第三六話 天文十一年三月上旬『清州の戦いその漆』決着
「はあ……はあ……」
織田信友は息も絶え絶えに馬を走らせていた。
三〇〇いた手勢は散り散りとなり、そばにいるのはわずか一〇人足らず。
大敗も大敗、大惨敗である。
が、背後を振り返っても追手の姿は見えない。
窮地は脱したのだ!
「ふっ、ふははははっ! 残念だったなぁ、信秀ぇっ!」
安堵とともに、気が大きくなり、笑みがこみあげてくる。
信秀としては、ここでなんとしても自分の身柄を押さえておきたかったはずだ。
なぜならば――
「斯波の赤子二人。こやつらを俺が握っている限り、貴様は強攻策には出れんよなぁ」
最大の切り札が、すでに信友の手の内にあるのだから!
正式な尾張の支配者斯波氏から代わりに統治せよと任されているというのが、織田大和守家の尾張統治の名目である。
その織田大和守家になり替わり守護代になろうとしている信秀としては、万が一にも斯波氏嫡流の二人を殺されるわけにはいかない。
大義名分を失ってしまう。
だとすれば結局、和睦交渉になるはずである。
そこでも、信友には切り札があった。
織田大和守家は、足利将軍家に幾度か恩がある。
その後見である六角氏にしても、お隣の北伊勢に領土を持ち、信秀の伸張を快くは思っていないはずだ。
和睦命令を出す事を頼めば、否とは言わないだろう。
そして、これには信秀も逆らえない。しぶしぶ受け入れざるを得ない。
つまり、清州城に籠もってさえしまえば、こちらの負けはなくなるのだ。
そう、清州城に籠もってさえしまえば――
「なっ!? なぜ城門が閉じている!?」
有り得ないことだった。
嫡養子である自分が出陣しているというのに城門を閉じるなど、あってはならぬことである。
しかも矢倉の上では、兵士たちがこちらに向けて矢を構えていた。
それに城壁に立ち並ぶあの旗はなんだ!?
あり得ないあり得ないあり得ない!
戦いが始まる前に目の当たりにし、目に焼きついた牛を象った家紋――
にっくきつやのものだった。
時は一刻(二時間)ほど巻き戻る――
「よし、行ったようだな」
つやの軍を追って駆けて行った清州勢の背を見やりつつ、成経はニッとあくどく笑う。
彼とその手勢一〇名はつやの密命を帯び、彼女の元を離れ、まったく別の場所にいた。
清州城の東に一〇町(一・一キロメートル)ほど、実家の佐々家の軍の陣頭である。
「ったく、全ては姫さんの思惑通り、ってか。これでまだ八つだってんだから、自信なくすぜ」
成経は苦笑とともに肩をすくめる。
明け方、つやたちがわざと目立つように接近し騒ぎ清州勢の注意を引き付け、信友を城兵ごと外に釣り出す。
その城兵は南で鶴翼の陣で待ち構えてる信秀率いる本隊が包囲殲滅し、別動隊である自分たちが手薄になった清州城をぶん獲る。
それがつやの作戦の全貌であった。
言葉にしてしまえば単純ではあるが、敵を思惑通りの方向に心理誘導をする餌が細部に散りばめられている。
罵倒だの、輿を捨てるだの、槍を捨てるだの、悲鳴の演技指導だの。
いちいち芸が細かすぎる。
こんなのをやられたら、戦上手とされる織田信秀や斎藤利政(道三)でさえ引っかかるのではないだろうか。
「んじゃ、兄貴、俺たちも行くとしようぜ」
ドンッと隣に立つ男の胸板を叩く。
普通の男ならよろめきそうなそれを受けても、しかし男はビクともしなかった。
「ああ」
男は無骨に端的に返す。
筋骨隆々というに相応しい体躯の持ち主で、年の頃は二〇を少し過ぎたぐらいか、顔立ちそのものは成経によく似ているのだが、眉間に深いしわが刻まれ口もへの字口と、生真面目で厳格な印象が強い。
彼の名は佐々
その後ろに控えるは、佐々家の手勢五〇名。
すでに鎧を身に着け槍を立て、戦闘準備万端だった。
「さぁて、暴れるぜぇっ!」
「ちょっ、待ってください、成経さん!」
早速踏み出そうとした成経だったが、同僚の太田牛一に前を防がれる。
