第十二話 天文十一年四月下旬『信長、義父と邂逅す』斎藤利政(道三)side
稲葉山城――
稲葉山という天然の要害に築かれた山城であり、さらに二年前の大改修により、今や難攻不落の堅城と化していた。
そしてまさに今年、主君であった土岐頼芸を尾張へと追放し、事実上の美濃(岐阜県)の国主となった斎藤道三の居城である。
とは言っても、山頂の本丸は日常で使うには不便極まりない。
なので山麓に居館を構え、道三は普段そこで政務を取り仕切っていた。
「御館様」
「ん? どうした?」
小姓からの呼びかけに、道三はぴたりと筆を動かす手を止める。
その顔には幾重にも刻まれたしわや、目の下の隈、すっかり禿げ上がった頭に白い口髭と、疲れ切り老い衰えた印象が漂う。
身体も小さく細く、一介の商人の身から美濃の国主まで上り詰めた奸雄とは思えぬなんとも冴えない風体の老人である。
「尾張より
「ほう」
その報告に、ギラリと道三の眼に鋭い光が疾る。
にぃぃっとその口の端が吊り上がっていく。
「おっと、いかんいかん」
言って道三が頬のあたりを親指でぐにぐにすると、また再びうだつの上がらない冴えない男になる。
本性を見せては相手に警戒される。
常日頃から意識して、入念に隠し通さねばならない。
「ふむ、早速会おう。表書院に連れてこい」
「はっ!」
返事とともに、小姓は廊下を駆けていく。
「どれ」
道三も立ち上がり、姿見の前に立つ。
瞬間、道三の顔の印象ががらりと豹変し、にこやかで優し気な好々爺となる。
「ふむ。違うな、これか?」
次に鏡に映ったのは、身体は小柄ながら、威厳と風格に満ちた老人だった。
見るからに一廉の人物の雰囲気をまとっており、これなら美濃国主と言われても、誰も疑いはしないだろう。
「いや、こっちか?」
今度は今にも怒鳴りつけてきそうな険しい顔つきの偏屈爺である。
一睨みするだけで、大抵の子供は委縮してしまいそうな圧があった。
「うむ、これだな」
納得したように、道三は頷く。
利政の経験上、人は出会って数秒でその人の印象を決めてしまう。
そしてその印象をかなり長く引きずってもしまう。
ならば、初手から自らの表情や雰囲気を操り、相手に与える印象を制御してしまえばいい。
そうすれば相手を意のままに操りやすくなる。
これが彼のいつもの手であった。
「さて、織田家の嫡男か。まずはその胆力、見定めさせてもらおうか」
道三はニッと口の端を吊り上げ、表書院へと向かう。
表書院は、道三が来客の応対に使う部屋である。
すでに下座には男児が正座で待っていた。
(ふん、あれが噂のうつけ者か。なるほど、なかなか太々しい顔をしておるではないか)
全て自分の思い通りにする、しなければ気が済まない。そんな傲慢さが顔つきから滲み出ていた。
道三の経験上、こういう面相の人間は大成功するか、うだつが上がらず底辺でもがき続けるかのどちらかだ。
年は確か九つのはずだが、年の割には身体がかなりでかい。一一か一二ほどに見える。
(ふむ、ちょうどおあつらえ向きか)
一計を案じ、道三は上座にどかっと乱暴に腰を落としきょろきょろと周囲を見回して問う。
「ん~? 吉法師殿はどこにおられる?」
「俺が吉法師でござる」
目の前の少年が臆することなくはっきりとした声で返してくる。
「あ~~!?」
瞬間、道三は苛立ちも露わなドスの効いた声をあげた。
表情もさらに険しくし、怒気に満ちた眼差しを吉法師へと向ける。
その上で、
「嘘をつくなぁっ! 吉法師殿は九つと聞く! 貴様は明らかに一一か二ではないか。おのれ信秀殿は盟を違たがえるおつもりかぁっ!?」
広い表書院の外にまで響き渡るような大喝を叩きつける。
部下相手にたまにやるが、大の男でも恐怖で引き攣るほどの迫力である。
並みの子どもなら小便を漏らしかねない代物だったのだが、
「ふう……」
「っ!?」
吉法師は、むしろ呆れたような嘆息をしてのけたのだ。
この状況で人を食ったような態度を取ってのける胆力に、道三はまず瞠目する。
「美濃の蝮と聞いていましたが、どうやら
「ほう」
道三は感嘆の吐息をこぼす。
狐狸とは人を化かすものだ。
すなわち道三の演技を見抜いたということである。
「よくぞ見破った。なぜわかった?」
怒りの面から威厳の面に付け替え問う。
だがそれにもやはり吉法師はなんら委縮した様子もなく、
「傅役の政秀から斎藤道三殿は謀はかりごとの達人と聞きました。そんな人物が俺の容姿の特徴を聞いてないなどあり得ませぬ」
「ほう、なるほどのぅ」
にぃっと道三は口の端を吊り上げる。
人間、想定していない状況に出くわすと、動転して頭が真っ白になりがちである。
怒鳴られるなどという咄嗟にして危機的な状況の中でも、冷静に落ち着いて素早く合理的に判断する。
口にするのは簡単だが、実際にできる者となると限られてくる。
そしてこの時代にあって、将たる者に最も求められる資質であった。
「さすがは婿むこ殿。合格じゃ。すまんな。可愛い娘を娘を嫁にやるのだ。その相手がいかほどの者かちょっと試してみたくてのぅ」
この言葉に嘘はない。
そういう気持ちもちゃんとある。
だが、それだけでもない。
今後の戦略を考える上で、隣国の次期国主の器量を見ておきたかったのだ。
そして道三から見るに、吉法師の胆力と知力は水準を大きく上回る。
これはなかなかの逸物と言えた。
「ありがとうございます。それで、いつ本物の道三様にはお会いできます?」
「ふん、影武者を疑っておられるのか? 儂は本物じゃ」
吉法師の言葉に、少なくない感心を覚えつつ道三は返す。
この用心深さも評価できる。
なるほど、これが後継なら同盟国は次代も安泰そうである。
だが、吉法師の次の言葉に、道三は今度こそ耳を疑った。
「ならばこう言い換えましょう。いつ貴方の本当の貌かおをお見せ頂けますか?」
「っ!?」
さすがの道三も唖然とし、二の句が継げなかった。
これは完全に気づいている。
まだ道三が本性を隠して接していることに!
