第十一話 天文十一年四月下旬『駿府の主』今川side
織田信秀が『つや姫アイドルプロジェクト(意訳)』を水面下で推し進め始めた頃――
駿府今川館では、ある男が届いた書状を読み耽っていた。
駿府はつやたちがいる尾張国のはるか東方、三河国、遠江国を挟んだ先にある駿河国(静岡県中部から東部)の中心地である。
律令の時代から国府が置かれ、今は荒廃した京から公家たちが多数流れてきたこともあり、公家文化が絢爛豪華に花開き、繁栄の絶頂期にあった。
その「東の都」を治めるのが、彼、今川義元である。
「ほう、あのコソ泥風情が、尾張守護代となったでおじゃるか」
書状を読み終わるや、義元はお歯黒で染まった歯を剥き出しにして忌々しげに吐き捨てる。
口調と言い、置眉に白い薄化粧という容姿といい、まるで京都の公家を思わせるような青年である。
そして、コソ泥とは過去、今川家のものであった那古野城を、信秀による卑怯な騙し打ちによってまんまと奪い取られた事を指している。
今川にとってはまさに信秀は恨み骨髄の仇敵だったのだ。
「そのような者が幅を利かせる辺り、まっこと現世は末法の世と言うことでしょうな。嘆かわしいことです」
義元の前に座る坊主が、ふうっと嘆息して言う。
年の頃は四〇半ばほどか。
坊主というにはその顔は険しく、目も鋭い。
見る者を圧倒する只者ならぬ異様な雰囲気をその身にまとっていた。
「師はこの事態をどう見るでおじゃる?」
義元が書状を坊主へと放り投げて問う。
義元が師と呼ぶ人間は、この今川館にあって一人しかいない。
太源雪斎。
今川家の執権として、内政・軍事・外交全てにおいて辣腕を振るう、まさに黒衣の宰相だった。
「率直に申せば、少々、驚いておりまする。信秀めは敵と見定めた者には容赦ないが身内に存外甘く、尾張をまとめきれずに何かの拍子に瓦解する、と思うておりましたので……」
雪斎の言葉は、まさに慧眼の極みと言えた。
史実においてはまさに、信秀はこの読み通りに凋落していったのだから。
「つまり尾張の虎は、師の予想をも上回る傑物じゃった、ということでおじゃるな」
義元はつまらなさげに鼻を鳴らすも、雪斎は小さく首を左右に振る。
「いえ、それがそう単純な話でもなさそうでして……」
「? どういうことでおじゃる?」
「どうも今回の守護代交代劇、裏で絵図を描いた者がいるようです」
「ほう? この報告書にあったつやとかいうおなごのことでおじゃるか?」
「はい、スサノオの巫女を自称し、様々な献策を行っているとのことです」
「ふぅむ、にわかに信じ難いのぅ。我が母の事もあるから女だからと馬鹿にするつもりは毛頭ないでおじゃるが……」
むぅぅと義元は眉をひそめる。
義元の母寿桂尼は、先々今川氏親が死去してから、若年だった当主を補佐し、国務を取り仕切り、後の世では『女戦国大名』とまで呼ばれた女丈夫である。
今や駿河・遠江の二カ国の太守である義元だが、この母にだけは頭が上がらないのだ。
「とはいえ報告によれば、まだこの娘、八歳でおじゃるぞ? 士気を高めるための吹かしではないかえ?」
いぶかしげに、義元は問う。
戦において、士気や大義名分は最重要である。
その為に、天の啓示だの御仏が枕元に立ったなどと嘘でものたまうのは、実によくある手ではあった。
「その可能性もなくはありませんが、津島と熱田が今、かつてない活況ぶりを見せているのは確かです」
「む?」
思わず義元は眉をひそめる。
いきなり話が飛んで、ついていけなかったのだ。
「スサノオの巫女の作った品が今、次々と売りに出され、それは凄まじく便利であり、飛ぶように売れているのだとか」
「ほう? 例えばどのようなものでおじゃる?」
俄然、興味津々で義元は目をキラキラさせる。
彼は今川家の当主就任以来、京の最先端の文化を積極的に取り入れてきた。新しい文化に目がないのである。
「いくつかありますが、たとえば千歯扱きなるものは、四日分の脱穀が、たった半刻で終わるのだとか」