彼もその弓の腕を買われ佐々党に加わっていた。
「役目はわかっていますよね?」
ちなみに、成経のお目付け役でもある。
生真面目で犬猿の仲でもある彼以外にこの役目は務まらない。
「あぁん? 斯波の若君の救出、だろ?」
それがつやから二人に最重要と与えられた任務だった。
『あの
下河原の屋敷で、出陣前につやが言っていた言葉だ。
目の前の戦いだけではなく、今後まできっちり見据えている。
その視野の広さにはただただ脱帽である。
『成経、あなたはわたしたちと逃げたい? 城で戦いたい? 聞くまでもないわよね?』
そう悪戯っぽく問うつやの顔も思い出し、成経の口の端が吊り上がっていく。
まだガキだというのに、つくづくいい女だと思う。
佐々成経という人間をよくわかっている。
逃げるのも兵法だと頭ではわかってはいるが、性には合わぬ。
武門佐々の家に生まれた者として、男らしく、血沸き肉躍る戦いに身を晒し、手柄を挙げることこそが、彼の本懐だった。
自分たちの働きいかんで、尾張の勢力図が激変する。
よくぞこんな武士にとって最高の晴れ舞台を用意してくれたものだった。
これで燃えなかったら男ではない。
「よし、佐々党、出るぞ。俺に続け」
成吉の号令とともに、佐々党が清州城へと静かに忍び寄る。
物見やぐらの見張りも、意識は遠くの合戦に向いているのか足元がお留守でまったくこちらの接近に気づいていない。
「なっ!? 曲者!?」
「敵襲ー! で、出あえっ! 出あえっ!」
二人いた門番がようやくこちらに気づくが、もう遅すぎる。
「ぐはっ!」
「がふっ!」
それまでとは打って変わって一気に駆け寄り、成吉は槍の柄で、成経は石突でそれぞれ一撃で門番を昏倒させ、そのまま雪崩れ込むように城内に侵入する。
「よし、すぐに城門を閉じろ!」
全員入城するや成吉の命が飛び、家来たちが数人がかりで城門を閉鎖する。
これで信友たちはもう、信秀たちにこてんぱんにされ逃げ帰ってきたところで、城に入ることもできなくなったわけだ。
まさしく袋のネズミである。
「兄貴! ここの守りは任せた!」
「任せておけ。それよりお前こそ……かかるなよ?」
成吉が念押すように言う。
かかる、とは馬が興奮しすぎて騎手の言うことを聞かない状態を指す言葉だ。
初陣で興奮してむやみやたらと突っ込むなよ、といったところか。
父成宗にも、出陣前に言われた言葉である。
「ったく二人とも心配しすぎだっての!」
「ならいいが、な」
「ふん、大手柄あげて佐々の名を轟かせてきてやんよぁ!」
グッと拳を突き上げ、成経とその手勢一〇名、そして兄から借り受けた佐々家の足軽一〇名は、本丸の方へと駆け出す。
まったく大きな体躯に似合わず、心配性な兄貴である。
武士としては、少々優しすぎるのではないかとこちらのほうが心配になる。
だが戦えば、世辞抜きに強いのは間違いない。
まだ成経も、木剣での試合では五本に一本しか取ることができないのだ。
そんな兄が守ってくれているのなら、まず突破されることはないだろう。
後顧の憂いなく、斯波家の跡継ぎ救出に専念できるというものだった。
「あん? まだついてくんのかよ?」
ふと隣を見れば、牛一が並走してきていた。
成経は脚力には相当自信があるほうだが、それについてくるとは生意気である。
「当たり前です。拙者は貴方のお目付け役ですから」
「けっ、ちゃんと任務は覚えてるっての。お前は城門を守ってな」
牛一は弓の名手ではあるが、白兵戦はそこまででもない。
城門の守りこそが適材適所というものである、という冷静な判断からの言葉であったが、
「前に言った通りです。鶏頭の貴方は役目を忘れそうですから」
「けっ、やっぱいずれてめえとは決着つけないといけなさそうだな?」
やはりどうにも、こいつとは根本的に反りが合いそうにない。
言葉のいちいちがムカつくのだ。
