第二九話 天文十一年三月上旬『戦準備』
「
信秀兄さまが帰るや、わたしは早速、声を張り上げる。
「おうっ! ようやっと出番か」
笹の葉をクイクイしながら、物陰から成経が現れる。
騎馬武者が邸内まで乗り込んできた時点で、緊急事態であることを察し、待機していたのだろう。
その口元がにぃっと獰猛に緩んでいる。
戦の気配に、血が騒いでいるといったところか。
日常なら怖いけど、今は頼もしい限りである。
「これを持って日比津に行き、兵をかき集めてきなさい」
わたしはごそごそと袖の下から印籠を取り出して命令する。
印籠には表には織田の家紋の織田木瓜、裏にはわたし個人の印である牛を象った紋様が刻まれている。
水戸黄門よろしく、これを見せれば、わたしの主命であるということが証明できるって寸法だ。
ちなみに家紋が牛なのは、一家を立てたのだから家紋が必要と信秀兄さまに言われて、ぱっと頭に思い浮かんだのがそれだったのだ。
ほら、聖牛だったり、牛乳だったり、太田牛一だったり、どうにも今世は牛がらみが多いから。
あと前々世でも四番目の夫は「武田の猛牛」だし。
まあ、これも縁だろうって即断即決した次第である。
……ちょっと早まったかしら?
でも、けっこうこの紋様、気に入ってはいるのよね。
「あぁ? お遣いかよ」
成経は目に見えて失望を露わにする。
すわ戦だ、って思ってただけに、肩透かしを食らったといったところか。
「貴方だから頼んでいるわ。今回の戦は時間との勝負。うちで一番馬術に秀でているのは貴方でしょう?」
「ちっ、そう言われると断れねえな。わぁったよ」
印籠を奪い、成経はやれやれといった調子で厩舎へ走っていく。
そんな彼の背中を睨みつつ、隣でじぃが苦々しげに唸る。
「まったくいつまで経っても姫様への態度が変わらんな、あやつは」
「いいのよ。ああいう人も家来には必要だわ」
一方のわたしは、まったく気にした風もなくあっけらかんと言う。
みんながみんな、わたしに忖度し始めても、怖いものがある。
徳川家康なんかも言っているんだけど、相手が誰であろうと思ったことを口にする人材というのは、貴重で有難いものなのだ。
「とりあえず動員できるのは六〇人ってところかしら?」
うちの領地は石高に直すとざっと二五〇〇石。
一万石でだいたい二五〇人ぐらい動員できるらしいから、その四分の一となるとそんなもんだろう。
「はっ、それぐらいが妥当なところかと」
「そう。じゃあ、まあ、集まってくるまでのんびりしますか。とりあえずわたしはご飯が食べたいわ。ゆき~、準備してくれるー?」
「はい、急ぎ準備致します」
「お願いねー」
戦が何日続くかはわからないし、その間は温かいご飯はなかなか食べれなくなる。
兵糧玉とか芋がらの茎とか、食べたことあるけどクッソまずいしなぁ。
今のうちに食べ納めで腹いっぱい食べておきたいところだった。
「……随分と、余裕でございますな? 確か初陣でございましょう?」
じぃが呆れ半分感心半分といった様子で問いかけてくる。
まあ、確かに変に見えるだろうなぁ。
ボクシングの世界王者とかも、最も緊張したのはデビュー戦とか言うこと多いし、わたしも前々世ではそうだった。
地に足が付かなくて、浮足立っちゃってた。
それが普通なのだろう。
なのに今のわたしときたら、緊張するでもなく、不安に怯えるでもなく、迫る戦いに興奮するでもなく、ただただ自然体。
玄人くさいなって我ながら思う。
「まあ、まだ本番まで時間あるからね」
「いや、それでも大したものです。先の成経など見たでしょう? 気が逸って明らかにかかっておりましたわ」
なかなか辛口な評価である。
わたしからすれば、ああやってわくわく楽しみにできるだけでも、大した肝っ玉だと思うけどね?
「いざとなれば、わたしも緊張すると思うわよ?」
さすがに前々世から通算すると三度目のわたしと比較されるのはかわいそうなので、適当にお茶を濁しておく。
しかも前二回は敵に完全包囲されての籠城戦。
あの神経すり減らす、終わりの見えない地獄の持久戦から比べれば、今回の戦なんてビクビクするはずがないのよねぇ。
だって……
勝ち筋はもう見えているのだから。
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