第二四話 天文十一年一二月下旬『老将、墜つ』織田信秀side

「ふぃぃぃ、一日の疲れがとれるのぅ」


 檜の縁に両肩を乗せてのんびりしつつ、織田信秀もまた風呂を楽しんでいた。

 まさか湯に浸かるだけのことが、ここまで気持ちがいいとは驚きである。


 下河原から運んできた温泉もまた素晴らしい。

 試しにただの水と温泉で入り比べてみたのだが、やはり翌日の疲労感の抜け具合が温泉のほうが高い。

 おかげで最近の信秀は、活力に満ち、老いてますます盛ん、とはまさにこのことだった。


「しかし、あやつの慧眼にはつくづく恐れいるわい」


 実はつやの発明の裏で、尾張では仕事にあぶれる者が出始めていた。

 それはそうだ。

 脱穀一つとっても、これまでの一〇〇倍近く早くなっているのだ。

 つまり、それまで百人でやっていたことを、一人でできるという事である。

 仕事を効率化するということは、それに従事していた人間の仕事を、収入を奪う、ということになることも多いのだ。


 だがつやは、守山の岩木堀と清州の城下街の活況で、そういうあぶれた者たちの仕事を作ってしまった。

 むしろ順調すぎて、今や人手が足りないぐらいである。

 遊郭の事にしても、短期では少々勿体ないとは思うが、長い目で見ればむしろ良い判断だったと信秀は思う。


 風紀の乱れを抑える事が出来れば、治安も安定する。

 治安が安定すれば、人の往来も増え、街も活気づく。

 遊郭そのものは城下街の外れに設置してあるし、管理もしやすく観光地にもなる。

 そして遊郭自体で織田弾正忠家が儲けられなくても、街でいろいろ金を落としてもらえば街全体が潤う。


 ならば、全体から運上金を取れば、織田弾正忠としては十分ぼろ儲けなのである。

 街の者たちにしても、税金が高くてもそれ以上に儲かるのだから文句もあるまい。

 遊女たちにしても、食うに困らず、劣悪な環境で働くこともなく、足抜けすることも容易。続けたいなら、高給は保障されている。

 誰も損をしない。


 実に見事な施策であった。

 清州の戦いではその武略に舌を巻いたが、まさか領地経営でまで非凡な才能を見せつけてくるとは、つくづくとんでもないというしかなかった。


「世間では今やあやつの事は『織田の鳳雛』などと呼ぶようじゃが、まっことあやつは儂にとって瑞鳥そのものじゃな」


 大事にせねばなるまい。

 さしあたっては何か褒美を与えたいところだが、これがまた難しい。

 領地や地位、役職にはあまり興味を示さない。これ以上を与えても、嫌そうに顔をしかめる姿が容易に想像がつく。


 かといって着物や櫛など、女が喜ぶものにもあまり興味を示してる節がない。

 見てきた感じ、つやが強い興味を示すのは、美味い物と快適な生活環境の二つだ。

 だが、そのどちらも彼女は自分で創り出せてしまう。

 醤油も出汁もプリンも水車動力も風呂も。

 どれもこれも素晴らしく、これらを上回るものなど与えようがない。


 となると、今後の開発資金の提供が一番喜ばれそうではあるのだが、褒美が金というのはなんとも味気ない。

 何かそれ以外で喜んでもらえるものをあげたくなるのが人情だった。


「ふむ、それとなくあの女中たちに聞いてみるか」


 確かゆきとはると言ったか。

 一番、つやのそば近くに仕える者たちであるし、何か良い案をもたらしてくれるかもしれない。

 そんな他愛無いことをつらつらと考えていたその時だった。


「守護代! 入浴中失礼致します! たった今、伝令が!」


 小姓の一人が浴室へと押し入ってくる。

 名を下方貞清(しもかたさだきよ)という。

 精悍な顔立ちの中にはどこか獣性が潜み、危険な匂いが香る少年である。

 実際、武勇の腕はかなりのもので、信秀が将来を嘱望する若者の一人だった。


「ちっ、何事じゃ?」


 舌打ちを隠さず、信秀は返す。

 風呂は多忙にして重責を担う信秀にとって唯一、くつろげる空間であり時間である。

 それを邪魔されれば、それは不機嫌にもなろうというものだった。


「はっ、三河の松平長親が亡くなったとのことです!」

「なにっ!?」


 まったくもって寝耳に水な報告であった。

 と言うのもつやの予言では、松平長親が死ぬのは天文十三年、すなわち再来年の八月だったはずだ。

 まだ一年半以上も先のことが起きた?

 いったいどういうことだ!?


「……だが、好機であることは間違いない、な」


 想定外の事に混乱しつつも、すぐに頭を切り替えそこに思い至れるあたり、やはり信秀は非凡な将であった。


「松平信孝の専横に、すっかり家中は割れておるようじゃし、のぅ」


 すでにその表情からは、先ほどまでの緩みは一切かき消え、冷徹な戦国大名のものとなっていた。


 松平信孝は、信秀が今、虎視眈々と狙っている三河国を治める松平家の当主、松平広忠(徳川家康の父)の叔父であり、まだ十七歳と年若い当主に代わって、現在の松平家を実質的に切り盛りしている男である。


 ただ広忠の側近たちの間での評判はあまりよろしくない。

 それと言うのも、当主代行の立場を利用して、松平親長や弟の松平康孝の遺領を我が物にしてしまうなど、自らの勢力拡大に余念がないからだ。。

 信孝は広忠になり替わり自らが松平家の惣領になろうとしているのではないか、ともっぱらの噂である。


 そこに、一族の最長老として家中をからくもまとめていた長親の死だ。

 今後、松平家中の不協和音は増すばかりだろう。


「くっくっくっ、予定よりずいぶん早いが、では儂も本格的に動くとするかのぅ


 にぃぃぃっと信秀が「尾張の虎」の二つ名に相応しい、貪欲な猛獣の笑みを浮かべる。

 後に第二次安祥合戦と呼ばれる戦いが今、静かに幕を開けようとしていた。




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