっ、ようやく……ようやく俺の時代が来たわけだ」
広忠はグッと強く拳を握り締める。
かくして、信孝は岡崎での権益の全てを失うこととなる。
全ては広忠の思惑通りに。
史実においては、凡庸とされる広忠であるが、それは多分に運が悪かった側面もあった。
家中は内部分裂し、力のある叔父たちが好き勝手振る舞い、西からは「尾張の虎」織田信秀が触手を伸ばしてくる。
はっきり言えば、状況が悪すぎた。
二四歳の若さで凶刃に倒れたことも不運だった。
これではいかに優秀でも、その才を存分に振るえるものではない。
世の中結果が全てだ。
結果を残せなかった広忠は、だから歴史には凡庸と記される。
だが広忠は、三河を若くして統一した松平清康の子にして、天下統一を果たした徳川家康の父である。
その血と才覚は、彼の中にも脈々と着実に流れているのだ。
つやが一石を投じた運命の歯車の狂いが今、その彼の中に眠っていた凶才を白日の下に晒そうとしていた。
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