第三八話 天文十一年三月上旬『仇敵再来』
「今や織田家中は姫さんの話題で持ちきりっすよ。女孔明だって。あの中国最高の知将に例えられるたぁ、か~、羨ましい!」
信友への沙汰言い渡しを見届け、下河原の屋敷への道すがら、護衛の成経がく~っと興奮しきりに言う。
この時代の武士たちにとって三国志の英雄にたとえられるのは、最高の誉め言葉である。
有名どころだと、竹中半兵衛の『今孔明』、本田忠勝の『今張飛』などがそれである。
まあ、現代知識を流用してるだけのわたしには、ちょっと荷が重いかなぁ。
「なら、成経もいつか今関羽なんて呼ばれるよう精進するしかないわね。差し当たっては、孫子をそらんじられるようになるところからかしらね?」
「うげっ、
ふふっとわたしが悪戯っぽく笑って言うと、彼はなんとも嫌そうに顔をしかめる。
我が家中では、まだ一〇代の家臣には、朝晩半刻ずつ皆で勉学に励む時間を用意しているのだけど、成経はそこのサボりの常習犯なのだ。
「姫さんって意外と意地悪っすよね」
「あ~、確かにそういうとこあるかも」
なんか親しくなってくると、ついついその相手をからかいたくてからかいたくて仕方なくなってくるのよね。
わたしの悪い癖だ。
「まあ、でも真面目な話、武士として孫子ぐらいは暗記したほうがいいと思うけどね?」
「いや~、親父から良く説教されるんすけど、な~んかそういう覚えちゃうと、嗅覚がなくなる気がするんすよね」
「へえ?」
まあ、天才肌の人間がよくする言い訳である。
だいたいはあくまで天才『肌』でしかなくて、結局、何も身につけられず何者にもならずに終わるのが常なのだが……
「ふむ、なら、いいわよ別に。サボって」
「いいのかっ!?」
あっさり言うわたしに、成経は目を見開く。
まさかサボっていいなんて言われるとは、思っても見なかったのだろう。
実際、成経以外だったなら、こんなことは言わなかった。
だが彼の嗅覚は、『本物』だ。
わたしのヤバさ、達勝の居場所、そう言ったものを理屈ではなく第六感的に嗅ぎ分けている。かなり精度が高く。
お勉強ができるやつならいくらでも替えは聞くが、成経の嗅覚は唯一無二と言える。
なら、それを失うほうがうちとしてはデメリットが大きかった。
「まあ、実際、頭で考えると勘働きが途端に悪くなるってのは確かだしね」
そういうスランプ時期を乗り越えると、以前を超えた勘の精度を手に入れられたりする事もあるんだけど、失ったまま取り戻せないなんてケースも多い。
現代みたいに何度もやり直せるような世の中じゃない。死んだら終わりだ。
そんな博打は打てなかった。
「さっすが姫さん、親父と違って話がわかるじゃねえか!」
勉強しなくていいとなって、すっかりご機嫌になる成経。
父親であるじぃにもその手のお小言いっぱい言われて辟易していたのだろう。
現代科学でも、義務になるとやる気を失うってのは統計的に明らかにされてるし、ここまで嫌ならもう勉強をさせたところで活きる可能性はほとんどないだろう。
ならむしろ嗅覚を鋭くできるほうに進ませるべきだと思う。
それとなく、じぃにも説明して取り持ってあげるとするか。
「っ!?」
突如、成経が険しい顔になり、足を止める。
わたしも気になって成経の視線の先を追い、瞬間、ゾクッと背筋に寒気が疾った。
そこにいたのは、信長――吉法師である。
射殺しそうな視線で、じっとわたしを睨んでいた。
「最近、ずいぶんと功をあげ、父上に可愛がられているらしいな!」
忌々しげに吐き捨てるように言う。
しかし、大した憎まれようである。
前々世の時、最期はともかく、幼少期は年も近くそこまで仲が悪くもなかったはずなんだけど。
まあ、能力主義、上昇志向の信長だしなぁ。
年下でありながら、自分より結果を出し父親に認められているわたしが、まさに目の上のたんこぶのごとく疎ましいのだろう。
なまじ親族で近しい存在なだけに。
「貴様が余計なことを父上に吹き込んでくれたおかげで、俺はしばらく美濃行きだ」
……あー、そういやそうだっけ。
武衛様暗殺からのごたごたで、頭の中からすっぽりスコーンと抜けてたわ。
あれ? でも下剋上を認めないと言っていた先代武衛様はすでに亡くなってるし、織田大和守家も今まさに攻め滅ぼしたところである。
もうこいつを斎藤家の人質に送る必要ほとんどないような?