「なんと! それはさすがに嘘でおじゃろう!?」
「確かです。我が手の者が購入し、実際に試してみました」
「むぅぅぅ、それはすぐさま我が領内にも取り入れねばのぅ」
唸りつつも、やはり義元は英邁な傑物だった。
仇敵のものであろうとも、便利なものなら取り入れる。
そういう柔軟さが、彼にはあるのだ。
「はい。他にもそろばんという計算器や、
「ふぅぅむ、それは良いとして、そんなに立て続けでおじゃるか。スサノオの巫女とやらも、あながち吹かしではない、ということかのぅ」
「ええ、スサノオの巫女の知恵を得た織田家は、おそらくこれから急激に力を付けていく事になるでしょう」
「なんとも面白くない話でおじゃるな」
ぶすっとした顔で、義元はパンパンと扇子で自らの手のひらを叩く。
いらだっている時の彼の癖だった。
義元は当主となるや、長年の盟友であった北条家に裏切られ河東の地を奪われ、遠江では臣下であったはずの堀越氏や井伊氏にも離反され、尾張では信秀めに那古野城を騙し取られるなど、どうしようもない不運が立て続けに起こってきた。
雪斎との二人三脚でなんとか苦境を乗り越えてきはしたが、正当なる守護である自分がここまで踏んだり蹴ったりだったというのに、なぜコソ泥風情がスサノオの助力を得られとんとん拍子にいくのか!?
あまりの理不尽に、到底納得がいかなかったのだ。
「さらに面白くない話がございます」
「……はあ、聞きとうないが、言うでおじゃる」
まだあるのかと疲れた嘆息の後、義元は続きを促す。
「信秀は美濃の斎藤と盟を結び、居を鳴海へと移しました。これまでの信秀の行動から察するに、おそらく次の狙いは三河かと」
「ちっ、本当に面白くない話よのぅ」
義元は忌々しげに吐き捨てる。
三河は今まさに、今川家が触手を伸ばしているところであった。
一昨年、三河を実質的に支配していた松平信定の死後の混乱に乗じて、自らの息のかかった松平広忠を三河岡崎城の城主に据えることに成功し、まさにこれからというところだったのだ。
「…………戦うしかあるまいのぅ」
しばしの瞑目の後、覚悟の定まった声で義元は言い切る。
いずれ京に上り、天下に覇を唱える。
それが義元の夢だった。
三河と尾張は京へと攻め上がる通り道である。
いかな強敵であろうとも、避けて通るわけにはいかなかった。
「祖父からの宿願、諦めるわけにはゆかぬ」
ぎりっと扇子を握り締めつつ、義元は獰猛に口の端を吊り上げる。
京文化を積極的に取り入れているのも、公家の言葉と格好を真似ているのも、あくまで京に上った時、恥をかかぬ為である。
所詮は仮面に過ぎない。
その奥底に潜む戦国大名に相応しい獰猛な野心が顔を覗かせていた。
「『御所が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ』……でしたな」
「うむ」
義元は力強く頷く。
今川家に代々言い伝えられてきた言葉であり、そして祖父が折に触れ、口にしていた言葉でもある。
御所とは将軍家のことであり、今の将軍家には天下を治めるだけの力がないことは明らかだ。
三河の吉良も同様である。
ならば自分が新たな将軍となり天下を治めるののが筋というものであろう。
義元は心の底からそう思い、その為にこれまで邁進してきたのだ。
「さすれば拙僧に妙案がございます」
「ほう?」
義元は興味深げに身を乗り出す。
師の聡明さ、慎重さ、堅実さは、長年見てきた自分が一番よく知っている。
その師が妙案があるというのなら、本当に事態を打開する一手に違いなかった。
そして、義元は与り知らぬことだが、それは歴史を大きく変える一手でもあった。
歴史はつやという異分子によって、ゆっくりとしかし確実に狂い始めていた。
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