一回締めなければ気が済まない。
「別に拙者はその必要を感じません」
しれっと冷静に返してくるところも気に入らない。
「意見の相違だな。まあ、いい。てめえとの決着は後だ」
敵より先にこのいけすかない野郎を叩きのめしたいところだが、さすがにこの場でそんなことをしたら武門佐々の名に傷がつく。
兄からもつやの期待を裏切るなと念押しされてもいる。
成経としてもそれは、本意ではない。
ぐっとこらえて、手勢二〇名とともに、どんどん清州城の奥深くへと侵入していく。
すでに大半の兵は信友とともに出払っているのだろう、全く守兵に出くわさない。
順調と言えば極めて順調なのだが、
「ちっ、もっとばったばった敵を薙ぎ倒して突き進むみたいなのがよかったんだがな」
「物騒な事を言わないでください。戦わずに済むならそれに越したことはないです」
「ふん、臆病者が」
「無謀な蛮勇よりましです」
あー言えばこう言うとは、まさにこの事を言うのだろう。
まったくうざったいことこの上ない。
「っ!」
どう言い返してやろうかと思案しかけた瞬間だった。
成経はその場に急停止し、その障子戸を睨む。
「ここだ」
「ここ? いえ、信秀様から頂いた見取り図では、武衛様のお部屋はもっと奥……」
「いや、ここさ。俺の嗅覚がそう言っている」
「何の説明にも……」
抗議する牛一を無視して、成経はバァン! と勢いよく障子戸を開く。
そこには眠る赤子を抱えた、身なりのいい老人がいた。
ついで畳を持ち上げた武士が二人、こちらは老人の護衛といったところか。
畳の元あった場所には、なんとも不自然な穴が開いていた。
間違いなく、緊急時の抜け道だろう。
「当たりだな」
成経はニッと獰猛な笑みを浮かべる。
今、この状況で真っ先に逃げ出そうとしている身なりのいい老人こそ、現織田大和守家当主、尾張守護代、織田達勝であり、眠る赤子は、次の尾張守護となる、斯波義統の遺児にまず間違いなかった。
「……よくわかりましたね」
隣では、牛一が驚きに目を見開いている。
してやった感じであり、なかなかに気分がいい。
「なんか臭ったのさ」
成経はトントンと自らの鼻を叩く。
もちろん、比喩ではある。
中から複数人の人の気配がしたこと。かすかに小さな物音がしたこと。
あえて言えばそんなところか。
しかしそれは、他の部屋の前を通過した時にも感じなかったわけではない。
ただ、この部屋だけはここだ! と感じたのだ。
その理由を詳しく言葉にすることは出来ない。
成経の勘が強く訴えた、としか。
だが、それでいいと成経は考える。
戦場で戦っている最中に、いちいち理由など考えている暇はない。
重要なのは、ほんの些細な、しかし大事な違和感を感じ取ることだ。
「ほんっと動物みたいな人ですね。前世は犬か何かですか?」
「ちっ、もう少しましなたとえはねえのか、この唐変木!」
成経は忌々しげに舌打ちする。
素直に褒めればいいのに、憎まれ口を叩きやがる。
せめて格好よく狼とでもたとえてくれれば、こちらも気分よく聞き流せたというのに。
つくづくこの男は、自分をイラつかせる天才だと思った。
「ま、今はこっちが先だな」
今はこんな奴の相手をしている暇はない。
最高の獲物が、目の前にいるのだから。
「殿! 私たちが引き留めます!」
「若様とご一緒にお逃げください!」
護衛たちが畳を放り捨て、刀を抜き放つ。
成経ほどになれば、構える姿を見ただけで、ある程度、相手の力量は読み取れる。
さすがは守護の護衛を務めるだけあって、なかなかの手練れではある。
だが――
「逃がすかよっ!」
ダンッ! と床を蹴って、成経は一気に護衛たちとの距離を詰める。
手練れ相手には少々不用意な仕掛けだが、ここで時間をかけては達勝に逃げられる。
ならば先手必勝しかなかった。
「おらぁっ!」
咆えるとともに、上段から思いっきり振り下ろす。
キィン!