「……なぜわかった?」
仮面を外し、利政はジロリと吉法師を見据え、冷たく底冷えする声で問う。
今の道三の顔に浮かぶのは、冷酷な蛇の相である。
これが道三の本性だった。
草むらに隠れ、敵を冷たく観察し隙をうかがい、好機と見れば一息に呑みこむ。
まさに美濃の蝮まむしとはよく彼を表した言葉だったのだ。
「ああ、やはり。単なるかまかけだったのですが、当たりでしたか」
いけしゃあしゃあと吉法師は得意げにほざく。
道三は小さく舌打ちし、
「とぼけるでない。今、おぬし、やはり、と申したであろう? 確証はなくとも、ある程度の見込みはあったはずじゃ。なぜそう思った?」
「俺ならばそうする、と思っただけです」
ニッと吉法師は口の端を吊り上げる。
なんともふてぶてしいガキである。
だが、道三は怒るよりも、俄然この少年に興味が湧いた。
「ほう? 続けよ」
「人を騙すのなら、二段構え、三段構えにする。そして人は一度罠があった場所を再び調べようとは思わぬものですから」
「まさしく!」
端的ながらも的を射た吉法師の言葉に、パァン! と道三は自らの膝を叩く。
我が意を得たり、とはまさにこのことだった。
仮面を外した風に見せれば、人は次のそれを本物と勝手に思い込む。
その心理を利用し、もう罠がないと思わせたところで本命の罠を張るのだ。
さすれば、ころっと人は騙されてくれるのである。
「その年でよくそこまで思い至ったものよ。大したものじゃ。誰に学んだ? 父の信秀殿か? 師である沢彦たくげん和尚か?」
「あえて言えば……実践から、でしょうか」
「ほう! 実戦とな!?」
思わず道三は眼を丸くする。
目の前の少年はまだ数えで九歳のはず。
まだとても戦に出れるような年齢ではない。
いったいどういうことだと思ったら、
「ええ、政秀や供の者に悪戯を仕掛ける時、そうしたほうが明らかに成功するので」
「ぷっ! くくくっ、なるほどのぅ」
その内容に思わず吹き出してしまう。
実践と実戦をかけて、こちらに一杯食わせようとしてきたのも見逃せない。
自分ともあろうものが、子どもだと油断してまんまと引っかかってしまった。
実に小癪である。
「これは確かに大うつけじゃな! 平手殿も苦労したじゃろう」
大人を使って人を騙す練習をしているのだ、この小僧は!
周りにしてみればいい迷惑であろうが、実践に勝る訓練はない。
上級武士なら兵法書の類を読む者も少なくないが、だいたいは知識として知っているでしかない。
知識は所詮、知識。知識は上手く使えなければ意味がないのだ。
その点、この小僧は間違いなく、知識に振り回される側ではなく、知識を活かせる側だった。
「だが儂は気に入った、そなたが心底気に入ったぞ、婿殿! ふはははは!」
この時の道三の笑みは珍しく、心からの笑いである。
人間五〇年と言うが、道三は今年四九になる。
死ぬ気はまださらさらないが、もういつお迎えが来てもおかしくない年だ。
だが、子どもにはろくなのがいない。
長男の豊太丸は身体も大きく武勇には秀でているが、それでは所詮、将止まりである。
孫子にも『兵は詭道なり』とある。
それができぬ豊太丸に、帥たる器はない。
どうしたものかと途方に暮れていたのだが、道三はついに見つけたのである。
自らの全てを継がせるに相応しい後継者を!!
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美濃の蝮は、当時の呼ばれ方ではなく、後世に付けられた二つ名だそうですが、そこは物語のエンタメ性を優先して、当時からそう呼ばれていることにしました。
また、この時期の斎藤道三は斎藤利政と名乗っていましたが、わかりやすさ重視の為、道三としました。
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