まあ、すでに一度取り決めた約定をこちらの都合で反故にするわけにもいかないのだろう。
約束破りは諸国の信頼を大きく損なう。史実における武田家のように。
信秀兄さまとしても、それは避けたかったのだろう。
とりあえず下剋上のほとぼりが冷めるぐらいまでは、といったところかな。
まだ美濃支配が安定していない斎藤家としては、織田家とのつながりを近隣諸国にアピールしてけん制したいところだろうし。
とはいえまあ、数え九歳の子供が両親や住み慣れた場所から離され、見知らぬ人間しかいない遠い土地に飛ばされるのだ。
そりゃ嫌で嫌で仕方ないに違いない。
わたしも普段なら、かわいそうにと思うかもしれない。
「へ~、ご愁傷様」
が、わたしは平坦な感情のこもらない声で、適当に返す。
こいつには前々世でも、今世でも酷い目に遭っているのだ。
さすがに同情する気には到底なれなかった。
むしろ怖いいじめっ子がお引越ししてくれるのである。
万歳三唱で送り出してやりたいぐらいだった。
そんなわたしのそっけない態度が気に障ったのか、吉法師はぎりっと奥歯を噛み締め、
「今はせいぜい勝ち誇っておけ。だが、俺は負けん。俺はいずれ天下を統べる男だ。貴様ごときになど負けてはおれんのだ!」
自らに言い聞かせるように吼えるや、吉法師は
宣戦布告ってやつか。
たったそれだけの事を言うためだけにわたしを待っていたのか。
暇というか、執念深いというか。
やれやれである。
まあでも、暴力を振るってこなくなっただけ、多少は感情を抑えられるようになったのか?
「なんともはや……うつけと聞いてたがとんでもねえ。さすがは尾張の虎の嫡男。大した覇気だ」
そう言う成経の顔は緊張に引き攣っていて、その頬を汗の珠が流れ落ちていく。
喧嘩上等、気に入らなければ目上にだろうが意地を突っ張り通す怖いもの知らずな成経が、まさか気圧されてた!?
あんなわたしとそう年が変わらないようなガキに!?
「ありゃあ絶対、将来大物になるぜ。天下を統べる男になるってのもあながち
「ちょっと会っただけだっていうのに、随分と評価したものね?」
「ここまで鳥肌が立ったのは初めてだ。そりゃ一対一の戦いなら絶対に俺が勝つ……はずなんだが、存在の格が違うってーのか? 一人の男として勝てる気がまるでしねえ」
わずか数え九歳で、成経にそこまで言わせるか。
そしてその評価は、決して間違いではない。
実際、織田信長は明智光秀の謀反さえなければ、ほぼ間違いなく天下を統べていたのだから。
「武者震いが止まらねえ。先に姫さんに会ってなかったら、思わず仕えたくなってたかもな」
成経はにぃっと獰猛に口の端を吊り上げる。
大した惚れこみようである。
史実でも信長がまだ若くうつけと侮られてた頃から一貫して仕えてたらしいしなぁ。死にざまも信長を守って奮戦して戦死。
それだけ彼にとっては惹かれるものがあるのだろう。
「後悔してるの、わたしに仕えたこと?」
「ん? いや別に。姫さんも負けてねえぜ? 前に言ったろ。やべえ臭いがぷんぷんするってな」
「そういや言ってたわねぇ」
でもわたしのは、ちょっと二一世紀の知識でズルしてる感じのものだしなぁ。
それを加味しても「負けてない」、か。
現代知識でチートしても、互角にすぎないわけね。
さすがは織田信長といったところか。
「質は違うけどな。あの若様が項羽だとしたら、さしずめ姫さんは劉邦ってところだ」
「へえ?」
随分と高くわたしのことも買ってくれたものである。
いまいちピンとは来ないけど、とりあえず有難く受け取っておくか。
こいつのカンってめちゃくちゃ当たるからなぁ。
それに縁起もいいしね。
史実において、劉邦は項羽に何度も負けるけど、最後の最後で勝つのは劉邦なのだから。
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