見え見えの一撃は当然、相手の刀で受け止められるが、
「ふんっ!」
「なっ!? ぐあっ!」
力任せに押し切り、相手の肩口から胸元までをばっさりと斬り裂く。
鮮血とともに、護衛の一人が倒れ伏す。
ひとまず奇襲成功である。
こちらの勢いと腕力を見誤ったのだろう。
成経は一見細身ではあるが、腕相撲では誰にも負けたことのない剛力の持ち主なのだ。
「よくもっ!」
「おっと!」
もう一人が斬りかかってきたのを成経は上体を逸らして紙一重でかわす。
本来であれば一旦後ろに下がって仕切り直すところだが、時間をかけていられない。
「せあっ!」
成経は上体を起こすのと同時に、神速の突きを繰り出す。
が、護衛も手練れである。
仕掛けがやはり甘かったらしく、すいっと身体を半身にしてかわし、袈裟斬りを仕掛けてくる。
「ちぃっ!」
これはかわしきれそうにない。
急いては事を仕損じるとはまさにこの事を言うのだろう。
殺られる!
そう思った瞬間だった。
護衛の身体が後ろに突如のけ反る。
その右肩には、矢が突き刺さっていた。
その一瞬の隙を見逃す成経でもない。
「うおおおっ!」
咆えると同時に、即座に体勢を立て直し護衛を斬りつける。
利き腕を負傷した彼に、それを防ぐ術はなかった。
「はあはあ……」
倒れた相手が血の海に沈むのを見下ろしつつ、成経は息を整える。
今のはかなり危なかった。
「一人で突っ込みすぎですよ」
後ろからやれやれといった声が聞こえてくる。
後ろを見ないでもわかった。
矢を放ち、自分を救ってくれたのは牛一だった。
「うるせえ!」
苛立たしげに、成経は叫ぶ。
不具戴天の相手に助けられるなど、屈辱以外の何物でもなかった。
なかったのだが……
「……けどまあ助かった。一応、礼は言っとく」
ぼそっとぶっきらぼうに、背中越しにそれだけ返す。
牛一に礼を言うのは癪ではあったが、助けてもらっておいて礼すら言わないなど、男としてあまりにダサすぎる。
武門佐々の人間として、そんな男に成り下がるわけにはいかなかった。
「あなた……礼が言えたんですね」
「~~っ! てめえとはやっぱ後で決着つける!」
素直に礼を言ったらこれだ。
ほんとムカつく男である。
だが、彼がいなければ危なかったのもまぎれもない事実だ。
(親父や兄貴の言う通り、ちょっとかかっていたのかもな)
確かに手練れではあったが、本来の成経であれば完封できる相手ではあった。
さらに言えば、配下と連携して戦えば、より危なげなく仕留めることができたはずである。
初陣、そのうえ大手柄を前に、冷静さを欠いていた、ということだろう。
だが一方で、仕方なかったとも思う。
「あ……あああ……」
抜け道の入り口あたりで、達勝が絶望した顔で固まっていた。
赤子を抱いたままということもあって、ハシゴを降りるのを手こずったのだろう。
冷静に必勝を期して臨んでいれば、それだけ猶予を与え逃げられていたかもしれない。
禍を転じて福と為す、だ。
「くっ!」
我に帰った達勝が、慌ててハシゴを降りようとするが、
「逃がすかよ!」
成経は咄嗟にその襟首を引っ掴み、力任せに引っ張り上げ畳への放り捨てる。
「ぐあっ!」
「成経殿!? 若君もいるのですよ!?」
「ちゃんとその辺は計算したっての!」
目くじらを立てる牛一に反論を返しつつ、成経は尻もちをつく達勝の鼻っ柱に愛刀を突きつける。
「王手、だな」
「ぐっ、ぐぐぐっ……」
「親父ぐらいのじじいを殺すのは俺も寝覚めがわりい。投降して若君をこちらに渡しな」
鼻先に迫った刀身に怯む達勝に、成経は降服勧告する。
達勝がそれでも助けを求めるように左右に視線を泳がす。
だが、当然の事ながら、彼の味方はもうここには一人もいなかった。
「~~っ! これまで……か」
打つ手なしと悟った達勝が、がっくりと項垂れる。
ここに、清州城の戦いは幕を下ろす。
逃走していた織田信友も、城門を閉ざされ立往生していたところを、追いつかれた信秀の本隊にあっさりと捕縛された。
織田弾正忠家の完全勝利である。
作戦の立案から囮役、そして清州城の奪取と相手の総大将である達勝の捕獲に、斯波家の遺児の救出と、まさに
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